「千里丘陵の記憶」

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平成十三年二月一日

 1. 赤土の丘

 戦後最大のイベントといはれた「日本万国博覧会」が大阪の千里丘陵で開催されようとしていた前々年の千九百六十八年、私はその千里丘陵の赤土の上に立っていた。そして、その年の六月十一日朝日新聞の朝刊十面の隅には次のような小さな記事が掲載されていた。
 
【大阪】
 日本万国博の展示館の建設が、いよいよ七月から始まる。まず、カナダと国内の企業グループが一日に起工式をあげる予定で、これをきっかけに内外とも出展グループの動きが活発になる見通しだ。
 
 大阪府下、千里丘陵の会場地約三百三十万平方メートルは、敷地の造成、区割りが終わり、地域冷房の配管工事を除き、水道、ガス、電話などの地下埋設工事も八月中に完成する。協会が十日まとめた調査資料によると、一日に起工式をするのは、外国館ではカナダ、国内館では古川、三菱、ワコール・リッカー、タカラ椅子販売の各グループと鉄鋼連盟。
(略)
 また、ベルギーもすでに工事を請負う業者をきめており、九月にかけて工事をはじめる外国や国内企業グループが多いといわれている。
  
 私が目にした三百三十万平方メートルという広大な丘陵地は、竹やぶがまだあちこちに散在していたが、まもなくその竹やぶも整地されて「万博」の敷地が出現しようとしていた。
私は東急エージェンシーという広告代理店に勤務していたが、当時は未だ国の機関だった専売公社の出展スタッフとして私は初めて大阪に派遣されていた。

 それまでは広告代理店でラジオ・テレビのコマーシャルを制作していた私は、僅か一年前から博覧会出展の企画・制作・施工を担当し始めたばかりで、建築図面の解読も、官公庁用の膨大な建築見積書の作成も、建築競争入札も、当時わりあいおおっぴらだった「談合」のやり方など、ありとあらゆるものが初めての経験で、見よう見まね、にわか勉強でしゃにむに一年をやり過ごしてきたものの、要するにずぶの素人であることにかわりはなかった。

 今にして考えれば、これほどの重要にして畑違いの仕事を引き受けた会社も会社だったが、私を含めた四人のスタッフも何かに衝き動かされているような不思議なエネルギーでこの仕事を、とりあえず施工段階にまで押し進めてきたのだったが、それは「めくら蛇に怖じず」と見ることもできたし、何か時代の大きなエネルギーに動かされていたのかも知れなかった。

 その日、私は一人で大阪の千里丘陵の「現場」に乗り込んで来たのだったが、竹やぶをはがした地面は赤土がむき出しになり、そのうえ前日からの雨で強烈にぬかるみ、あまり滑るのでほとんど歩けない状態になっていた。東京から履いてきた革靴は見るも無惨に黄色い衣に漬けたテンプラのエビのようで、黒い革が見えている所はなく、進入した泥で靴の中の指は冷えでストライキを起こしていた。

 私の来た目的は、一週間前に一番乗りでこの現場に来ている同僚と会うことになっていたのだが、実のところ私は今までに、こんなに広大な何かの敷地というものを見たことがなかったのだった。

 自分たちの「現場」となる場所がこの広大なぬかるみの何処なのか、配置図など見たところで何の助けにもならなかた。ただあちこちにプレハブの現場小屋だけが散らばって建っているのが見えるが、そのプレハブに行こうと思っても、自分とそのプレハブの間にあるのは、あまりに深く軟らかな赤土の山で、そこに足を踏み入れるのは無理なのだが、そうかといって目的のプレハブ小屋まで道らしきものがあるわけでもなかった。

 ろくにものを考えられない状態の私は、ひたすら戦場をほふく前進する歩兵のように動き回り、どこをどう辿ったのかをつかめないまま、目的の現場小屋の横に来ていた。そしてまるで奇跡のように、私の同僚である雨宮君が突然私の目の前に現れたのだった。
「ご苦労さんです。」
雨宮君はひとことそういって男っぽく微笑んだ。
彼によると、この一週間、パートナーである建築会社のプレハブ事務所の中に机一つ置かせてもらえず、彼は疲れるとそのプレハブの外の軒下で、降っても照っても、立ったまま休んでいるという。

 日本で初めて開催される「第一級一般国際博覧会」には、二百以上の国や団体が出展を予定しており、それを請け負う我々のような業者はいったい何社に及ぶのか見当もつかない。しかし再来年の三月十五日には開会のファンファーレと共に、一日何十万人という観客が押し寄せることだけは想像がついたのだ。だからこの広大な敷地に点在するプレハブ小屋の住人たちは、お互い他人のことなどかまってはいられなかったのだ。

 そんな中で雨宮君は、誰の援護を受けることもなく一人ここで一週間も頑張っていたのだった。仕事で来ているのに休む場所もないという状況も、この現場に関する限り別に不思議なことではなかった。
私もこれからこの時間の中で、何をどうやっていけば良いのか、どんな状況が待ち受けているのか見当のつけようもなかった。
私はただ疲れた体の中で、
「いいじゃないか、とにかく二人になったんだ。」
とわけも分からずに呟いていた。

 2. 素人の洗礼

 この現場での初仕事で二人が遭遇した肝を冷やす光景は、我々に何かを暗示しているに違いなかった。

 その日雨宮君と私は現場に到着すると別行動になった。万博、専売公社館の敷地は深くえぐられ、底の方には建物の基礎部分がもう既に立ち上がり始めていた。その大きな穴の底には大勢の人たちが働いていたが、雨宮君はその一番深い部分に向かって、坂道を降りていった。その時私は地表で我が社の発注した鉄骨製の巨大な型枠が、名古屋の鉄工所から到着するのを確認し、その工場から派遣された鳶職人たちが、その型枠を現場に吊り下ろす作業を見ることになった。いわゆる「立ち会い」だった。

 とは云っても、この現場は異常に複雑な組み合わせになっていたのだった。
発注者の専売公社は建物の躯体だけを大手の大成建設に発注していたが、その他すべての設備と内装を我々の会社に別々に発注していたのだ。
これは建設業界の常識を逸脱した一種のケンカ現場であることが、この日の事件で初めて思い知らされることになったのだ。
 
 大成建設大阪支店の現場監督はなかなかの傑物で、学校こそ出ていなかったが、現場たたき上げの実力者だった。しかし彼はこの巨大な建築の一部だけを、何故自分の建設会社ではなくて「広告代理店」なんぞに請け負わせるのかが解らなかったのだ。

 そこで彼は、我々の資材の搬入の時にあることを試してやろうと考えていたのだった。
その策略とは、我々の資材搬入の日までに建物の外壁の鉄骨をできるだけ高くまで構築して、搬入し難いようにしていたのだ。彼にとって見れば、これは大阪弁で言う「やんちゃ」程度のことだったのだろう。しかしこの「やんちゃ」をされる会社にとっては、のっぴきならない状況だったといえる。
「この壁を越えて入れられるものなら、入れて見ろ」
というわけだった。

 一方我々の名古屋の鳶たちの眼から見れば、またとない腕の見せ所が訪れたと映ったに違いない。名古屋組は本気で張り切ってしまったのだ。

 その頃私はその搬入の光景をおぼつかない思いで見守っていた。
私の目の前で、名古屋から来た巨大なクレーン車が高々と誇らしげにそのブームを伸ばし朝の太陽に輝いていた。そしてその先端には十トンはあろう巨大な鉄骨の鳥かごのような形をした型枠がつり下げられた。
 我々が一年間かけて計画してきたものが、今初めて具体的な形となってその姿を現しているのだ。私の目にそれは如何にも誇らしげな光景だった。
同僚の雨宮君も現場の何処かでこの光景を見ているに違いなかった。私は一人わけもなく感動していた。

 するといきなり私の真横のクレーン車が唸りをあげて巨大な型枠をつり上げ、ブームを振って移動が開始され始めたのである。
しかし、その瞬間不運の歯車がぐらりと始動を始めたのだ。

 その型枠が建物の鉄骨の壁を越えようとしたそのとき、少しだけクレーンが前過重となったのだ。私は急いで視線をクレーン車の方に移した。
 しかし、そのときクレーン車はすでにバランスを崩しはじめ、巨大な車輪が持ち上がっている光景が私の眼に飛び込んだ。
吊り下げられた型枠がクレーンのブームごと前につんのめりそうになったのだ。

「タイヤが上がってるぞーッ!!」
私はありったけの声を張り上げて叫んでいた。
一瞬の沈黙があったように思う。
「バガーロ- どりゃ-、 ロロロ-、 ロロロ-」
すぐ近くで野太い声があがった。
 見ると大阪随一の「高層鳶」とうたわれた北口工務店の巨漢が、プレハブ二階のバルコニ-の手摺りにつかまって、我々の持ち込んだ「型枠」を指さして怒鳴っているのが見える。
「え?何?・・・事故か?・・・どういうことだ?」
瞬間、私はどう感じて良いのかも分からなかった。

