甦れギリシャ船『SAPPHOサフォー号』
    (今は亡きリバティー船のふしぎな旅)

<現存する同型船のJeremia O'brien号(サンフランシスコ)>
1. プロローグ

 信州に引っ越してきてもう何年になるのだろう。そういう時間を指折り数えるたことなどあまりしたことはないが、でももうかれこれ十年にはなる。
東京の広告代理店を定年ちょっと前にやめ、生い立ちなどとは縁もゆかりもない信州の森の中へ引っ越してきたのだったが、高原特有のぴりっと冷たい空気と、うまい湧き水と、自分で作った野菜の味などに導かれ、いつの間にかここまで来てしまった。

 東京を一歩も出たことがなかったかみさんも、私の気まぐれな選択に何も云わずここまでついてきてくれたのだが、初めて経験する田舎暮らしの楽しさと、自然から突きつけられるさまざまな労働をこなしながらの十年間は、評価のしようなどない。
お互い死ぬときにこれを良かったと思うか、悪かったと思うか。そこのところは向こうも口には出さず、静かに先延ばしにしているようだ。

 この八ケ岳の西側の地域について最初は、氷は厚いが、雪はあまり降らない、乾燥した高原の気候だといわれ、たいした備えもなしに暮らしてきたが、想像とは裏腹にかなりの大雪にも見舞われ、冬は雪かきに追われる毎日が続く。
今年も暖冬といわれながらも正月に入ってすぐに大雪が降り、私は手押しの除雪機で一キロ余りの道のりを除雪したが、肩や背中の筋がごちごちに固まってしまい、ちょくちょく昼寝をすることが多くなっていた。

 今日もかみさんと二人で、庭にある大きな薪ラックから、家の中に薪を運ぶ仕事を一時間ほどやってから、着信したメールに目を通したが、その中でアメリカから来たメールを懐かしく読んでいた。
メールをよこしたのは、リンダというアメリカ留学時代の女性の友達からのもので、彼女からはちょくちょく手紙をもらい、それがいつしかメールと云うふうになっていったが、それとてもう四十年以上になるだろう。

 私が留学でアメリカに渡ったのは一九六一年、ジョン・F・ケネディーが大統領に就任し、ソ連では宇宙飛行士ガガーリンがボストーク一号で、世界で初めて地球を一周した年。日本では川上哲治氏が始めて讀売巨人軍の監督になり、六年ぶりに巨人軍を日本シリーズ制覇へ導いた年でもある。
そんな時代から文通が続いているというのも、考えてみればあきれるほどの時間だが、その理由はと問われれば、やはりそれはリンダという女性のなせる技といえるだろう。

 私は生来の筆無精で相手のリンダは筆まめ。というよりも、アメリカ人は子供の頃から、手紙をもらったら、必ずすぐに返事を出すように躾けられているからかもしれない。
こちらがちょっと返事をさぼっていると「where are you?」(何処にいるのですか)
という書き出しのメールが来る。
アメリカの学生だった当時のリンダは私より八歳も若く、小柄で、青い目に金髪、盗みたくなるような的確な英語を紡ぎ出す「コトバ美人」で、遠く離れてからも文通が何となく続く間に、だんだんに彼女が年上のようになり、おばさんになり、そして今はと云えば、まるで母親のようなコトバが文面から飛び出す。
「where are you?」とはまさに、おふくろが、金の無心ぐらいしか手紙をよこさない息子に対して云っているような呼びかけだ。

 アメリカの留学当時、このリンダの他に、もう一人ジョージというギリシャ人の友人がおり、このアメリカ人と、ギリシャ人と、日本人の三人は、何となく緊密な三国同盟のような感じでつき合っていたのだったが、今回のメールにはジョージの奥さんについての消息が書かれていたのだった。

 ジョージは私と同じ年にアメリカに渡り、結局歯科技工士となって大成功したが、地中海育ちの彼はニューヨークの寒さに遂に耐えきれず、フロリダにたいそうな邸宅を構えて暮らしていたが、四十代そこそこで突然この世を去ってしまった。
その奥さんのエフィーもギリシャ人で、フロリダで、ジョージとの間にできた二人の子供を立派に育て上げ、今は一人で暮らしているが、眼が殆ど失明のような状態であるらしい。今回のメールは、そのエフィーに、今は同じフロリダ州に住むようになったリンダが、久しぶりに会ったという知らせだった。

 私はパソコンの画面で文章を読むと疲れるので、それをわざわざプリントにして、サンルームのロックチェアーまで持っていき、寝そべったまま読み始めたのだった。
リンダにとってはお見舞いに近い訪問だったらしいのだが、二人はしだいに話が弾み、ジョージとの昔話はとめどなく、エフィーも私の消息を知りたがっていることなどが書かれていた。

 私はロックチェアーの中でその話を読みながら、うとうととしてしまったのか、次第にジョージとのライブの時間の中へと引きずり込まれていったらしい。

2. ショージ・グレコス

 一九六三年、ヴァージニア州リンチバーグとインディアナ州の州都インディアナポリスで「コミュニケーション学」を終了した私は、二年前にリンチバーグの大学で知りあったギリシャ人の親友、ジョージ・グレコスを頼ってニューヨークへと出てきたのだった。
「コミュニケーション学」などと気取っても何のことだか解らないが、私はとりあえずテレビ番組の制作の神髄を学び、制作の経験を積みたかったのだ。
大学での勉強も、勉強嫌いの私にとっては珍しく面白く、特に教室での自主番組の模擬制作や、実際に民放局の番組制作に首を突っ込むことができたことは、ある種の自信につながったようだったが、やはりアメリカのテレビ番組制作といえばニューヨークであり、私はニューヨークに出てアルバイトをしながら、番組制作の専門学校で勉強しようと、単身ニューヨークにやってきたのだった。

 私がジョージに初めて出会ったのは、ヴァージニア州リンチバーグ・カレッジのキャンパスだった。外国留学一年目で、大学の学生寮の生活が始まったばかり、何もかもが目新しく、不安と期待で一種興奮状態で過ごしていたときだった。
キャンパスで突然目の前に現れたジョージは、短く縮れた金茶色の髪をし、ブルーの瞳は強い光を放っていた。いきなり話しかけてきたジョージの英語の発音は、カタカナ文字をぶつけてくるように響いた。西洋人でありながら明らかにアメリカ人・イギリス人・ドイツ人・フランス人・スペイン人とは違う、腹の底から胸板を響かせて繰り出されるギリシャ語とその声が私を魅了した。

「アイアム・ジョージ・グレコス・フロム・グリース。」
背は低いががっしりとした毛もくじゃらの手を突き出し、その手を握り返すと、分厚い手のひらがぐっと握り返してきた。
「アイ・アム・タカシ・ムロタ・フロム・ジャパン」
そういうと、
「ヴェリーグッド、マイ・フレンズ!。イン・グリース、ウィー・コール・イッツ・ジヤポネジコ!。、ユー・アー・グッドボーイ。アイ・ライク・ジャポネジコ・ヴェリー・マッチ、わっはっはっはっ!」
相手の胸板まで震わせてくるその声は、私に「ギリシャ」を感じさせるに充分だった。
私はジョージ・グレコスの声をもっと聞きたくなり、寮の部屋に取って返すとウクレレをつかんでキャンパスに戻った。
躍り上がって喜んだジョージは、いきなり私の首っ玉をかき抱いて、ふくらんだ髭剃り後のほっぺたを、ジョリジョリとこすりつけた。
それから二人は夕方になるまで、互いに解る歌を次から次へと唄いまくり、ギリシャの歌を教わり日本の歌を覚え込ませた。

 「イストナフロ・イストナフロ・ティサラサース、
  (サはtha と強く発音して頂きたい)
イアガピム・イアガピム・キマーテー、
パーラカロ・サスキーマター・ミムーティンネー・クスイプナーテー」

「ジョージ、ギリシャのことは日本の歴史の教科書にも沢山でてくるけど、ギリシャには有名な詩人が沢山いるだろう?」
「それはいる。ホメロス、エヴリピデス(エウリピデスの事だろう)、サフォー・・・」
「じゃ、ホメロスの詩を何か暗唱して聞かせてくれないか?」
ジョージは「任せとけ」とは云わなかったけれど、胸を叩いたような顔になった。
「Listen・・・Tak !」(彼は最初から私のことをTak と呼んでいた。)
ジョージはほんの一瞬だけ目を閉じたかと思うと、次の瞬間一直線に私の目を見据えてズバッと暗誦に入った。