 きんたまがすくむとは、こういうことを云うのだろうか。
それにしてもこの建設現場の抱える複雑な事情が、こういう場合どのように絡んでくるのかなど、とっさには誰にも想像がつくはずもなかった。
二社の元請け会社が一つの現場に同時に入っている。それだけでも普通はあり得ない状況なのに、そこで事故寸前の状況が発生したのだ。

 我々の会社が行った工事が、大成建設現場の頭上で起こしたニヤミス。
そしてそれはある種の嫌がらせと、ちょっとした策略も絡んでいる。
しかし現場で働く「仕事師」たちにとっては、どちらもどうしてもやらなければならない「職人の意地」が絡んでいるのだ。

 しかも我々の側の職人たちにしてみれば、自分たちの命令系統から中止が命じられる前に、知らない会社から実力でストップをかけられたのだ!
現場で作業している両社の鳶職たちの間で、血で血を洗う抗争に発展してもおかしくない状況だった。

 3. 謝罪

 その日どうして宿まで帰ったのか、今の私の記憶にもそれがない。
その晩雨宮君と二人であれこれと相談したが、結局今すぐ建築会社の例の現場監督と「高層鳶」の専務の所に挨拶に行こうということにした。

 大阪の地理など全く不案内だったが、二人はとにかくその晩の内に現場監督の所までは行かなければ、と、それだけを考えていた。
尼ヶ崎の路地をさんざん彷徨ったあげく、やっとの思いで現場監督の自宅を見つけたのは、もう夜も十時は回っていただろうか。

 その家は二件長屋のようになっており、玄関はすりガラスの引き戸になっていた。私はその引き戸をおそるおそる開けた。
「こんばんは」
中でぼそぼそと人の話し声が聞こえた。
「こんばんは」
無口なはずの雨宮君が似合わぬ大声を出した。
人の動く気配があった。すると暗い家の中から突然ネグリジェ姿の女の人が玄関に現れた。

「夜分おそく済みません。現場でお世話になっている会社のもんですが。」
「えエ? 何?」
「なんだい一体あんたたちは」そんな顔でその女のひとは立ちすくんだ。
すると、奥の方から何かいいながら小柄な現場監督氏が出てきた。

「おお、どないしたんや?」
「今日はほんとうに、ご迷惑をおかけしまして・・・・」
すると
「どうも、たいへんご迷惑をおかけしました。」
雨宮君がはるかに落ち着いた口調で付け加えた。
「お前ら・・・・危なかったでぇ。・・・まあえぇ、あがれや。」
監督の反応はこっちが拍子抜けするほど優しく響いた。
「いや、もう遅いので失礼します。改めてご挨拶に伺いますが、今日のことなので取りあえず参りました。いや、もうこれで失礼します。」

 現場監督氏は我々のことばを遮った。
「おお、あんたら専務んとこ行ったんか?」
そう、天下の大成建設でさえ一目置いている、大阪の鳶の総元締め北口工務店を指しているのが分かった。
「はい、これから伺おうと思いまして・・・」
「明日の朝にしたらえぇやんか。遅いしナ・・せやけど、行っとけや」
「わかりました。そうします。」
 その晩二人は宿に帰ってあちこちに電話を掛けまくり、東京の本社に電報で取りあえずの金の送金も頼んだりして、明け方まで眠気も疲れも全く感じることはなかった。

 4. 失態

 夜が明ける頃には、我々は地下鉄の新今宮を降りて釜ヶ崎のドヤ街を歩いていた。この地名は東京の「山谷のドヤ街」と並び、一種の恐ろしい喧嘩や暴動の巣窟といった地名として轟いていたが、早朝からおびただしい数の人があふれ、食堂や飲み屋、道具屋や衣料品店、それに穀類を売る店などが道路に張り出している。佇んだりしゃがんだりしている人も多いが、動いている人がやけに早足なのが新鮮だった。

 そしてこの町の朝には、何か強烈な雰囲気が流れている。東京・山谷のドヤ街にはない、一種健康的な空気が流れているのだ。
紙切れと鉛筆をもった男を、何人もの男がとり囲んで手短にことばを交わし合っている。その度に輪の中の男はメモに何かを書きつける。その男がきびすを返し、何人かの男達を連れて立ち去っていく。新しく紙切れを高くかざした男が何やら叫ぶと、ぞろぞろとまた人垣が作られていく。
そんな光景が通りのあちこちで繰り広げられている。

 これは日雇いの人夫を集めているんだな、ということが私の目にもハッキリと解った。その日その日で人を雇い、雇われるという光景は誰の目にも解りやすい。
 そして、ここでも時代の風が「大阪万博」に向かって吹いていることが感じられたが、しかし釜ヶ崎は、そこにうごめく人の数とは不釣り合いなくらいに静かで、人のどよめきがあまり聞こえて来ない。早朝のせいか一種独特な健康的な匂いがあり、そして何より町全体に無駄なものが無いのが強烈に新鮮だった。

 我々二人だけは早足にこの町を通り過ぎ、やがて静かな大通りへと出た。
そういへば釜ヶ崎では空が見えなかったような気がしたが、ここまで来ると明るくまぶしい青空が広がっていた。そして今日は快晴だということに今初めて気がついたのだった。

 二人は、釜ヶ崎を抜けると間もなく関西随一の鳶の名門「北口工務店」の前に到着していた。しかし不思議に私の記憶には北口工務店の建物の記憶がない。ただ何となく、門構えのある立派な板塀があったような気がする。

 それよりも我々の目に強烈に飛び込んできた光景は、門前の歩道脇にずらりと並んだ何十台もの大型バスにマイクロバス、そしてワンボックス・カーの車列だった。それぞれの車にはもう大勢の男達が乗っていて、目つきの鋭い男が忙しげに仕切っているのが見えた。或る人数を乗せるとバスは矢継ぎ早にエンジン音を響かせ出発していく。時々男が怒鳴り、歩道にぼんやりと立っている何人かを車に突っ込むと運転手を促して発車させている。そして最後のワンボックスが出ていくと、静まりかえった早朝の町が再び戻ったようになった。

 今バスを仕切っていた男が工務店の門の方に向き直ったが、私はとっさにそれが前日現場で見た高層鳶の親方であることが分かった。
今日は、昨夜のようなわけには行かないぞ。
どんな目に遭うか?なって見なければ分からない。
いっさいの工事停止を申し渡されるかも知れないし、この場で大勢の鳶たちに、滅多打ちにされるかも知れない!

 チラリと雨宮君の顔を見る。きりりとしてはいるが多少青ざめているようにも見える。しかし本当は私が青ざめていたに違いない。
そういえばさっき釜ヶ崎を通っているとき、私はしきりに我々二人が大勢の男達に血だらけにされている光景を思い浮かべていたのだ。
北口工務店の専務は、驚くほど足早に事務所の門を入ろうとしていたのだ。

「専務!」
気持ちを整える間もなく、ただ私は大声で呼び止めていた。
「何だッ!」
息が止まりそうだった。急には次のコトバが出てこない。
「・・・・昨日、万博の専売館で、クレーンで、ご迷惑をおかけしたモンです。」
それだけ言うのが精一杯だった。
「おゥッ!」
専務の野太い声が炸裂した。
「申し訳ありませんデシタ!」
「たいへんご迷惑をおかけしまして・・・」
雨宮君が続いた。
少し語尾がモゴついていたが雨宮君の方がやはり落ち着いていた。
「お前らか!・・・名古屋の、鳶を連れてたあの若いの、何ちゅうた?・・・
あれ、夕べ来よったぞ。かわいそうに、血だらけにされて・・・」
「??? !!」
「連れてきた名古屋のぉにやられとったがな・・・それでも挨拶に来よったでェ。」
何がどうなったのか、私はその場ではとうてい掴むことができなかった。
昨日あの時、現場で名古屋の鳶たちは怒りのぶつけ場がなくなったしまったのだ。あの場で大阪の鳶と、鳶同士でいざこざを起こすわけにはいかない。しかし理不尽にも中止させられた怒りを、自分たちを引率してきた鉄工所の営業マンにぶつけ、袋叩きにしてしまったのだ。
私はその場でめまいを感じてしまった。きっと、雨宮君も同じだった筈である。

「あれ、何ちゅーた? 名古屋の・・・」
「あ、名古屋の? 宮地鉄工の・・・・小林君だと思います、営業の。・・・本当に申し訳ござません! ご迷惑おかけしました!」
「ああ。」
そう言うと専務は足早にその場を立ち去ろうとしていた。

 これで良かったのかも知れない。しかし今度はもう一つのことで私は頭の中がいっぱいだったのだ。私はもう一度専務を呼び止めた。

「あのー、」
「???」
 専務は立ち止まり、私は専務に二三歩近づきながらこういったのだ。
「あのーこれ気持ちですけど、現場のみなさんでタバコでも上がってください。」
 何も考えず一気にそれだけいって、ポケットから現金の入った茶封筒を差し出したのだ。
中には、一万円札で二十枚、現金が入っていた。
それまで少しだけ普通の人に見えていた専務の顔が激変した!!