 一言も解らないギリシャ語の詩の響きが私の胸に伝わってきた。それは今まで聴いたことのない、くっきりと濁りのない男性的な響きだった。彼の暗誦は何というのか、詩などを暗誦するときによくある気取りが少しもなく、自分が楽しんでいるところをお前に見せてやるぞ。そんな雰囲気が私を安心してそのギリシャ語の響きの世界へと誘い入れてくれた。
私はジョージの視線を感じながら、静かに目を閉じてその声に聞き入った。

「Do you like it・・・Tak? ・・・・But, I'm sorry I kan't explain this in English.」(彼は can't を kan't と発音する。「どうだ?気に入ったか?すまないけど、この詩の意味をうまく英語では説明できないんだ。」)
ジョージは眉間《みけん》にしわを寄せてそう云ったが、その気持ちは痛いほど解っていた。
「Goerge, thank you, thank you very much! I received the great impact!」
そう云いながら私は、こんな美しい響きを持った言語をもつ民族が、他にあるだろうかと思った。
古代ギリシャの人々が話していた言葉と、いまジョージが話しているギリシャ語は、多分万葉コトバと現代の日本語ほども違っているかも知れない。であったとしても、この美しい響きは今のギリシャ語にもしっかりと受け継がれているのだろう、と私は勝手に確信した。

「Do you know?, this is beautiful poem, ビーイ・ユーティフル!!」
こんな美しい詩は他にない、とジョージが云っている。がしかし、私にはこの詩の意味が何も解らない。私はその意味が解らない分だけ、ジョージの声の響きを胸にしまって置こうと、何回も胸の中で反芻してみたが、私はこのとき「ジョージとはきっと生涯つき合う仲になるだろうな」と感じながら、彼の暗誦するホメーロスの詩の響きを受け取っていた。

 ジョージはリンチバーグ大学にいるときから、「こんな田舎でブラブラしているのは時間の無駄だTAK、一緒にニューヨークへ出て勉強しよう!」と毎日のように私に迫った。
ジョージは生粋のギリシャ人のアテネっ子で(これは東京に三代以上にわたって住んでいる人を「江戸っ子」と云うのに近いニュアンスなのだが)、元ギリシャ空軍の士官だったせいか、言語明瞭で声がほんとに大きい。声もコトバも少しも不明瞭なくぐもったところがなく、全てが曖昧で、ものごとを明瞭に言い切ることのない私などの、どこが気に入ったのか、私を「親友」と決めてくれたみたいだった。そんなジョージが、
「TAK、オレはアテネで製薬会社に勤めていたことがあるんだが、薬屋は儲かるんだ!。だからオレはニューヨークに出て歯科技工士の勉強をしようと思う。おまえはテレビの勉強がしたいんだろ?テレビは日本じゃ儲かるのか?一緒にニューヨークへ行って働きながら勉強しよう!」
テレビが儲かる、という発想にはビックリだった。

3. 神学校に入る

 薬屋と歯科技工士。何だかめちゃくちゃな論理の飛躍だけれど、それをジョージが云うと、理屈じゃなくて猛烈な説得力があった。私もやがてニューヨークに出て勉強しようという意欲がわいてきたが、私にはアメリカに留学したいきさつがあった。
それは私の留学をサポートしてくれた、おふくろの友人のカナダ人がいたのだ。その婦人に、私がテレビの番組制作を勉強したくなった旨を伝えることにした。

 この婦人は大正から昭和にかけて、私の母がまだ独身だったころ一緒に秋田で教会を作る仕事に携わった経験もあり、日本びいきの非常に厳格なピューリタンだった。私の留学当時、彼女はインディアナポリスでキリスト教関係の出版などをする会社の役員をしていて、私に対しては強力な留学の味方というスタンスで、良き理解者の一人だった。その人の名は "Miss Jessie Merry Trout".
そのトラウト伯母さんは私の希望を彼女なりに考えて、彼女の住むインディアナポリスにある大学を私に奨めたのだ。その大学はバトラー大学(Butler University)といったが、その中に「Christian Theological Seminary」と云う修士課程のスクールがあった。その名前を聞いただけで私はかの女史が、私をキリスト教方面に組み入れようとしている、こいつはたまらんと判断したのだった。Theological Seminary とは神学校のことだ。

 「いや、せっかくだけどその学校はちょっと違う。私はコマーシャル・テレビを勉強したいんだ。神学校じゃないよ。」と反発した。そこで私は西洋人のものの考え方を学ばされることになるのだが、
「とにかくわたしの知っている教授がいるので、その人に会って話してごらんなさい。それから判断しても遅くはないんじゃないの?」
と云うのだ。
そう云われりゃそうだ。断っても良いなら会おうじゃないの。そんな思いでその教授という人に会いに行くことになった。

 日本では世話になった人に対しては、その恩義を尊重するが故に、あまり自分の思いを通すような云い方はしない。だから無下に断ったりもしない。そしてまた世話するほうも、何かしら意向というのか、思惑みたいなものが往々にしてあるものだ。
ところが一般にアメリカ人は "What you want?" "What can I do for you?" という思想が貫かれていて、"Is it OK for you?" という具合に、あくまでも相手の意向が満たされたかどうかを考える。それに対して自分は何がしてあげられるかを考えるという点で、非常にストレートで純粋なのだ。
この気質に、どれほど私が助けられたかを考えると(もちろん私ばだけではないかも知れないが)、アメリカ人気質の、この心の広さに感謝しないわけにはいかないし、これは日本人がアメリカを好きになる、心の奥深いところにある一つの理由かも知れない。

 私がMiss Troutと一緒に会った教授はDr. Stangerといって、言い切り型の話し方がよく似合う、アインシュタインを若くしたような顔をした、初老の紳士だったが、そのドクター・スタンガーが私の勝手な希望を聞いてからしばらく考えてこう云った。
「確かにここは宗教のコミュニケーションが目的で組まれた教科だ。けれども、どちらにせよテレビの製作過程を勉強するのなら、最初の二年間はどこで勉強しても同じだよ。だから、もし君がそれでも良いというなら、わたしは市内のテレビ局にも幾つか番組を持っているし、そこでの研修も含めて、君を受け入れても良いよ」と。

 このひとことで私の心は決まったようなものだった。その言葉のおかげで私の心は決まり、Butler大学の Seminaryで、一年間びっしりと勉強することになったが、それは私のあらゆる学校生活の中で最も忙しい一年となった。

 私の選択した学科はキリスト教概論・演劇論・スピーチ・台本制作・音楽・学校番組の制作、そして民間局での番組制作・音響制作・照明・キャメラ・演出そして芝居の巡業まで。
しかし私はもう一年大学に在籍することに決めた結果、ジョージの奨めるニューヨーク行きを一年遅らせることとなり、このインディアナポリスで忙しい一年を過ごすことになった。

 この大学での勉強は、全てが日本で云うゼミのようなものだったが、クラスは少人数、中にはマンツーマンのクラスもいくつかあった。
音楽などもそうで、アメリカ人というよりどちらかといえばザルツブルグあたりにいそうな、品の良いお爺さん教授との差し向かいで、そこにあった日本の童謡や唱歌の楽譜を、片っ端から歌わされたこともあったし、スピーチの授業も一対一で、自分の選んだ文章を音読するなどというものもあった。

 これは人前で行うスピーチの練習のための教科だったが、その中で私は「空襲」という、誰の作品だったか忘れたが、英国人の作家が書いた文章を、十ページほど暗記して、それを教授の前で抑揚高くスピーチしたら、その教授がビックリして私に九十五点をくれたりした。
それは教室で学生の座る椅子に教授が座り、ふだん教授が立つ演壇に私が立ち、一対一で声を張って話をするなんていうことは経験もなく、だいいち汗をかくほど恥ずかしかったが、とにかく家で練習した通りに私はしゃべったのだった。
五点減点の理由は「日本人で空襲まで経験しているのだから、自作の文章か、少なくとも日本人の文章から選んだらもっと良かった」だった。

 その通りだったかも知れない。しかし今から振り返って見れば、こんなことで悦に入ってはいられない。英国人の文章も良いが、それよりも静岡で実際に経験した空襲をなぜ題材にしなかったのか、そうでなければ、広島や長崎で被爆した人の手記だって入手できたろうに、と悔やまれる。
それにしてもアメリカの大学にはたいていこういったコースがあり、人前でのスピーチの訓練を受けるのが一般的だから、大統領なんかの演説はそう下手なものは見たことがないが、日本の政治家の演説などを見ると、訓練を受けていないことが一目瞭然だ。
余計なことかも知れないけれども、スピーチがちゃんと出来るかできないかで、国際会議などでは自分の主張に何人の人を引き込めるかと云うときには、会議の行方の分かれ道になってしまうことだってありうるような気がする。

 私は中学二年で洗礼を受けてクリスチャンとなったが、当初から教会のあり方に、馴染みにくい違和感を持っていた。それは信徒同士の交わりという関係と、教会という組織に対する疑問だった。信仰は、純粋に考えれば、本来人間と神との関係であり、突き詰めれば、自己の心の中に教会を築けばよい、という考え方をしていた私は、内村鑑三の「無教会主義」などに単純な共感を覚えていた。
キリストの死後の、キリストの弟子たちの行動、後に神の聖霊と出会い、衝撃を受けてキリスト者となったパウロなども、足しげく各地の教会を訪れて、その教会の人々と交わり、またそれらの教会に書簡を書き送って、信仰を深めあった経緯が、新約聖書にはたくさん出てくる、というより新約聖書の後半は、殆どキリストの弟子たちの伝道の記録といっても良い。しかしそれらの教会とは、現在のような教会ではなく、信仰を持った人たちが共に祈るためにだけ集まっていた、祭壇もなければその建物さえも無く、信仰によってのみ繋がる、同士のようなものだったのではないか、と私は解釈・判断していたのだった。
そうはいっても、当時私のいた教会にも、接しているだけでこちらの頭が自然に下がるような、立派な信者も何人かいたし、それらの人が熱心に教会の建物にやってきて皆と一緒に活動をし、祈りを捧げている姿に、否定的だったわけでもない。

 おかしな云い方かも知れないが、私は最初から、つまずきながらキリスト者になったといっても良かったかも知れない。
しかし、それでも何でも、私はキリスト教というものに強くコミットしており、この宗教に関しては知りたいことが山ほどもあったのだ。
だからアメリカのインディアナポリスで、神学校に在籍するチャンスに恵まれ、その学校にいること自体は、有り難いと思っていたのであり、そして何といってもギリシャ・ローマの時代や、キリストの誕生をはるかにさかのぼる、紀元前四千年あたりからのエジプトやトルコ、そしてパレスチナ周辺に存在していた文明の研究などの、特別な学問の古色蒼然とした雰囲気と、特に古い書籍や文献が発する独特の匂いに包まれている、そういう神学校の佇まいにも、ある種の興奮を感じながら過ごしていたのだった。

 しかしそういう雰囲気の中にありながらも、やはりアメリカはアメリカであり、そこに学ぶ学生はどうかと云えば、これがまた明るいというかシンプルというか、これが近い将来教会の祭壇に立ち、会衆を前にして人を信仰に導いていく人間か、と思うような学生も多く、わたしはそういった神学校の学生の何人かに、よく議論をふっかけたりしていた。

 私のような人間が見たかぎりでも、アメリカ人は純粋というか単純というか、たとえば既に牧師として教会を持っていながら、学校にも通って勉強を続けているという人も多く、その牧師が、車のグローブボックスにピストルをいれていたりしている。
「これで何するのよ?」
こちらも至って不まじめな質問をしてみる。すると
「これは護身用なだけだよ。」
などという返事が返ってくるものだから、
「神様があんたを護ってくれるんじゃなかったの? そりゃお前さんの信仰が足りないか、おさい銭が足りないかのどっちかじゃないのかい?」
決してほめられたものではない会話で遊んだけれども、私だってそんなこと云える義理ではなかったと思う。
だいいち、大学側から見れば、牧師になる勉強はもちろん、キリスト教の全てを研究するというのが、この大学が開かれている意味であるから、大学の施設を使って、コマーシャル・テレビに必要な知識だけを学ぼうという、私のような学生がいたことの方が異端であり、云って見れば私はアメリカという国の懐の深さに支えられて生きていたことになるのだ。
 そんな中で、神学生相手に冷やかすといった、不真面目な態度は感心しないが、私は旧約聖書がなぜか好きで、強い興味を持っており、その大学に在籍できたことは大変幸せな時間だったと今でも思っている。

 これも偶然なのだが、その大学の修士課程に細井宏さん(彼のクリスチャンネームは「テモテ」という)という日本人の先輩が勉強しており、私はその細井さんに何くれとなくお世話になっていた。
学校の授業での疑問点の解説、提出論文の校閲・校正(英語の書き直し)、旧約聖書に関する興味深い話の数々、かねがね不審に思っていたキリスト教にかんするあれやこれやの疑問への解説。
私はほとんど毎日のように細井さんの住んでいる宿舎を訪ねては話し込み、彼の貴重な時間を空費させていたのかもしれない。

 またこの細井さんに関してはこんな想い出もある。
細井さんとはかねがね「アメリカの食べ物は食べ続けると飽きる。」「全てが不味いかというとそうではないけれど、毎食となるとちょっとつらい。」そんな話をする中で、かれは図書館のアルバイトで稼いだお金で、当時インディアナポリスに二軒しかなかった中華料理屋に僕を連れて行き、よく食事をおごってくれた。
料理の味はお世辞にも中華料理というものではなかったが、当時アメリカ人の間で流行った「チャプスイ」と呼ぶラーメンの中にすいとんを落としたような料理を二人でよく食べた。
「美味しいですね。なんだか気持ちがほっとします。」
「いやあ、たまにはこういうものを食べないといかんね。そう、室田君は車を運転するよね。今度シカゴに日本食の食材を買い出しに行かないか。半井《なからい》博士のお気に入りの店があるんだよ。」
そして我々はある日曜日に吹雪の中をシカゴまでドライブしたこともあった。
こういう細井さんとの交流を通じて、先ず最初に私が学んだことは「本当に勉強する人はガリ勉ではない。」というシンプルな結論だった。

 細井さんはそこで修士(マスター)過程を早々に終了し、次なる目標の、シカゴ大学の博士課程に挑戦すべく、懸命に勉強しており、もうすでにその修士過程の教授三名からの推薦も獲得していた。アメリカといえどもシカゴ大学の博士課程に入るのは非常に狭き門であり、このセミナリーがシカゴ大学の博士課程に、アメリカ人以外、特に日本人を推薦するということは嘗てなかったことで、そのことに大学自体もかなり周囲から批判されてもいたのだ。
だから、推薦した教授たちも、よほど細井さんの実力を見抜いていたに違いない。 
 
 ということは、細井さんはアメリカの大学でも群を抜く優秀な学生であり、彼自身も云っていたように、もし順調にシカゴ大学で博士課程を修了したならば、彼は日本人で多分最若年の博士ということになるはずだったのだ。

 私はそんな修士過程の大学で、世界的にも高名な、ヘブル語の大家とされる半井《なからい》博士(Dr.Nakarai)や、旧約のスミス博士(Dr.Joseph Smith)などもいて、しかもそういう教授たちとも親しくさせていただいたので、普通の学問の過程では得られないような様々な話を、教授の家などに伺って聞くことができことも、得難い夢のような時間だったと思っているし、ふところの広いアメリカという国の、開かれた教育機会の恩恵に深く浴していたことを実感したのだった。

 何だかまわりくどい話になってしまったが、そのような一年をインディアナポリスで過ごした後、私はジョージよりも一年遅れて、ニューヨークに出掛けて行くことになったのだった。