「わいらの國じゃーそないこと通じるかも知らんがなぁ!!!
 おえらん國じゃ、そないこと通用せんでぇー!!!
野太い声がその巨体から絞り出された。
見る間に阿修羅の巨漢はきびすを返し、止めてあった車のシートに乱暴に巨体を落とした。

 その白いクラウンは大きくグラリと沈み、ドアーが力まかせに閉められると、もの凄いエンジン音を轟かせて走り去ってしまった。
 私はその場にへたり込みそうになった。喉の奥がカラカラにくっついて、一言もコトバが出なかった。

 5. おとしまえ

 それから宿舎までどうやって帰ったのか何も覚えていないが、取り敢えず雨宮君と大阪支社で「コト」の顛末を報告したことだけを覚えている。
当時の大阪支社長は早稲田のアメラグの出身だったが、部下の私に常に同じ大学の出身だと錯覚させるような優しさの持ち主だった。
とにかく私は大阪支社の支社長室で一部始終を報告しながら、初めて安堵感を味わっていた。しかし実際には「こと」はもう少し違った方向に展開し始めていたのである。

 それは大阪大成建設の現場監督から私の会社に対して、「こと」を穏便に収束させるため何処か大阪のしかるべき場所で「一席設けよ」という内容の要請があったのだ。そしてその出席者も次のように指定してきたのである。

 先ず両元請け会社、即ち大成建設と東急エージェンシー。
大成建設側に、鳶の北口工務店と左官の岩根左官。東急側は設備担当の高砂熱学を出席させよ、というものだった。
 この顔ぶれで我々に唯一解ったことといへば、大成建設のこの現場が「鳶」と「左官」の会社に妙に気を遣っているという事実だった。
我々は頃合いを見計らって大阪堀江の一流料亭で「手打ち」を行うべく一席を設けたのである。

 手打ちといっても要するにごく普通の宴会であり、出席者は専売公社館の現場で起こった「今回のニアミス事故」の如何なる点についても一切、一言も触れてはならぬという、「我が国宴席の鉄則」を完全に守った点もまた、ごく普通だったのである。

 この日の我々東急エージェンシーの出席者は大阪支社長と現場を預かる四名のスタッフ即ち、山本課長と前場ぜんば先輩、それに雨宮君と私だった。
 
 課長の山本さんは我が社の創立以来、親会社である東急電鉄から出向してきているプロパーでありエリートだが、鉄道運営のプロ。物静かだが決断力に優れた紳士である。前場さんは私の「ラジオテレビ企画制作」時代の先輩にあたり、東映出身の美術の達人、生粋の映画人という輝かしい前歴の持ち主だったが、我々も含めて四人の「専売公社館担当」は建築にはずぶの素人の集団だった。強いていえば雨宮君が唯一、百貨店や駅ビルなどの店舗の内装工事に多少の経験があったくらいだった。

 「手打ち」とはいっても、本題に触れない宴会というのは間が持たないものだった。一通りの酌まわりが済むと妙な白茶けたムードがチラッと感じられる雰囲気になってきたのである。
すると、支社長の西田さんが突然前場先輩の方に手をかざして、いった。
「おい、ゼン公! 何かやれ!!」
そう怒鳴ったのである。

 この声を聞いて、私の方が吃驚してしまった。
すると前場さんが、ぴょこんッ!という感じで立ち上がった。
「えーっ、ホンジツはまたお忙しいところ、わざわざのお運びありがとうございます! 私、東急エージェンシーの前場と申します。
では、お近づきのしるし、‘河内音頭’をひとーつ!・・・」

 何処に隠し持っていたのか、手ぬぐいでサッと、ほっかむりをすると、
「あ、よーいとナッ!」と踊り始めたのである。
「どうだ、関東“幇間芸”の神髄を知ったか!」
 そう啖呵を切らんばかりに、前場先輩は次々に「芸」を繰り出し、一同は呆気にとられて息を呑み、盃を休めた。

 あまり人に目を合わせないようにして飲んでいた、北口工務店の巨漢が、ゆっくりと前場さんの方に顔を向け、ニヤッと笑ったのである。
「これでこの宴会はカタチになったナ。」そんな感じだった。

 それにしても私は何という会社で働いているのだ!大変な人がいたものだ。前場さんが宴会で何か芸ごとを披露するのは、私にはこれが初めてではなかった。しかしこの先輩がひとたび始めると、場の雰囲気ががらりと一変し、全員抱腹絶倒のちまたと化してしまう。そして歌舞伎から能、映画や歌謡曲、クラシックにジャズ、詩吟に都々逸、そういった文化や芸能全体を知らない人にはちょっとついて行けない程の多彩さなのだ。

「この人は一体どういう育ち、経歴を持っているのだろう?」
そう思わずにはいられないのである。
私と同様前場先輩も、自慢じゃないが建築に関する知識は殆ど無いに等しい。しかしこの先輩はこういう窮地に立たされると、それは想像もつかない力量を発揮するのだった。

 その後「手打ち式」について、私の耳にそれとなく入ってきた情報は噂の域を出なかったが、「うちの会社は百万単位の裏金を支払ったらしい」というものだった。

 直接の現場担当者には知らせまいとする、大阪支社長や山本課長の配慮が働いたものと思われるが、とにかく例の型枠は据え付けも完了したのだし、私にとっては自分に担当責任のある「金」ではないこともあり、金額の割にはまったく他人事のように、
「たった一回のクレーンの一振りが、高くついたものだ・・」
くらいにしか感じられなかった。

 6. 現場の状況

 そんな風にしてスタートを切った専売公社館の建設も、日に日に建物の高さを伸ばしていく。少なくとも見た目にはそのように映っていたのである。
しかし実際は、我々の工事部分は大成建設の行程には組み込まれていない。同じ現場なのに、こちらはこちらで工事を進行させなければ、という事情が絡んでいた。

 我々が搬入した鉄骨の型枠を固定させる基礎も、大成建設の現場のど真ん中に打ち込まなければならない。そんなことは聞いたことがない、といっても現場はのっぴきならない状況に追い込まれていた。
我々の左官の部隊は到着し、材料のセメントや砂利・砂が搬入されてくる。そこで大成建設の現場監督に断りを入れ、置き場所などの指示を仰ぐのだ。すると現場監督は即座にこういったのだ。

「お前らんとこの砂にゃ、なんや名前でも書いたるんかい?」
こんな台詞は我々の業界では聞いたことがない。これは立派に喧嘩を売っているのである。

 だとすれば、どうするのか? そう、発注者に仲裁を頼むしかない。
ところが、発注者は政府の機関「日本専売公社」である以上、施工業者の喧嘩になど割って入るようなことはしない。
万事休す。我々には道がない。しかし時間はもっとない!!
その晩宿舎に帰った四人は、晩飯から夜中まで答えの出ない話し合いをしていた。そして答えは翌日とんでもない所から飛び出したのだ。

 我が社の下請けで電気工事をする会社の誰かが、
「それさア、大成さんの左官に頼んだら?」
我々窮地の四人は、その救命ボートにしがみつき這い上がるのである。
しかし救助はされたものの、そういう場合は高くつくのである。
後で回された請求書には倍以上の金額が書き込まれているという・・・。

 しかし恐ろしいもので、こんなことも度重なるとあまり感じなくなるのである。そして日に日に両社の工事は進み、次第にその姿が大阪の千里の丘陵に立ち上がっていく。がしかし、工事の進行表など有って無きが如き我々の方の現場は、来年の三月十五日までに竣工できるかなど、まったく予測できない有様だった。
 これが素人集団の宿命なのだろうか、次第に絶望の繰り返しにも慣れてくるようになってきた。小さなマンションでの四人の共同生活も、「俺はビール」「俺は日本酒」「俺はウイスキー」「俺は何でも」という風に銘々の‘場’をつくり、夕食前の一杯の酒と平凡な食事だけが唯一の休息となっていったのである。

 7. ミヤムラ君

 現場にもようやく我が社のプレハブ事務所が建てられ、次第に体制が整い始めた頃の或る朝、我々が事務所に到着すると、やけに体のでかい一人の青年が待ち受けていた。
「おはようございます!」
明るい、明るすぎて違和感すら感じるほどの大声で、その青年は挨拶してきた。
「わたし、丹青社の宮村と申します!」
我が社は内装工事を確かに丹青社に発注してはいた。けれども担当者が変更になるなどとは誰も聞いてはいなかった。しかし、それでも何でもその青年は現場事務所に入るなり、パタパタと事務所の掃除を始めたのである。