4. 初めてのニューヨーク

 私がニューヨークに初めて行ったのは車でだった。
今の学生たちに関しては知らないが、当時のアメリカでは、学生が友達の車に長距離を乗せてもらう場合は、ふつう車の持ち主にお金を払う。
本当に親しければ別だが、例えばインディアナ州からニューヨークを通ってボストンまで行く友達がいるとすると、何人かの学生がそれに便乗しようとするので、それは一種の相乗り状態となる。そういった場合は間違いなくみんながお金を払うのだ。
それはごく自然に、
「20ドルだよ」だったり、
「済まないが20ドルくれるかい?」だったり、
「ガソリン・道路代その他で20ドルで良いですか?」
だったり、只ぶっきらぼうに、
「トウウェンティ・バックス(20ドル)!」だったりするのだが、友達でもお金を払うのが常識だったことは、当時の日本からの留学生の私にとっては新鮮だった。
私は、初めてニューヨークに乗せていってくれた友達に、いくら払ったか忘れてしまったが、とにかくそれは今まで経験したことがない、途中でモーテルに一泊するほどの長いドライブだった。

 しかしそんなことよりも、あの広いアメリカ大陸の半分ほどを横断する旅は、地表の起伏、地面の色、畑の作物、沿道から見える木や草、人々のコトバ、そういったあらゆるものがゆっくりじっくりと変化してゆく様は、私に大陸という存在の大きさをを実感させてくれたのだった。

 通る道路は全てが初めてだったし、重工業都市として習ったことのあるピッツバーグや、東海岸に出て北上する、フィラデルフィアの果てしないハイウェイは、今まで南部や中西部の田舎町に隠っていた私に、都会の興奮を呼び覚ました。
そしてやがて視界の彼方に、微かなニューヨークの摩天楼が飛び込んできたとき、私は心の落ち着きを完全に失い、旅の疲れもあったのだろう、頭の中にBGMが鳴り響くといったような感覚を味わった。

 その摩天楼は、これほどたくさんあったのかと思うほど圧倒的に林立していた。
フォルクスワーゲンを運転するその友人は、わざわざ私をマンハッタン島の北端まで、ハイウェイを一旦降りて回り道してくれたのだったが、、これはアメリカ人としては珍しい話で、普通だったら自分の通る道のどこかの地点、そこまでは乗せていってくれるのだが、それ以上でも以下でもない。その場所が私にとって不便だろうがどうだろうが、こちらの都合の良い場所まで乗せて行ってくれることは、普通しない。
彼は「おれはニューヨークの中まで入ったら迷っちゃうから」と云いながらもマンハッタンの入り口まで私を乗せてきてくれた。
「ハイウェイの途中で降ろされなくて良かった」というのがその時の私の偽らざる気持ちだった。慌てて走り去る彼の車を見送ると、
「ああ、おれはとうとうニューヨークのマンハッタンに立っている!」
という実感がじわじわと湧いてきた。

 私が車を降ろされた場所は、マンハッタンのたしか二百丁目辺りだったような記憶がある。私はその街角に立って、改めてマンハッタンを北側から打ち眺めた。そこには煤で黒く汚れた建物の群れ、しかも眺めているとクビが痛くなるほど高い、無数の高層ビルがひしめき合っていた。
面白いのは、その一つを見ればビルディングなのだが、全体の景色の中で見れば、それは無数の槍が突き立っているよにも見えていた。

 気がつくとそこはガソリンスタンドの敷地の中で、そこのおやじさんが私に気がついて、「どこから来たんだ?」と尋ねてくれた。
「日本からだ。ここで勉強するためにやって来た。」と答えた。
「どうだ、このスカイスクレイパー(摩天楼)は初めてか?凄いだろう。あの建物の部屋という部屋、地下室から塔のてっぺんまで、すべての部屋にお湯が走っているんだ。そのお湯はな、たった一つの会社が供給してるんだ。It's New York! 」
私はそのおやじさんを哲学者かと思った。
「う〜〜ん。!」
私はただ唸って、暫く呆然とそのスカイスクレーパーを、改めてゆっくりと眺め直した。
「この中にはセントラルパークも、エンパイアステートビルも、タイムズスクエアーも、ラジオシティーも、メトロポリタンミュージアムも、カーネギーホールも、ウオール街も、ブロードウェイも、ヤンキースタジアムも、全部があるんだ!」
そうして私の体の中に、私はたった今、一人でこのニューヨークにやって来たのだ、という感慨が湧いた。

 私はゆっくりと振り向いてスタンドの中に入り、そこの公衆電話からジョージに電話を入れた。
「イエース?TAK?・・今どこにいるんだ?」
この質問はその時の私にとって一番難しい質問だったのだが、私はそのスタンドのおやじさんの助けをかりて自分の居場所を何とかジョージに伝えた。
「じゃあ、そこから地下鉄に乗れ!簡単だ。”アイ・アール・ティー”という電車に乗るんだ。それしかないから分かる!”アイ・アール・ティー”だ。わかったか!?」
「乗ったらTimes Squareで降りろ。降りたらどこからでも良い、地上に出ろ。そうしたら俺の方から見つけるから動くな。」
それだけ云うとジョージは嬉しくてたまらないという空気を残して電話を切った。

 かの有名なタイムズ・スクエアーで、私は雑踏する横断歩道を歩いているジョージを見つけ、ジョージも私を見つけた。ガチッと抱き合うと、小柄で二重あごのジョージの濃い髯が私の頬でジリジリと鳴った。
「良く来たTAK!心配するな。ずっとオレのアパートに居ればいい。仕事なんかいくらでもある、何とでもなる、心配するな!」
貧乏の経験を笑い飛ばすジョージの暖かいコトバに私は安堵した。これからだ。これから俺たちの明るい未来が開けるんだ、という思いが二人の心に交錯した。

George Grekos。私よりも三歳年上のギリシャの旧空軍士官。リンチバーグの大学で一緒だった彼はアメリカで一旗揚げようと、はるばるここまでやって来たのだったが、底抜けに明るい性格と、軍隊で鍛え上げられた率直さは、彼の会話から一切の曖昧さを取り払い、お互いに下手くそな英語ながら、全てがストレートに通じるその風通しの良さは、今までの友達との関係では経験したことのない、新鮮な驚きだった。

 それから殆ど毎日のように、彼は私を色々なところに連れて行った。先ずは彼のアルバイト先のピザパイ・レストラン。いや、レストランではない、あれは屋台みたいな店だった。
彼は殆ど一日、彼が働いている間中、その店先に私を立たせてアルバイトに精を出し、「ベッラ・ピーツア!ベッラ・ピーツア!(これはその店の名前)」とひしめく通行人に呼びかけてはボクにウィンクし、どんどん私に手伝いをさせた。
またある時は、彼の知り合いのギリシャ人の大家族の家にもボクを連れて行った。そこには映画「ゴッドファーザー」に出て来そうな、恰幅の良い女主人が私を歓迎してくれたが、ミセス・カログリデスという名のこの夫人がまた、ハギレれの良い、コトバを投げつけてくるような、ちょっとけんか腰にも聞こえるニューヨーク訛りを完璧に使いこなし、そのインテリジェンスに溢れた会話は、二年間のアメリカ生活で忘れていた、アカ抜けた会話の楽しさを蘇らせてくれた。
しかしこの夫人はニュージャージーの場末に、汚らしいレストランを細々と経営するギリシャ人の女房だったのだ。そして私はジョージの奨めで、明日からそのレストランでアルバイトをすることになったのだが、そのアルバイトは、夕方の七時から翌朝の七時まで、夜通し十二時間、レストランの裏の調理場での皿洗いだった。

 いきなり飛び込んだその職場はすさまじいものだった。レストランといったって、何かを調理して出すなんてことは殆どない薄暗い調理場は、イタリア料理独特の油で床はヌルヌルし何度も滑ったが、そこに運ばれてくる皿だけを私は洗うのだ。
そこには昔良くあった、洗濯石けんの削りカスが一杯に入ったドラム缶が置かれており、その中には落としても割れそうもない頑丈なコーヒーカップが一個。そのカップで石鹸のチップを一杯すくってはシンクのお湯に放り入れ、それで皿を洗うのだが、そのヌルヌルはいくらすすいでも到底とれるものではなく、一度熱湯をくぐらせた食器をうず高く積み上げ、それが五十枚くらいになると店の棚にきれいに仕分けして重ねるのだ。
そのヌルヌルを落とそうとお湯に二度通すと、そのハゲ親爺が飛んできてお湯を無駄に使うなと怒鳴るのだ。私もすかさず怒鳴り返すのだが歯が立たない。いうことだけ云ったら、あとは全く他人の云うことなど聞いてはいない。そのたびに私はあのインテリのミセス・カログリデスとこのハゲ親爺の夫婦の関係を、どうまとめたら良いのか、それが解らない。ま、ギリシャ人の人間関係の懐の深さとでもしておこう。

 とにかく、私はその洗濯石けんのおかげで全身に赤いブツブツができ、その痒さに一週間ほど毎日悩まされたが、その痒さもさることながら、全身をぶつぶつに覆われるという、誰にも云えない、誰にも見せられない、言い様のない情けなさを噛みしめた。しかしそんなことがあったからといって、「お湯でのすすぎは一回だけ」というルールは動かしがたいものだった。

 そんなある日曜日に私はジョージの家に夕食に呼ばれた。
「TAK!仕事はどうだ?」とジョージが訊く。
「あのオヤジはオレの皿洗いの工夫を認めない。店に出たときに、客に呼び止められて立ち話をすると怒鳴られる。休憩時間を一切くれない。」
「給料はいくらだ?」
「週20ドル」
そう報告した。
「何だって!それならそんなところは早く辞めちまえ。どこか早く別の仕事を探した方が良い。日本はこんなにアメリカに進出しているじゃないか、どこかリッチな会社があるだろう?」
この一言を聞いて私はとても恥ずかしいと思った。
その通りだ、ジョージの云う通り、日本人の私は、こんなにもめざましくアメリカに進出している日本企業にではなく、いってみれば貧乏なギリシャ人の仕事人に世話になっている。そのことが恥ずかしかったのだ。

 私はその日から決心して、一晩中働いてからアパートに帰り、そのまま寝ないでマンハッタンに出掛け、手当たり次第に日本企業の門を叩いたいて回った。が殆どの会社で、
「キミはアメリカに何をしに来ているのだ。学生として来ているのなら、生活の手だてはついていると、アメリカ政府に報告しているだろうに。キミをうちに雇うことはできない。」
そう云われた。私はその商社マンを殴り飛ばしてやろうかと思ったが我慢した。
これではラチがあかないと判断した私は、今度は商店を回ることにした。するとすぐに一軒の食品店が私に興味を示してくれた。
忘れもしない"Japanese Foodland"という、日本食品を売るニューヨークでは一番の老舗だった。
経営者は日本人の二世のコンビで、戦時中に財産を没収され、強制収容所に入れられた経験のある五十がらみのおばさんと、子ども二人を持つ若夫婦の共同経営の店だった。
「明日から来てくれますか?給料は週60ドル、仕事を見て又給料はアップします。でもチップが給料くらいにはなると思うから頑張って見なさい。朝と昼はうちでご飯を出します。」
その店で今まで雇っていたプエルトリコ人がとても使いものにならなかったというので、困っていた矢先の交代要員ということが分かったが、電話の注文取りは九十%が日本語ということもあって私にとっては拍子抜けするほど簡単だった。
私はこのアルバイトのおかげで、単身アパートを借りることにした。アパートといっても未亡人の老婆が、アパートの三部屋を別々に又貸しするという、ニューヨークでは安くてポピュラーな貸し間のスタイルだった。

 その報告を聞いてホントに喜んでくれたのはジョージだった。
「あの変わり者のクソ親爺の所とは比べものにならん!」
手を叩いて喜んでくれたのは良いのだが、自分が紹介した人物をこんなにクソミソに云うのも良く分からなかった。でもジョージはさっぱりしたもので、悪いものは捨て良いものは受け入れるという、生活哲学に貫かれていたことが爽やかだった。

5. SAPPHOサフォー号との出会い

 そんなある日ジョージに電話を入れると、今週の日曜日は時間があるかと聞かれ、特に予定もなかった私はすぐに承諾、その日は珍しくジョージ夫妻は、私をタクシーに押し込みハドソン川の橋を渡りニュージャージーへと向かった。
ニュージャージーの港で少し迷ったが、やがてタクシーは一隻の小さな、その港中で一番汚らしい船の前で止まった。みるとその船は錆びて塗装がそうとう剥げていて、積み荷のためか喫水線がぐっと下がり、舟影は低く小さな船に見えた。
また船の向かい側の岸壁は巨大なくず鉄の捨て場になっていて、その荒れ果てたような景色は私たち3人を無口にしていた。しかし太陽は明るく輝いていて、こんな休日気分を味わうのは、いったい何日ぶりだろう、という思いで海面を眺めた。

 やがて船のデッキに、良く日焼けした髯もじゃの背の高いスマートな男が、にこやかにこっちに手を振った。その男はジョージの奥さんエフィーの、アテネでの親友の夫で、この船の副船長として乗り組んできたのだったが、彼の先導で私たちは船の中に案内された。

 案内された部屋は、日曜日の午前中の光りが明るく差し込む白い部屋だったが、そこで私たちは先ず船長に紹介された。船長の名はキャプテン・エフスタシオス(Efstathios)(親しみを込めて呼ぶときはキャプテン・スタシスとなる)。この「シ」はthでこれまたいかにもギリシャらしい名前だと思ったが、彼は私より少し背の低いどっしりとした体格に、栗色の髪をピシッと七三に分け、そこにグリーンの目が光っていた。船長といわれれば納得できる、何処から見ても貫禄のある風貌をした人物だった。

 船長・副船長を交えての会話から、今日は船上での昼食に招待されてることが分かったが、その前に副船長の計らいで、私たちは一通り船内を案内されることになった。
この船は「SAPPHO号」と云い、その名は紀元前七世紀ごろのギリシャの女流詩人の名前で、ギリシャで最も美しい悲恋の詩を残し、レスボス島生まれだったため、レスビアンという言葉はそこから生まれたのだ、とエフィーが私に教えてくれた。

 たまげた話だ。この船の名前がほんとうに「SAPPHO号」だと云うのならば、この姿は一体何なのか。それはあまりにも、残酷な程に疲れ切った姿を晒していたのだった。西欧では船の名前は女性の名前が付けられるのが習わしだと聞いたが、だとすれば船というものは、美しさを懸命に保たなければならない。やがて私はこの船に抱かれて太平洋を横断することになるのだが、今思えばこの時の姿はその航海を暗示していたとも云えた。

 副船長の名前はエヴァンゲリスといったが、船の乗組員たちは「キャプテン・ヴァンゲリ」と彼を呼んでいたので、私もその呼び方を真似た。キャプテン・ヴァンゲリは「SAPPHO号」がいかに優れた船であるかを説明しながら船内を案内したが、船長のブリッジにある操舵用の舵輪、そしてその真正面にある「角度計」に目がとまり、通りがかりにつまらない質問を一つ副船長にしてしまった。
「この船で今まで一番振れたのは最高何度くらいでしたか?」
副船長はその言葉を聞き咎めたように30度の辺りを指さして、
「この船は優秀な船だから、どんな悪天候でもこれ以上振れたことはない。」
と胸を張るように云った。

 その角度計なのだが、それはおよそ五十センチ四方くらいの、立派なマホガニーの板に、真鍮盤で出来た分度器の半円が下向きに張ってある。その分度器の外周を、半円形に曲げられたガラス管が張りつけられているのだが、直径一センチほどのそのガラス管の中は、何やら液体が入っており、その中に黒いボールが沈んでいた。
今は停泊中だからボールは半円形のガラス管の真下でじっとしているが、船が揺れるとそのボールは左右に動くことになる。ボールが真横に行けば船は九十度傾いたことになるという、実に単純明快な、今でいえばアナログの極地のような仕掛けだが、なるほど船には必要な計器として説得力を放っているように見えた。  

 一通りの案内が終わり私たちは船内の食堂ではなく、デッキの上にしつらえられたテーブルで昼食の接待を受けた。
料理は鶏の柔らかい煮込みと、スパゲッティーのトマトソースというオーソドックスなメニューで、それに名前を知らない、尖ったような形の、ほろ苦い葉っぱのサラダが付いていた。
会話は次第に和やかな感じになり、ジョージは持ち前の大声でジョークを連発し、みんなも大声でよく笑った。かなりエッチな話をしているのか、ジョージは時々私を振り返ってはウィンクをし、エフィーは恥ずかしそうにうつむいたまま笑っていたが、時々船長が私に振り向いては、英語でいろいろと質問してきた。
「この船はこれから日本に向かうのだが、私は日本には何回も行っている。君の郷里はどこだ?」
そこで何を思ったか、ジョージが突然私に向かい大声で云った。
「乗せていってくれと頼め!!」
衆目の中で、誰にでも聞こえる大声とジェスチャーで、ジョージは激しく私を急き立てた。