 日本でも有数の展示内装会社、といっても数社しかないのだが、彼らの多くは、万博で複数の現場を掛け持ちしていた。
それはそうだろう。東京・晴海の展示会場が大小二百個以上もあろうかというこの大阪万博のパビリオンを仕切れるような会社は、全国にも五社ほどしかありはしない。

 宮村君の会社もその例外ではなく、今までの担当主任氏も専売公社館だけに張り付いてもいられない。そこで宮村君がピンチヒッターとして起用されたって一向におかしくはない。
それどころか、丹青社を例に挙げれば正式社員の監督が十人いれば、急遽かき集められた、臨時雇いの‘にわか監督’が五十名はいたのである。

 掃除をしながら宮村君は明るく聞いてきた。
「専売公社館のメインの展示は何ですか?」
制作する側の担当者が、普通こんなことを聞くだろうか。
「図面見てきただろう?」
「見たんですが、見れば見るほど良くわかんないんですよ、これ。」
「煙のショーだよ。煙のショー!」
言っている方だって全てが分かっている訳じゃなかった。
“万博なんだよ、ばんぱく!! 分かるだろ?”
私は心の中でこの呪文を繰り返していた。

 何か問いかけられたとき、問題にぶつかったとき、窮地に立たされたとき、我々はこの呪文を何回繰り返したことか。
何にでも使うが、結局なににも効かない特効薬。でもいつでも飲んでしまう常備薬!
しかし宮村君もこのことは良く心得ているらしかった。
「煙のショーですかー。良くわかんないけど、どうやってやるんですか?」
「コート・ダジュールの風だよ、コート・ダジュール!!」
前場先輩がそういってニヤニヤしている。これこそこの狂気の現場に相応しい、デラックスにして意味不明の冗談。

 ふと見ると先輩は手に持ったノートに、かみしもを着た上にヘルメットを被った殿様に、大勢の陣笠連中がひれ伏している絵を描いている。
「何ですかそれ! 煙のショーですか! ワッハッハッハ!!!」
「これか? セ・ン・バ・イ・コ・ウ・シャ!・・・」
 と、前場先輩はとぼけ、宮村君は大きな図体を揺らして大笑いをした。
私もそして皆んなも、それにつられるように大笑いをしていた。
今まで現場事務所の中でも外でも、こんな大笑いをしたことが一度でもあっただろうか! 私は宮村という青年に興味をそそられていた。

 その日から宮村君は毎日のように現場事務所にやって来るようになった。
そしてその頃から現場は急ピッチで工事が進んでいった。でも相変わらず大成建設は我々の行動をチェックしていた。別に我々のやることには関心はないのだが、我々の工程には神経をとがらせていたのである。

 やがて、両社による「工程会議」なるものが頻繁に行われるようになったが、我々の主張や希望が受け入れられることは殆どなく、大成建設サイドから‘今日はこの階にコンクリを流すので立ち入れない’‘明日は塗装が入るから溶接作業はできない’などの指示ばかりが目立った。
日が経つにつれて我々の下請けに入っているメーンバーからは「あんな工程会議なら出席しない」「何といはれても今日の溶接工事はやらせてくれ」といった意見が噴出した。

 現場の下からの突き上げで私も次第に追いつめられるようになった。またある日、大成建設の所長が、屋上で作業中の我々の溶接機の電源を一階でこっそり落としている現場を目撃したりして、私はある覚悟をもって工程会議に出た。
「今日もし無理難題をいわれたら、会議の机をひっくり返し、折り畳みの椅子であばれてやる」そう思って静かに会議の成り行きに注目したことも幾度かあった。
しかし、そういう時に限って急用の電話で中座させられたり、要求が訳もなく通ったりしてしまった。

 大阪万博の現場にようやく新緑の季節が巡って来る頃には、私もその異常な日常に慣れてきたのだった。それは忙しい真っ最中に、ちょっと雲隠れのように他の現場にふらりと見物に出かけたり、人目につかないところで一時間ほどの昼寝もできるようになっていた。

 そんなある日、宮村君が私を近くの池に行ってみよう、と誘いかけてきたのである。異常な日常の現場を抜け出す快感が、二人を誘ったようだった。
 その池はわりあい開けた場所だったが、それでも桜の木が何本か植えられたひと気のない静かな場所だった。
「こないだ偶然見つけたんですよ。現場に近いからもってこいでしょ?気持ちを切り換えるにゃもってこい!」
宮村君はそういって僕の顔を見た。
「ヘーッ、そうだったのか! 良いとこだね。」
そういったものの私は、あの底抜けに明るい豪快な性格の宮村君が、そんな一面もあるんだという驚きで、彼の横顔をしばらく見つめていた。

 しかし、考えてみればそうかも知れない。
彼の会社はその後も宮村君以外、だれも助っ人をよこさなくなっていたが、彼はそんなことは意に介する風もなく、一人で現場を仕切っていた。
どんな風に仕切っていたかといへば、五十人ぐらいの大工の部隊をテキパキと自在に動かす。部隊のかしらの五十がらみの親方にも、互角以上に渡り合うのである。

 ときどき傍で聞いていると、指示はいつも短くはっきりとしているのが印象的だった。
「ここは切り欠きじゃなくて、め込み。ここは下地を二重。人数は三人で十分! 解った? んじゃ頼んだよ!・・・何か質問は?」
「・・・・」
「はいッ! じゃ、ヨ・ロ・シ・ク !」
そういってさっさと行ってしまう。「若いけどしっかりしている。たいしたもんだ」というのが彼の仕事っぷりの印象だ。
 百八十センチ、九十キロ風の巨体で軽々と現場のあゆみ板を駆け回る。
顔の上に乗っかったヘルメットが妙に小さく見える。
声は大きくとにかく明るい。冗談が好きそう。
何か自信と活力にあふれた感じで割り切りがよい。
「過去には一切疑問なし! でも現在は疑問やまほど。」そんなことをいいそうな雰囲気だ。

 余談になるが、ここは文章だから「宮村君」と書いているが、実は私彼のことを最初から「みやむらアー」と呼び捨てにしていたのであります。
では向こうはどうかといへば、「ムロさん、ムロさん」だったのです。

「ムロさん、今度一回神戸に行きませんか?」
「ああ、いいねぇ。こっちへ来て、まだどっこも行ってないもんなぁ。」
そんな話をして間もないある日のこと、宮村と私は西ノ宮の海に突き出た岸壁を歩いていた。

 西ノ宮には宮村の会社の合宿がある。合宿というのは、彼の会社には万博の現場要員が六十名ほどはいる。その六十名の寝る場所としての合宿が西ノ宮にあるのだ。
デパートの三越が所有するという、戦前風のどでかい日本家屋だ。
そこに雑然と、本当に足の踏み場もないほど雑然とその六十名が合宿しているのだった。

 一人一人の行動パターンが全部違っている。だれが何時出ていって、いつ帰って来るのか誰にも分からない。それらの行動をそれでも一番分かっているのは唯一、賄いのおばさんだけ。
昼間でも何でも、どこかの部屋で二、三人はマグロのように一、二時間の睡眠をむさぼっているのが見える。まるで死んでいるみたいだ。
六十の青春が何ものかに向かって暴走している!

 その合宿の朝は見ものだった。
死人が突如として飛び起きる。便所に飛び込み用を足し、歯ブラシを口に放り込んだまま小走りに洗面場へ。磨きながらズボンをたくし上げ、ベルトを締める。部屋に戻ると、掛け布団、毛布、シーツ、敷き布団、枕を全部ひとまとめにパタンと二つ折りにする。同時に枕元に散乱している図面やペン、その辺のものをひっくるめに鞄に放り込む。

 駆け足で食堂へ。次々に盛られていく飯とみそ汁のどんぶりをつかみ取って生卵を割りかけ、醤油をたらし、かき混ぜる。流れるような一連の動作。
次々にひどいねむ気面の男達が食堂へ無言で繰り込んでくる。食堂といっても全員分の席があるわけがない。せいぜい二十〜三十席なのだが、朝メシの渋滞が起こることがない。

 最後に大皿に盛られた沢庵を二、三切れつまみ上げると、今度は全速力で玄関へ!そこには、エンジンを掛けた最後の車が一台待っている。
「車に乗れりゃいい方さ。あとは電車しかない。電車だと四十分はよけいに掛かる、いや一時間かもしれない!」
 会社は人数分の車の席を用意しない、するわけがない。ひょっとすると人数分の部屋、いや、畳の数も用意していないのかもしれない。これを見たら我々の宿舎なんか天国のまた天国だ。