 アメリカに渡った頃、私の父は八十一歳で、私の留学を勇気づける手紙を何通もよこしてくれたが、ある時から手紙の調子が何となく寂しい感じになっていた。私もそのことがしきりに気になるようになり、ジョージにもそのことでよく相談してもいた。
別に帰って来いとは書いては来ないものの、どことなく寂しいような、不安なような調子が次第に感じられるようになっていた。
そうこうしているうちに私のアルバイトは次第に順調になり、翌月からは給料も値上げされ、チップは日に十ドル、週給は百ドルを越えるようになっていた。私は月に200ドルの貯金を実行に移していたが、生活が順調になればなるほど日本での父親のことが気になり、落ち着かない毎日を過ごすようになっていった。
(当時は固定相場制で一ドルが三百六十円。大学卒の初任給がおよそ一万三千五百円といったところか。だから200ドルといえば七万二千円、半年分の給料に相当した。)

 ジョージは私の父親のことをとても気にかけてくれていた。それは彼にも年老いた父親が同じように彼の帰りを待っていたからかも知れなかった。
しかし、ジョージと私の決定的な違いは、彼はやがて父親をアメリカに呼んで一緒に暮らそうと考えていたのだが、私はその方向性を考えたことはなかった。
「TAK!一回日本に帰った方が良いんじゃないのか?勉強したければそれからまた出て来れば良いじゃないか。」

 そのジョージがいま突然「乗船を船長に頼め!」と当の船長の目の前で云っている。それも何回も大声で云う。
「TAK!頼め。お前からこの船長に直接頼め!!」
ジョージはあからさまに船長を指さしながらわめく。ジョージがそう奨めてくれるのは嬉しいのだが、やはり衆目の前で私は恥ずかしさをかみしめていた。
一方、船長は目の前でそんなやりとりを聞いても、ゆったりと何も聞こえないような表情をしている。
そんなやりとりがどれほど続いたのだろうか。曖昧な態度をとり続けている私の中に突然「よしっ、頼んでみよう!」という気持ちが湧いた。
意を決した私はやっとのことでこう切り出した。
「キャプテン・エフスタシオス。この船で私を日本まで乗せていってくれませんか?」
船長はグッと私の目を見据えて云った。
「OK、乗せていってあげましょう。お金は要りませんよ。そのかわり木曜日には出帆しますがそれまでに乗れますか?」
「分かりました。何とか乗ります!!」
いきなりジョージは満面に笑顔をほころばせて立ち上がり近寄ってくると、例のジョリジョリのほっぺたを私にこすりつけた。

6. インディアナポリス往復三日

 後先も考えずこんな結論を出して良いものだろうか。生活が落ち着いたらと計画していた専門学校への道はどうするのか。
でも、後先を考えず私はサイコロを振ってしまったのだ。自分はものごとを整理して判断する能力に欠けているのは承知してはいるが、これがいつも私のやり方だった。
後悔をしても始まらない。自ら頼んだことは取り下げられない。私はそこから退路を断つようにして一歩を踏み出すことにしたのだった。

 さあ、それからが大変だった。第一アルバイト先には何といえば良いのか。そしてそれよりももっと大変なことは、私は自分の荷物を大きな鉄製のトランク二個に入れて、インディアナポリスの家に預けてある。それを取りに行かなければならない。そしてそのためにはインディアナポリスまでトンボ返りでも往復三日もかかる。
今度は私の方がジョージ夫妻を急かせるようにしてニューヨークに戻り、その足でニューヨークの巨大なバスターミナル「ポート・オーソリティー」に向かった。貧乏学生が身についた私には、いくら時間がないとはいっても、飛行機など思いもつかなかったのだ。
その日の夜、私は取り敢えずバスターミナルからアルバイト先に電話を入れた。
「突然、ほんとに突然日本に帰ることになったんです。日本に帰る船が見つかったんです。済みません!そうなったんです。」必死に話す私に、電話に出た二世のおばさんは、
「そりゃよかったじゃないのよ。急だけど仕方がないわよね。体に気をつけて、又帰ってきたら顔を出しなさい。」
そんな風に云ったと思うが、そのコトバを聞くと急に胸がつまった。何かそれに次ぐコトバ、そう、お礼の言葉が出てこなかったのだ。

 私はインディアナポリス往復のバスの切符を握りしめて夜行の特急バスに飛び乗った。今までの生涯でこんなにあわただしい経験は、空襲の時でさえしなかったと思うのだが、一旦バスに乗ってしまうと、今度はバスの時間に身を任せるしかないわけで、自分の乗ったバスが、町から町を通りすぎてゆく間延びした時間が私を苦しめた。
アメリカのハイウェイで一番スピードが早い大陸横断バスが、こんなにのろいと思ったこともまた初めてだった。

 インディアナポリスでは、元住んでいたトラウト伯母さんの家に飛んで帰り、留守の家を合い鍵で開けて入り、自分のトランクを二個引っ張り出した。何を書いたか殆ど覚えていないが、短い置き手紙を書いてトラウトおばさんのデスクの上に置き、そのデスクでしばらくの間ぼんやりとしていたが、最後に手を合わせ短く祈った。

 私はすぐさまタクシーでバスターミナルに取って返したが、私の乗るバスはまだ三時間も先のことだった。そこで私はセミナリーでただ一人頑張っていた日本人の先輩の細井さんに電話を入れた。
彼はシカゴ大学の博士号課程を、今までの誰よりも若年で取得するため、猛勉強中だったにも拘わらず、バスターミナルまで出て来てくれた。
「室田君、それが人生だね。それで良いんだよ・・頑張んなさい。」
バスターミナルのコーヒーショップでそういって、細い目の奥で笑った。

 私は日本人でこの人ほど、立派で強い英語を完璧に紡ぎ出す人を知らない。発音は決して良いほうではないが、ハッキリと明瞭で、しかしそんなことより、使う英語の語彙の豊かさ、英語の文章の強さ、そして旧約の歴史やギリシャ語、ラテン語、ヘブル語、フランス語、ドイツ語にも通じた的確な英語表現は・・・つまり使う英語の次元が違うのだ。私に学問の素晴らしさ、奥深さを感じさせてくれた人は、この細井さんだったと云って差し支えない。

 また余談になってしまうが、私は人を見ると、この人は頭がよさそうだ、喧嘩が強そうだ、女にもてそうだ、気難しそうだ、意地が悪そうだ、お金持ちらしい、教養がありそうだなど、想像してしまう悪い癖があるが、私の想像は大概の場合外れる。
だから、この癖が出そうになったとき、私はこの細井さんを思い出すようにしているのだ。

 もしも私がこの細井さんを街で見かけたり、レストランなどで観察する機会があったら、大変失礼な話だが、どこか乾物屋か何かの奥の方で帳面を付けている、陰気なおっちゃんくらいにしか思わないだろう。私だったらどうしたって、そんな風に見立ててしまうに違いないのだ。
でも、だからこそ人間というのは奥深いのであり、有り難いのであり、面白いのであり、素晴らしいものにちがいないのだが、そのことを私はこの細井さんから教えられたのだ。
何しろ私は細井さんとの初対面のとき、突然色黒の、四角い顔に銀プチのメガネをかけた、背の低いちんちくりんのお兄さんが私に近づいてきて、「いつ来たの?ここで何勉強するの?」と聞かれて、この大学の食堂か何かの、皿洗いのお兄さんかと思ってしまったのだ。

 私はこの細井さんと別れるとき、何故か私はもうこの人には一生会うことはないだろう、という思いを噛みしめていた。切り替えて考えれば、私はこの細井テモテ氏に出会えたことが幸せだったに違いなく、刻一刻と迫るコーヒーショップでの時間を噛みしめた。
バスが発車するとき、バスの濃いサングラスの窓の下で、細井さんは背中で右手を挙げ、もう歩き出していた。