 車に飛び乗れた連中は、ひっ掴んでいた現場服の上着を着なおし、ズボンのファスナーを上げる。
鞄の中を二、三回改めると、まだ寝ぼけている二つの眼をうつろに固めて、今日一日の戦争のことを数え始めるのだった。

 その日午前中をさぼった我々は、連れだって西ノ宮のハーバーへと向かった。ヨットクラブのある長い岸壁をゆっくりとした足取りで歩いた。
「何か分からなくなったり、行き詰まったりすると、一人でここへ来て、あのクラブハウスでコーヒーを飲みながら、図面みるとね・・・
そうすると、何か考えがまとまってくるっていうか・・・。」
「そうか、そうだったのか!! いいねえ、こういう所がさ。」
私はあの豪放磊落とも見える宮村を、もう一度目のうらに映し出した。
「宮村、丹青社にどうやって入ったの?」
「ああ、先輩の紹介でね・・」
「学校・・は?」
「育英っていう、東京の下井草にある工業高校、知らないと思うけどね。」
「へーえ・・」
「僕は家具をやったんだけど、イタリア人の神父がいてね、フェデリコ・バージョっていう。その先生にいろいろと教わったんだ。」

 私の鼻に、ふわっと、何か圧倒的な匂いが押し寄せてきた。
何か、ヨーロッパの十一世紀あたりの修道院の古壁のような匂い。
歴史の表舞台とは別に、明治、大正、昭和と、ヨーロッパやアメリカから宣教者たちが、祈りつつ怒濤のごとく渡ってきたのだろうか。
その当時のイタリアの小さな修道院の中で語られた「一つの夢」が、いまこうして一人の日本人の若い技術者となって実現しているのか?
私はしばらくは、ゆっくりとその匂いを嗅いでいたかった。
「ムロさん、俺ね、こういうんだけどね。」
そういって宮村が僕の前に突き出した、免許証のようなものを見た。
「何処へ行くにも、これを持っていなきゃなんないんだよ。」

 それはいわゆる外国人手帳だったのだろう。でも宮村のそれは手帳ではなくカードのようだったが、私はそれをマジマジと見たり、書いてある内容を読んだりはできなかった。なぜかあまり詳しく見るのは失礼のような気がしていたのだが、見慣れぬ漢字だけが目に飛び込んできた。
“鄭・裕”この二文字だけがかろうじて私の中に残った。

「チャング・ユー。これが朝鮮の俺の名前。宮村裕は日本名。」
色を消したようないい方で宮村はそういって、カードを財布の中に戻し、ズボンの尻のポケットにしまった。

「生まれたのはどっちだ? 宮村・・」
「日本だよ。俺は未だ朝鮮へは行ったことないけどね。」
「朝鮮て・・韓国?それとも北?」
「韓国。・・・韓国だけど、韓国っていうのもホントは政治的ないい方でね。民族としては朝鮮だから。」

 私はこの宮村の言葉を反芻した。韓国という呼び方は確かに政治的かもしれない。けれども、我々日本人は今、朝鮮といういい方は朝鮮の人に対して失礼だと思って「韓国」と呼んでいる。けれども、宮村のいう通り彼らは朝鮮民族であり、政治的に力で二つに分けられて片方を「韓国」もう一方を「北朝鮮」とか「北鮮」と呼ぶ。

 宮村は日本で生まれていて、まだ朝鮮には行ったことがない。日本で生まれたのに国籍は「韓国」・・・そういう事情を持つ身で日本の産業界を必死で泳いでいる。
その視点から見えてくる世界を語っているのだ。

 ソウルの街角で一人の青年に「韓国の人」といったって失礼には当たらない。けれども日本で生まれ、今ここにいる宮村には、自分は韓国人であるというよりも、朝鮮人であるという方が胸に落ちる。
そうか、そういうことがあるのか。

 私はその時はじめて日本にいる朝鮮人の気持ちを考えてみた。
宮村は日本に生まれて、親からは自分の出自をどんな時、どんな風に知らされたのか。子供の頃、友達や周囲の人はどんな接し方をていたのか。
私は私なりに考えてみるのだが、何もはっきりとは掴めなかった。
「みやむら、今何歳なんだ?」
急に年のことが聞きたくなったのだった。
「おれ?・・にじゅういち!」
宮村はそういった。

 二十一!!!  私は本当に驚いてしまった。
あの、現場で大工の棟梁を見事に使いこなす要領は何時、どうやって覚えたのか。その時の言葉遣い、目つき、物腰、打ち合わせの内容、どれをとっても、どう若く見積もったって三十五より下には見えないじゃないか!
もし本当に二十一というのなら、彼は今までの人生の三倍の時間を、三倍のスピードで過ごしてきたとしかいいようがなかった。

 その時私は三四歳だったが、この年齢になって新しい友達が一人できたという、少し弾むような気持ちが沸いていた。

 8. 混乱の現場

「万国博、来年の今日から」「史上最大・作業は遅れがち」
開幕一年前の三月十五日、朝日の朝刊にこんな見出しと以下のような記事が掲載された。
【大阪】
テーマに「人類の進歩と調和」をかかげ、来年三月十五日に、大阪・千里丘陵で開く日本万国博はきょう十五日、最後の万国博デーを迎え、開幕まであと一年を残すだけとなった。十四日までに参加を表明したのは、主催国の日本を含めて六十四カ国。政府、日本万国博協会は、一昨年開かれたモントリオール博の参加六十一カ国を上回る七十カ国以上を集めて、史上最大の万国博の実現をめざし、準備の仕上げを急ぐ。
[中略]
 政府、協会は、残された一年間に、今までの準備の遅れをとりもどし、全ての作業を軌道に乗せたいと考えている。建物は遅くとも五月ごろまでに全部着工する計画。
[中略]
 しかし、こうした作業をスケジュール通りすすめるには、かなり問題が多い。参加表明国はモントリオール博の参加国をすでに上回っているとはいえ、これはまだ口約束しただけに過ぎず、十四日には中東戦争のあおりでイスラエルが参加を辞退するなど流動している。展示館の建設はすでに五十一館が着工しているが、国内館が多く、外国館は十八館、国数にして二十二カ国で目標の七十カ国の三分の一にとどまっている。

 専売公社館「虹の塔」もまた不思議な格好をしていた。
底辺は幾何学的な楕円形をしていて、頂上の平面図は細長い矩形になった六十八メートルの塔なのだ。底面の楕円形が上に行くほど四角に変化して行き、塔の最上部では直角の矩形になるという。特に楕円から矩形へと変化していく途中は、厳密にいうと図面には表現しにくいカタチの、鉄骨の塔なのだ。従って梁も柱もない不思議な建物だ。
しかしもっと不思議なのは、こんな建物でも、建設の途中にはご多分に漏れず「上棟式」というものが行われるのだ。

 「上棟式」とは「むねあげ」のことである。日本の建物は「切妻」だろうが「入母屋」だろうが、最初に柱を立ち上げ梁を巡らす。そしてその上に「棟」を乗せると、そこでその建物の「収まり」が決まるのである。横綱が四股を踏んで、両手を肩の上に挙げたとき、それが「雲竜型」だろうが「不知火型」だろうが、力のバランスが決まり、最も安定した形になる。
その事を祝い、末永い安定を祈る。そんな儀式が「上棟式」なのだろう。

 施主を中心に、建設会社や下請け会社のお歴々が馳せ参じて、恭しい式典を行うのである。これを取り仕切るのが General Contractor 、今はやりの「ゼネコン」即ち建設請負会社である。

 町場ではよく見かける風景だが、こんな現場でもやはり紅白の幔幕まんまくを張り巡らせて、神主を迎えておはらいをするのである。それ自体は大変結構なのだが、「万博」というこの現場の雰囲気は少し違っていた。

「冗談じゃねえよ、時間がなくて一時間だって惜しいのに、お祓いかよ!」
そんな声があちこちでするのである。
しかし、上棟式となれば工事を一時中断するばかりか、現場を一旦清掃して必要なもの、トイレなどを仮設でこしらえたり、控え室や受付を整えたり結構な時間と手間が掛かるのである。
そうでなくても二社が無理に混在している我々のような現場は、とにかく時間が足りない、現場はごった返して殺気立っている。そこへ上棟式の話が入ってきたのだ。

 工事を中断すれば、当然のことながら壁や天井からもいろいろなものが突き出したり、ぶら下がったりしている。
「そういう箇所は危ないから、作ったものでも一旦取り外して、そこに紅白の幔幕を張るように」という通達が出てきたのである。
収まらないのは宮村君だけではない。各担当から一斉に不満の狼煙のろしが上がったのである。
「協力はする。協力しないとはいっていない。しかし取り付けた天井の吊り元を外せとはどういうことだ!」