 博士課程取得のための過密な勉強のスケジュール、私などには想像を絶するほどに求められる集中力、しなければならない勉強の量、論文の構成と資料収集。そういう中の三時間を、何事もないかのように快諾し飛んで来てくれる細井さん。
こんな先輩に、生涯のうち一人でも接することが出来れば、それはもう幸せというほかないだろう。
バスが走り出してすぐ、私は目をつぶり「ありがとうございました」と話しかけるように祈っていた。
 バスのトンボ返りでニューヨークに戻った私は、ポート・オーソリティーからタクシーに飛び乗り、ニュージャージーの港へと直行した。
「ああ、間に合って良かった!」私は鉄製のトランクと一緒に「SAPPHO号」の乗組員となったのだった。

7. ニューヨーク港での足止め

 エフスタシオス船長 「キャプテン・スタシス」は私に、この船では一番上等な部屋をくれた。それは船長と副船長二人と私の四人だけの、最上階のデッキ、Aデッキにある船室だった。船室は狭く細長いシングルベッドと机が一つだけ。それにベッドの足元には小さな洗面シンクと丸窓が一つあった。
それで充分だった。それは私にとっては長期間の天国を意味していたし、私はこれから始まる長い長い船旅の予感に、心を揺さぶられていたといって良い。
この「SAPPHO号」はまだエンジンもかかっていないのか実に静かで、港の中の小さな波が一万一千トンの大きな船体に、ポチャンポチャンと打ちつける音だけが船室にいる私の耳にも届いてきた。
船は明日出港する予定だがいっこうにその気配はなく、船員たちは町に買い物に出たりしている。大急ぎで飛び乗ってしまった私は、何か忘れ物をたくさんしているような気持ちだったが、それでは何を忘れたのかと云われれば、何も思いつくことが出来ず、何か買い物ぐらいしたいのだが、何を買ったら良いのかそれも思いつかなかった。

 しかしやはり翌日、船は静かに岸壁を離れた。出帆だった。けれども一旦出帆した「SAPPHO号」は、目と鼻の先のハドソン川の真ん中に、再び錨を下ろしてしまったのだ。
なんのことだかさっぱりわからない私は船長に尋ねてみたが、「もう二、三日ここに停泊する」と、ちょっと不機嫌にそれだけを教えてくれた。
この時初めて私の船上での退屈が始まっていたのかも知れない。何しろジタバタしたって行くところがないのだ。「そうか、これが船旅か」そう思って心を新たにしていた。

 船上で観察していると、しきりに小さなはしけが「SAPPHO号」を行き来している。そして船長もそれに乗ってマンハッタンに向かったりしているのだ。ならば私も乗せていってくれないかと思うのだが、どうも私の出国の手続きを船長が済ませたらしく、今から上陸はもう出来ないとのことだった。
「あ、なるほどね、そういうことだったの。」わたしの覚悟はこれで決まった。
決まったけれど船は一日経っても二日経っても一向に出帆する気配がない。そして艀からはいろいろな人たちが「SAPPHO号」に乗り込んでくるようになった。

 そのうちの一人はニューヨーク港のパイロットだった。
ふつう船は港に入ってくる途中で、その港のパイロットにかじ取りを交代する。そのパイロットはニューヨークの港の、水中の地形さえも全て知り尽くしているのだ。そのパイロット氏は投げ捨てるような、ニューヨークっ子独特の、あの切れの良い発音で話しかけてきた。
「あそこにでっかいハシケを五ハイ引っ張っている船が見えるだろ。ハニーボートって云うんだ。ニューヨークのウンコを沖合いに捨てに行くのさ。」

 これは私のくせみたいなものだけれど、こういう話を聞くと、この人はプロだ!と思ってしまう変な癖がある。そして私はそういう話が大好きなのだった。

 ウンコと云えば思い出す、このアメリカに来てすぐ、私はロスアンゼルスの親戚の伯母さんにハリウッド・ボールに連れて行ってもらったことがある。そしてそこで見たオーケストラのステージはうっとりするほど華やかで、楽団員と指揮者は真っ白なタキシード。司会者だけが黒のタキシードでオーケストラや演奏曲の紹介をする。
音楽はどこまでも明るく溌剌と弾んでおり、
「いや〜、アメリカってやっぱり凄いなあ!」
と、つくずく感心させられたが、困ったことが一つあったのだ。
それは休憩時間に行ったトイレの混雑とその臭いだった。

 アメリカといえば先ず、戦争で日本に勝った国。世界一ゆたかな国、どこの家庭でも自家用車を持っている国、いたるところでお湯の出る国、ピカピカと輝く国。そういうあこがれを一心に集めた世界最大、最強の国。ああそれなのに、どう馴染みようもないこの臭い。

 ウッ!と息がつまって目をやられて、どうしたって日本でなじみ深い便所の臭いとも、アジアの国々の、たとえば台湾や香港の、そういう場所で経験する臭いとも全く別物の、工夫や忍耐では如何ともし難い異質。
あのアメリカ人が、どこをどうして、どうなってこんな匂いのするものを吐き出すのか。これがあのマリリン・モンロー、エリザベス・テイラー、フレッド・アステアー、フランク・シナトラ、のいる国なのか。
そして、今そこに、ハシケに満載されて大西洋の何処かへ曳航されていくアメリカのウンコと、その背景に林立している摩天楼のまばゆい光景を見ながら、私は横ばいした気持ちを急いで元に戻した。そしてあわててパイロットのおじさんに振り返った。

「この船はいつ出港するんですか?」そう聞いてみた。
「ああ、この船かい、今スクリューのシャフトが冷えるのを待っているんだよ。」
「なんですか、それ。」
「スクリューのシャフトが膨張すると船が動かなくなるだろ?それが洋上で起こったら危険じゃないか。だから毎日三回、シャフトの温度をああして計りに人が来ているのさ。」
「じゃ、何かそれを冷やす方法はないんですか?」
「いや、この船には旋盤の切り子が船倉いっぱい積んであるんだ。そいつが熱の元さ。オイルを入れて冷やしてはいるんだけど、なかなか温度が下がらないんだよ。」


 やっぱりプロの話は面白い。私はすぐそこに林立する摩天楼を眺めながら、アメリカの大きさを思った。ニューヨークが一握りとなってそこにあり、夜になるとその摩天楼の全ての窓に明かりがともり、美しい玩具箱のような眺めだった。
晩夏の夕風を頬に受けながらその景色を眺めていると、私は今アメリカにいるんだという実感が湧いた。アメリカという国を見事に集約しているところ、世界の経済や商業を動かす原動力。音楽や演劇など、芸術のメッカがいま目の前にある。
歴史の時間の中で営々と続いているバーやレストランなどが、すぐそこに見えている。
夕闇に暮れなずんでいく、その巨大な街を美しいと思った。そしてその時「SAPPHO号」は一隻の堂々とした一万一千トンの美しい船として、巨大なニューヨークと対峙しているようにさえ感じられた。

 しかしその時私が乗り組んでいた「SAPPHO号」は、元々ギリシャの船なのではなく、この船は第二次大戦中にアメリカが今までで一番多くを建造した「リバティー船(Liberty Ship)」と云う米軍用の輸送船だったのだ。
その船体は敵の魚雷を受けても轟沈ごうちんしないよう、舳先を分厚い鉄板に護られ、エンジンは、恐らく音のためだろう、ディーゼルを嫌い、重油燃焼で蒸気タービンを駆動するという、蒸気船だったのだ。

この船の建造は第二次大戦を勝利に導くための、アメリカの一大国家プロジェクトであり、大戦中(1941〜45)二、七五一隻も建造されたと記録にあるが、同じデザインの船がこれほど量産されたことは世界にも例がなく、その数は何よりその設計の信頼性の高さを物語っている。

一〇、八〇〇トン、一〇・五ノットという性能で、当時としても航行速度が遅く、敵(といっても主として日本やドイツ)の攻撃の恰好の標的とされたが、その堅牢さと積載能力は貨物船としての資質に優れたため、世界の七つの海はもちろん、北極海でも盛んに活躍した記録があり、商船としは他を圧した。
第二次大戦中は、米国兵站《へいたん》の、隠れた最大の担い手として現役を続け、世界大戦後も長く商船としてその任務を完遂していたが、戦争の任務を終了すればそれで減価償却するはずの船舶が、戦後二十年以上も商船として更に活躍したことは、この船が優れていることの証左として記憶されてもよい。