 多くの会社はその施工部隊を東京を中心とした関東ブロックから連れてきている。そしてその職人部隊を吹田市や茨木市あたりの旅館などに収容して作業に当たらせているのである。三十人、五十人の部隊でも、一日の経費だけで五十万から百万が出ていく。それが少なくても二日、しかも担当外の仕事にまで人員を割くということになれば、現場が殺気立つのは当たり前だった。

 こういう場合、我が社の立場は、施工主の直々の要請と下からの突き上げで、板挟み状態になるのである。ま、大なり小なり、板挟みは日常茶飯事なのだが、今回はちょっと普段とは違う。そこで我々四人は宮村を事務所に呼んだ。

「みやむら・・・、悪いんだけどさ、お前んとこの「内部足場」。あそこの部屋に組み上げた、あれ一旦撤去してくれないかな?」
「ムロさん、そりゃ俺も上棟式くらい、腐るほど経験しているからわかるけど、あそこは撤去しなくても良いんじゃないの?」
「それがさ、大成さん(大成建設)も今回は名指しでいってるんだよ。」
「だからさ、撤去しなくたって、少し片づけて、足場に紅白の幔幕を回して隠せば良いんじゃねーのかよー、そんなにみっともなくないんだからさ。」
そこで先輩の前場さんが口をはさんだ。

「宮ちゃん、そうなんだよ。大成の奴ら、アタマ来るんだよな!   
分かるよ、宮ちゃん。・・・・・だけど宮ちゃん、今回そこんとこ何とか・・ナ頼む!」

 宮村から見れば、この言葉は味方のようでいて、結局は自分の所に全てを押しつけている「調子の良いコトバ」に聞こえても仕方がない。
そのあとも我々四人は口ごもったように‘大成のバカが・・’だの専売はだらしない・・などと、ぶつぶついい始めた。
と、突然宮村が椅子を蹴ったように席を立ち、ドアーをバーンと開けて部屋の外に出ていったのだ。私は
「宮村!ミヤムラーッ!!」
と大声で呼びながら後を追った。

 その時は気がつかなかったが、雨宮君の方が先に追いついていた。
宮村は真っ直ぐに大成建設の所長の部屋に向かっていたが、私は所長室の前でかろうじて宮村に追いついた。だが、宮村にはもう何も見えず、何も聞こえていなかった。
彼は大声で監督の名を呼び捨てに怒鳴りながら、そのドアーを思いっきり蹴り開けていた。

‘やばい! こりゃ完全に事件だ! また事件になっちゃった!!’
そう思って息をのんだ。
中にいる奴は監督だろうと誰だろうと、巨漢の宮村にかかれば、伸ばされちまう!

 しかし、その時は何事も起こらなかったのだ。
そう、中には幸いというか、たまたま誰もいなかったからだ。私は一瞬拍子抜けがしてしまった。けれども宮村はそうではなかった。今度は彼は問題の足場のある部屋へと向かった。

「ミヤムラー、もういいよ、ちょっと待てよ!」
雨宮君も私も、力なくそう繰り返すばかりだ。
宮村にはそんな声が聞こえるはずもなく、いきなり問題の「足場」に駆け上がっていった。十メートルもあろうかというタワー型の足場の頂上に上がった宮村は、素手で鉄のパイプを引き抜いては床めがけて投げ始めた。
下では何人もが集まり、上を向いて口々に
「おーい、もう良いよ。降りて来いよー」
などと力なく繰り返すばかりだった。

 宮村は顔を真っ赤にして、一本一本足場のパイプを外しては下の床に投げることをやめなかった。
 私はここに大成建設の監督なんかが現れたら、それこそ大変なことになる、と心配していたのだったが、その現場には大成建設の人間の姿など陰も形も見えなかったのである。

 我々のこうした苦労は、考えてみれば「しなくても良いこと」であり、且つ「馬鹿バカしいこと」には違いなかった。けれどもとにかく我々はみな毎日が必死だったのだ。

 山本課長は外見的にはきわめて物静かな人物、いかにも育ちの良い慶応ボーイらしい紳士だった。この山本課長と比べたら、私は対照的にきわめて直情的な性格で、このような特殊な環境下では何をしでかすか分からないようなところがあったと思う。
それでも山本課長はどんな窮地に立たされても、じっくりとした物腰で事に当たる姿は印象的だった。と、まあこういえば格好良いが、私はそういう山本課長にしばしば苛立ちを覚えて、
「山本さん、何とかして下さいよ!! そんなこと、もっと強くいわなきゃ誰も動いちゃくれないんだってば!」
などと怒鳴っていた。わがままのいい放題である。
「いや、云うよ。あした会議のときいいます。」
なんぞという。私は「今云わなきゃ・・」と思うから苛立つが、相手は目上だし、第一上司だ。これ以上正面からいえないものだから、ちょっと鉾先を変えて自分の机を蹴とばしたりしていた。

 しかしこういう場面というのは人間のスケールが出てしまうものだ。
私がこざかしく苛立つほど、環境が異常であればあるほど、ことが理不尽であればあるほど、山本さんのスケールの大きさが際立つのだった。

 私はさっきまで「山本課長」と書いたが、実際は「山本さん」と呼んでいたし、周りの人は皆んな、専売公社のお偉いさんも、我々三人も、下請けの人も、目上の人も、若い人も、皆「ヤマモトさん」と呼んでいた。そしてみんな「やマモトさん」の水面下の部分にこそ、人物のスケールが隠されていることをを感じていた。

 これとは対照的に前場先輩は職人肌の鋭い感性の持ち主、長刀ドスを手持ちで歩く、着流しの浪人のような「おっかない」人でもあった。
私の方が先に会社からは博覧会担当を命ぜられていたのだが、半年ほどして前場先輩が任命されたとき、元いた「ラジオ・テレビ企画制作」の連中は、
「前場と室田が一緒に大阪だってよ。三日ともたねえナ」
といって面白がられたくらいだった。

 私はといえば、前場先輩は以前から知っていて、その多彩さ、鋭い感性には感服していて、好きな先輩の一人だった。第一陰口を私に直接いってきた人の方が、よほどくだらない人物だったせいもあって、まったく気にはしていなかった。
そして私はこの先輩のことを「前さん、ゼンさん」と親しげに勝手にそう呼んでいたのである。

 もう一人、先にも既に登場している雨宮君は私より少しだけ後輩だったが、彼はほんとうに無口で、何か黙々と仕事をするタイプだった。
必要以上に喋らない。その方が格好いいとでも思っているみたいに喋らない。そんな風にいうと、気心の知れないネクラな人物像が浮かぶが、そうではない。これがまた無類の笑い上戸なのだ。

 一旦ツボにはまると、笑いが止まらない。顔をクシャクシャにして、腹が痛くなるほどまあよく笑うのだ。笑い始めると今度はよく喋る。しまいには何をいっているのか分からないくらいに良く喋るのである。本当にこの落差がこの人物を面白くしているのかも知れなかった。
みんな彼のことは「アマちゃん」と呼んでいたのである。

 それにしても我が社もたった四人のポジションに役者をそろえたものである。山本さんと雨ちゃん、というじっくり無口組と、冗談をいわない日など考えられないが、短気な前さんと私。
これは集まろうと思って集まった四人でなかったことは間違いないが、
「何が何でもこの四人でこの異常な工事を仕上げなければならない!!」
これが我々四人が共通して腹の底に抱いていた思いだった。

 9. 眼が見えない

 工期も半ばに差しかかった頃、雨ちゃんが私の所にやって来ていった。
「ムロさん、映写機がちょっと入らないんだけど・・」
と、意味不明のことをいう。本当に私は最初その意味が解らなかった。そこで取り敢えず現場を見に行ってみて、その意味がようやく解った。

 我々のパビリオンも大阪万博の定番メニュー「映像」の見せ物がある。
松山善三製作・監督のマルチスクリーン映像のショーだ。贅沢な撮影予算を投じて制作された「日本一周観光の旅」みたいな内容だ。
映写機は四台、三面スクリーンにライヴの「日舞」が絡むという贅沢なものだ。持ち込まれた四台の映写機が映写室に入らないという、嘘のような初歩的な設計ミス。

 行って計ってみると、映写機の長さに対して映写室の奥行きが足りない!
「そんなバカな。」
しかし我々はもうその程度のことでは驚かなくなっていた。映写室はまだ完成はしていないが、太い鉄骨が部屋の周囲を回してある。Cチャンといって、C型の幅十五センチもある鉄骨のチャンネルが壁の骨となっているために、搬入された映写機がどうやっても入らないのだ。

 その時ド素人の我々が考えついた方法は、
「入らないけど明日までに何が何でも入れなければならない! ならば、映写室の後ろに出窓のような穴を壁に開け、そこから映写機のケツを突き出すように設置するしかない。」

 つまり壁に三つの窓を開ける。そのため、窓の中を走っているCチャンを取り除く。しかも我が社ではない、大成建設の構築した部分を、である。三つの窓で計九本、合計十八カ所を切断する、というものだった。
ひとの造ったモノを勝手に切断する!その後がどうなるかなど考える余裕はなかった。
しかも、切断は今ただちに開始しなければならない。時間がないのだ。けれども情けないことに我々は道具というものを一切持っていないし、職人はもう誰もいない。しかも夕方で薄暗くなり始めていたのだ。

 そんなこともあるのだろうか、誰かが何処かで「鉄ノコ」を一つ探してきたのだ。私はその鉄ノコでいきなり巨大なCチャンを切り始めた。
ところが素人の情けなさですぐにその鋸の刃が折れてしまったのだ。そこで雨ちゃんと手分けして薄暗い現場を歩き回り、ノコ刃を拾い集めて来たら五、六本にはなっただろうか。二人交代で必死になってチャンネルを切り始めたが、たちまちノコ刃は全部折れてしまった。

「万事窮す!」
雨宮君と二人はもう暗くなった現場を意味もなくほっつき歩いた。すると、一台の電気溶接機が目に飛び込んできたのだ。それは例の大成建設の下請けが使っているものだったが、帰宅後で誰もいない。
「ヨシッ!」
我々はそれを映写室まで何とか引きずってきた。そして今度は二人で、現場のあちこちに落ちている「溶接棒」を拾い集めたのである。

 溶接機のケーブルの先にあるクリップに溶接棒を銜えて電源を入れた。
映写室の鉄骨にアースを採ると、溶接機のスライダをグイッと上げて見たのである。しかし、こんな仕事は私にとっては生まれて初めてのことだった。子どもの頃どこかで見た記憶を辿っての、ただ見よう見まねである。

「ブーン」という電気の唸りが聞こえた。私は片手で、これも拾ってきた溶接用の「お面」を握りしめ、もう片方の手で溶接棒を銜えたクリップを持ち、おもむろに壁に走っているチャンネルに押し当てた!。

「バチバチッ!!」と勢いよく青白い火花が上がり、そのスパークで真っ暗な映写室が一瞬パッと明るくなった。その明るさの中に、山本さんと前さんの心配そうな顔があることに私は初めて気がついた。しかし次の瞬間「ばッ」という鈍い音とともに溶接棒がチャンネルにくっついて火花が止まってしまったのだ。

 当たり前である。電気溶接機は鉄をくっつけるためのものであり、切断のためのものではないからだ。しかしこの時も私は素人の本当の恐ろしさが分かっていたわけではなかった。私は周囲の声に励まされて、溶接機の電圧を最大に上げ、溶接用のお面が使いづらいからとサングラスに換えて、必死で作業を続行していったのだった。

 何時間経ったのだろう、ぐったり疲れてはいたが映写室に三つの風穴をあけて作業は終了し、私は溶接機を置いた。
 その時突然目の中に今まで見たこともない強烈に明るい「星」がチカチカと浮遊してるのを私は見ていた。

 目の中の明るい星が消えないまま、いつもよりかなり遅い時間だったが我々四人は同じ車で宿舎に引き上げていった。それでも私は車を運転し、その中で少し得意気な気分にひたってもいた。
帰り着くとすぐに夕食の支度は自分にやらせてくれとばかりに、ラーメンを四人分作って食卓に並べた。

 その時だった、私は今まで経験したこともない激痛が両方の眼球を同時に襲ったのだ! もう立ってもいられず、思わず両手で顔を覆いその場にへたり込んでしまった。今すぐこの首を切り取ってもらいたいくらいの激痛で、私は深く唸るばかりでろくに声も出なかったと思う。

 まぶたの内側に千本の針が生えて、しかもそのまぶたを力任せに閉じたような痛さ!そして本当にその瞬間から、私の両のまぶたは堅く閉じたきり二度と開けることができなくなっていたのである。
私はその晩まんじりともせず翌朝を迎えたが、やはり激痛で目を開けることなどとうていできなかった。

「ムロちゃん、どうだ? 医者行くんなら連れてってあげるけど、午前中は駄目だ。午後なら何とか時間つくれると思うけど、ここで休んでるかい?」
山本さんがそう問いかけてきた。
一晩中の痛みでアタマの中は全てが寒天で一杯になったような感じで、触ると顔の皮はふくれあがって冷たかった。
「いや、現場へ一緒に連れて行ってください! そこで待ちます。」
私は目が見えなくなったまま宿舎で一人休んでいるなど、恐ろしくて考えることもできなかった。

 我々四人の車が現場に到着したらしかった。空気の感じで何となくそれが解った。
「ムロちゃん、じゃここで待ってるネ? 時間できしだい来るから。」
そういって皆んな忙しげに散らばって私は一人車の中に取り残された。
「一人きりになったのだ!でもここなら現場の音もよく聞こえる。」
そう思うと何となく気持ちが落ち着いた。

「なんだい?そこにいるのムロさんじゃないの? 駄目じゃない、そんなとこでサボってちゃ!」
 その声は照明設備のベテラン「亀ちゃん」のものだ。
「目がつぶれちゃってさ! 夕べ裸眼らがんで溶接やっちゃったもんで。」
「ワッハッハ! それ、三日ぐらい痛むよ。目が開かないし。」
私はそれを聞いてどれほど救われたことか!

「今回私は本当の失敗をしたのだ。もう失明は避けられない!」
心の底でそう感じながらも、観念しきれずにいたのだ。しかし今そこにいる照明のプロが、そんなことはよくあることだといっているではないか。私の心に感謝の気持ちが沸いた。
私はその開かない目で少し笑っていたのかも知れなかった。

 その日の午後私は目医者に連れて行ってもらった。その眼科医は女医さんだったが、「本当に危険な状態です。失明しなかったとしても、視力は相当に落ちます。」といわれたのだった。
 それから三日間はマンションの一室でおとなしくしてるほかなかったが、眼科医に宣告された内容を考えれば穏やかな時間を過ごしていた。
それから三日が経って、私は眼科医院の暗室で注射によって初めて目を開けることができたのだが、私の眼はそこそこの視力が戻っており、それが奇跡的だったことが女医の驚きからも伝わってきたのだった。

 しかし、そんなことがあったにも関わらず、一月も経たないうち私は自分が何ものかに贈られたこの「回復」という奇蹟を忘れたように、仕事に復帰していった。
私は、この戦場のような現場でも、少し落ち着きのようなものを取り戻し始めていたし、コトに向かう自分の気持ちにも変化を感じ始めていた。
そんな中で我々の「虹の塔」もしだいにはっきりとした姿を、万博会場の空に向かって現しはじめていた。

 10. 千里に吹た風

 我々のようなど素人の集団が、こんな大きな工事の施工管理などという大それた仕事をやり、もしこれが無事完成したら、これはもう奇跡といえるかも知れない。でもよく考えてみればそうではない。下に入って施工する側が優秀なのだ。

 何しろ施工を受け持つ下請け会社の実際の責任者は、みな二十代か、せいぜい三十代半ばまでの若手ばかりだ。いや、施工ばかりではない。この建物の全ての設計をやったのが、東京工業大学の「清家研究室」だ。清家清せいけきよしといへば知らないひとはいないくらい有名な、日本でも屈指の建築家だ。

 しかし基本設計の頃、私がしばしば訪れた清家研究室で実際に設計を担当していたのは皆二十代の若者ばかりだった。もちろん清家さんは見えないところで全体を統率していたことは想像に難くない。

 けれども清家さんが一度でも直接図面に向かったり、デスクで図面を前に思考を巡らせたりしている姿を見たことはなかった。そして何より、若いスタッフたちが、我々のあらゆる質問に対して(それはとんでもない、奇想天外の質問も含まれるのだが)答えられなかったことなど一度もなかったのだ。

 私は何も一流の建築家を誹謗しているのではない。一流になって行く過程も良く理解できる。また、組織の必然もある。がしかし、私がここでいいたいのは、もしここに大先生がいなかったとしても、あの若者たちにこれができなかったかといえば、「絶対にできた!」といいたいのだ。

 若者たちに欠けているものがあったとしたら、それは経験から来る自信と、自分たちの実力を売り込む手だてを持っていなかったこと、くらいだ。

 この、六千四百万人を動員した「日本万国博覧会」の百を越える出展を実際に製作したのは、殆どが二十代を中心とする若者だった、と私はいいたいのだ。
あの当時、何処の現場へ行っても、そこで図面と格闘し現場に的確な指示を出し、職人と資材を手配し、収支決算、労務問題、対外交渉、スタッフの生活、その他諸々を実際に行っていたのはそういう若者だったのだ。

 この実力と、このエネルギー。これが当時日本の産業の本当の実力であり、日本の財産だと捉えなければ、当時の日本のGNPを三パーセントも引き上げたといわれるほどの、金と労力を注ぎ込んだ日本万国博覧会の意味が見えてこないのではないか。

 その後も私は、いくつかの博覧会でパビリオン製作を再び担当する機会を得たが、大阪での日本万国博覧会の時にこの目で見た、あの不屈の闘志をもった若者たちと、彼らの信じ難いエネルギーに再び出会うことは残念ながらなかったのだ。
わかるだろうか、宮村君は弱冠二十一歳だったのだ。

 アジアで初めて開催さた世界第一級国際博覧会「日本万国博覧会」公開日の一九七〇年三月十五日、新聞各紙は競ってカラーの特集ページを組み、これから一八三日間にわたって開催される万博の参加七十七カ国、百余の出展館をそれぞれ紹介する記事を掲載した。
以下は当日の朝日新聞朝刊一面のトップだ。

万国博は十五日、半年間にわたる会期の幕をあけ、いよいよ一般公開がはじまる。万国博協会は午前九時すぎから会場中央でテープを切ったあと、同九時半、会場の中央、東、西、南、北の五つのゲートをいっせいに開く。協会が十四日午後、コン ピューターに曜日、天候、団体バスの予約などさまざまなデータを入れてはじきだした入場予測数は、天候が晴れの場合五十三万人。十四日午後四時すぎから開門をまちわびる人たちが、夜を徹して並びはじめた。
[略]
警察庁は十四日、万国博一般公開の初日にあたる十五日は、会場に通ずる五つの幹線道路がいずれも最悪の渋滞度である三度(車の列が千メートル以上つまる)になるとの広域交通情報を発表、マイカー族に警告の第一号を出した。
 警察庁の予測によると、名神高速、国道一七一号(京都-神戸)、大阪・高槻・京 都線、大阪中央環状線、新御堂筋で十五日午前九時頃から渋滞が始まり、ピーク時の午前十時ごろから午後三時ごろまで各地で千メートル以上の車の列がとどこおる。

 我々が何も知らずに放り込まれた大阪万博の現場、そしてそこに流れていた時代の風に向かって、皆んなで夢中で過ごした時間。一歩も後へ引くことのできない連続した緊張、そして結ばれた強い絆。そこに私たちが見たものは一体何だったのだろうか。

 イベントというコトバは今では日常茶飯事。しかし当時は万博を「イベント」などと呼ぶ人はいなかったはずだ。しかしこの行事はまさに国が中心となったイベントとして最大規模を誇っていた。一流企業というコトバはあまり好きではないが、当時の日本を代表する企業が軒並み出展を競っていたはずだ。国としては当然「国力」そのものを表現する意図もあったに違いなく、また外国も現在とは比べものにならない力の入れようだった。

 アメリカはアポロが持ち帰った「月の石」をいち早く世界に先駆けて展示していたし、ソ連(現ロシア)も巨大な宇宙船「ボストーク」の実物を展示してアメリカに対抗した。

 カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州は、自州最大の産業である林業を象徴すべく六十メートルもの大木を六本も遠くカナダから持ち込んで、これを天高く立て、会場内最高の木造パビリオンを建設したし、チェコスロヴァキアは工事期間中のとても早い時期に、いち早く自国のパビリオンの地下室だけを先に完成させ、工事期間中万博会場に働くすべての人たちに向けて、スタッフ・レストランを公開して長蛇の列をつくった。

 数え上げたらきりがないが、世界七十七の各参加国は本腰を入れた出展競争を展開し、国同士がナマで競い合う「活力」で見る人を圧倒した。この有様は、後年私が担当したほかの国際博覧会ではまったく見ることが出来ないほどの力の入れようだったと改めて痛感する。

 あの混沌の集合体のような会場全体には、そこに働くものを奮い立たせる何かがあって、それは私が痛感した二十代を中心とする若い人たちのエネルギーが実力となって展開していた。そしてそこには将来の日本が発展してゆく方向が、それなりに強烈に展開されてい、それを目の当たりに見る我々は一種の興奮状態でその光景を見つめていた。

 そういう状況の中にいた我々は、寝る時間なんて何時間だって、食事に何を喰ったって、会社から状況把握のために誰も、一度も訪ねて来なくったって、そんなことは問題ではなかったし、第一覚えてもいなかったのだ。
それよりも、自分たちのような素人の集団に、できっこないと思われていたパビリオン建設などが「超」紆余曲折があったにせよ、カタチになってゆくことに驚いていたのではなかったのだろうか。

 そして、更に驚いたことに、我々が作るべきモノにたいして与えられていたのは図面だけであり、「これは何のために、何を表現しようとしてそうあるのか」などという指針は何一つ与えられてはいなかったのだった。

 少なくとも我々現場を預かる者たちは、日本万国博そのもとを司る指導者たち(残念ながらそれは年寄りばかりなのだが)から、何かの指針を示された憶えはない。

 我々は図面に忠実にとばかりはいえないが、それ以上のものを立ち上げていったのだったが、情けないかな自分たちが作り上げているものが、どういう目的で何を表現し、それが日本にとって、世界にとって「何なのだ」というメッセージを明確に伝達されずにいたのだ。

 だから、つくっている最中、ことある毎に「何だよ、この子供だましの絵はよー、どうすんのこれ!」だの、たとえば展示物のバックの壁の色を指して「おい、これがコートダジュールの風だってよ!」などとつぶやき大笑いするのが当時の日常だったのだ。

 「予算がないとこうなるのさ!」というわけ知り顔も大勢いた。しかし青臭いようだが、やっていることの意味みたいなものを感ずることはなかったし、我々四人はそんなことを思ったことすらなかった。

 「人類の進歩と調和」このテーマはその当時の日本にとっても、別に悪いテーマではなかったと思うが、何かピンと来る程のものでもなかったように思う。だが、外国の出展の様子はかなり違って見えていたのである。

 私はこの工事の後、運営の仕事で更に一年を会場で過ごしたが、会期中でも外国出展館はそれなりに明快に何かを訴えかけていたのが印象的だった。

 たとえばスイス館「光の木」。裸電球を、樹木をモチーフにした建物の全外壁に、整然と張り巡らしたデザインはまさに万博会場の夜景の独り占め。
夕方の点灯時刻には、連夜人々がむらがり、ため息が聞かれたものだった。内部の展示は精密機器「時計」と、世界に誇る高精度の大型工作機械や発電装置で、その内容を解説する展示物のキャプション(文字による説明文)が、立体的に見えるよう工夫されたパネルと照明。その洗練された手法に仰天したが、スイス国ならではの「訴えたいもの」がよく見えた。

 「ガーナ館」は出展する予算が全くなく、当時の日本万国博覧会協会会長の石坂泰三氏が資金援助を約束して実現したひときわ小さなパビリオン。

 これは開会日の当日も建築が間に合わず、丸い屋根はガーナの竹細工が施され、陸軍の合羽を着た、こんなに黒い肌があるのかと思うほど黒い顔の兵士が、その屋根に乗って施工を継続中。といっても、二、三人の兵士が丸い屋根に乗っかって、竹を棕櫚縄で一カ所ずつ手で縛っていた。

 これを見た私は「工期」という約束が内容よりも、仕上がりよりもすべてに優先する我が日本の「ものごとのありよう」に、冷や水を掛けられたような気がしたものだった。

 内部の展示はさらに凄く、ロッテの「ガーナ・チョコレート」(板チョコ)だけが山と積まれ(自国製品が何も無いから板チョコで、とういうのも凄いが)、ガーナから持ってきた、見る人を感動させずにはおかないジャコベッティを思わせる人物の木彫、それだけ。これだけで出展意図を越え、訴えるべきものが出ていて羨ましかった。

 「爆発だアー!」の岡本太郎氏の万博のシンボル「太陽の塔」も、あの巨大さで見せられれば強いメッセージとしては成り立っていたと思うが、「見て良かった!」というほどではなかった。大きすぎたのかも知れない。

 我々が担当した「虹の塔」も、「それって何だったの?」と訊かれればちょっと困ってしまうが、一九七〇年という時代に大阪の千里丘陵に展開された建設現場の、ちょっと信じられないような営みそのものが「日本の世界に向けての展示」だったといえなくもない。

 私の所属した会社の当時の仲間はもう六十代も後半、七十歳に届こうとしている。年齢など人の決めた時間の単位だし、一つの単純な目安でしかないが、私自身、知力・気力・好奇心とも今の若者に負ける気などないが、色々な意味で日本最大級を誇った日本万国博覧会も、その風圧だけではちょっと寂しい気もする。

 去年、機会があって大阪吹田市の旧万博会場跡に立ったが、そこに残された建造物を見ても、「あの時間」を思い起こさせるものは何も感じられず、ただ夕方の薄曇りの空の下で、その巨大な塔は静かに佇むばかりだった。