 リバティー船の活躍は日本では殆ど知られていないが、アメリカでのリバティー船の従事者は優に百万人を超え、又この船で戦死を遂げた多くの戦没者を記念して、五月二十二日、オレゴン州のポートランドでは、米国大統領も出席する「商船の日」の式典で追悼を受け、リバティー船の戦績は現在でも賞賛し続けられている。

 こういう事実を知ったからといって、アメリカが良い国とか悪い国とか云うつもりはないけれど、アメリカが徹底して行う記録保存の精神を見せつけられるとやはり、アメリカという国家の一つの思想が見えてくる。
日本にだって世界に誇った「戦艦大和」や「空母赤城」、航空機なら「ゼロ戦」をはじめ「雷電」「紫電改」など数え上げたらきりがないほど記憶に残る艦船や航空機などが存在したが、それを作った工場の労働者や、それらに乗って散っていった人たちを記念する行事はおろか、従事者や戦死者の人名録すら何処にあるのか分からない。
それは何も日本の保有していた兵器を懐かしむというようなことではなくて、事実関係を誰の目にも開示し、それに色々な形で、従事させられた人の業績を記憶することは重要な気がする。
私はこの文章を書くに当たっても、インターネットで「Liberty Ship」を検索してみたが、船体番号が分かれば、戦後その船を保有した船会社名と船名そして最後に何処でスクラップにされたかまでが、大方分かるようになっている。ということは、人間ばかりでなく「物」に関しても人間が敬意を払っていることがよく解るのである。

 そういうアメリカが占領軍として日本に進駐してきたとき、日本のそういった記録や記憶を、徹底的に抹殺しようとしたのだろうが、そのとき日本人も占領軍に対して、その文化的な重要性は、戦勝国と敗戦国に差はないという点で闘えば、それを押し通そうとするアメリカが論理矛盾していることを自覚させられたのではなかったか。何故そういう点で闘わなかったのか。日本は敗戦後にほんとうの敗戦国になってしまったのかも知れない。

 しかし、そういうこの船の経歴をほとんど何も知らずに、私はニュージャージーの港から、名目上は乗組員の一員と云うことで、このリバティー船の「SAPPHO号」に乗船したのだった。しかしこれは乗船したというよりも、しばらくの間命を預けたと云ったほうが良かったのかも知れない。

8. やっとの船出

 湾内に再び錨を降ろしてから三日目「SAPPHO号」はようやく出港した。
しかしその時はまだニューヨーク港湾局のパイロットが舵を握っており、船は非常にゆっくりと、自由の女神で有名なStaten島とBrooklyn島の、湾が最も狭くなっている所を通過したが、そこには一九六三年当時、世界最長と云われる吊り橋が建設中だった。その橋の名前はVerrazano Narrows橋と云ったが、その下をくぐるとき、遥か頭上の足場の上を、職人が豆粒のように歩いていたのが目の裏に張りついた。
その橋をくぐったところでパイロットは「SAPPHO号」を止め、自分のパイロット船に乗り移った。そのパイロット氏が下船するとき「ボン・ヴォヤージュ!」と云って降りていったが、「ボン・ヴォヤージュ!」という言葉が心に深く響いた。ギリシャ人の乗組員の殆ど全員が無言でそのパイロットの下船を見送った。

 パイロット船と別れるとそこはもう大西洋だった。「SAPPHO号」は薄緑色の水面を静かに沖合いへと進んでゆき、アメリカ大陸が平べったい巨大な島影のようになっていった。その景色を眺めながら、「コロンブスがこの大陸を発見したとき、大きな島を発見したと思ったんじゃないか?」私はそんな思いを転がしていた。

9. 大西洋の一週間

 もともと船長から「航海の間、君は好きにしていて良い」といわれていたので、取り敢えず好きなだけブリッジに出て海を眺めて過ごしたが、それに飽きると船室に戻ってアメリカで買い込んだ本を読んだりして過ごした。
それはつまり、一日の時間は、全て自分の好きに使える時間だということになるのだが、考えてみれば今までの暮らしの中では、そういう時間を与えられたことは一度もなかったから、私はたちまち時間を持て余してしまった。

 することがないのである。こんな時読む本といったらば「エロ本が一番」なんぞという洒落た発想がその当時の私にあるはずもなく、元々読書好きでもない私には、これは一種の拷問のような時間にも思われた。
ではデッキに出て海を眺めるといったって、まだ陸地が遥か遠くに見えていたにしても、一日中それを眺めて過ごすわけにもいかない。船はまだフロリダ半島沖にも至っていない。私は副船長室を訪ね、何か船の中に仕事はないかと聞いてみたのだった。
「OK!君は船の中と外とどっちが良い?」
キャプテン・ヴァンゲリはそう云ってくれ、私はすぐさま、
「アウトドア」と答えた。

今になって思えば「インドア」と云って、機関室で蒸気タービンの油差しや何やらをさせられた方が、機械好きの私にとって良かったかな、とも思うが、でもそれはカリブ海から北緯十度、二十度という、赤道直下の航路を通りながら、機関室で働くということになったら、きっとその暑さだけでも耐えられなかったに違いない。翌日から私は甲板員の五名と一緒に船のデッキで働くことになった。

 仕事は簡単だった。甲板のサビ落としである。
普通の金槌があるでしょう。そのヘッドの、釘を打つあの部分が分厚いマイナス・ドライバのようになっていて、反対側のヘッドは同じマイナス・ドライバが九十度角度が変えられているのだ。つまりひっくり返すと先端部分の、縦横の向きが変わるので、叩く場所によってこれは便利だ。
それで叩いて錆を落としてみるとよく解るが、この場所はちょっと叩きにくいなと思ったら、ハンマーをひょいとひっくり返し、反対側で叩くと刃の向きが縦横変わるから、まことに使いやすいというわけだ。

 道具はこれ一つ。これでもって一日中、六人で一万一千トンの船の甲板の、ありとあらゆる場所を叩いて回るのだ。どんな狭いところも、裏側も、入り組んだ場所も、くまなく叩いて回るから、どれだけ時間がかかるかはわからない。もしかしたら航海中叩いても終わらないかも知れない。
「SAPPHO号」の甲板は全面が厚い錆に覆われていて、ちょうど牡蛎の殻のようになっている。これをそのマイナスドライバーの親分のようなハンマーで叩くと、その蛎殻のような錆がピチピチと砕け飛ぶのだ。そしてそのチップは手といわず顔といわず、そこらじゅうに飛び散るので、よほど気をつけてやらないと、手や顔や目に刺さったりしたら大ケガをすることにもなるのだ。今のように防じん用のメガネや、ゴーグルのような洒落たものなどありはしない。「注意」という心のゴーグルで自分を守るしかないのだ。

 こんな風に話すとずいぶんと貧乏な船だと思う方もいると思うが、そうなのです、この船ほど貧乏な船は、この時代、世界中の七つの海を航行する船舶の中でも、他にありはしない。

 船自体タダ同然で米軍から払い下げを受け、貧乏なギリシャの会社が、それを何十パイも保有し、一般の契約貨物は扱えないので、ギリシャのパイオリウスの港に、あろうことか釡を冷やした状態で繋留《けいりゅう》し(特に蒸気タービンの船は釜を冷やすことが最も船の機関を痛めるとされる)、世界に余剰麦や森林の過剰伐採などの特需が発生すると、釜に火を入れて出動して行くという。
乗組員はこれまたギリシャやトルコ、イタリア辺りの最低所得者をかき集めての出動で、たとえば屑鉄を積んでどこかの港に向け航行中でも、別のもっと金になる荷の契約が取れると、積み荷のスクラップを捨て、違約金を支払ってでも、新しいもっと金になる航海へ向かう、とまでいわれている。

 そんなことを航海中に教えられても仕方がない、もう海の上なのだ。わたしはこのハンマー叩きの仕事に精を出すことに心を決めたのだ。
しかし、しかしです。このハンマー叩きがそう簡単ではないことがすぐに分かったのでした。
当時二十八歳の私がいくら頑張っても二十分ぐらいしか腕の筋肉がもたないのだ。そこで今度はハンマーを左手に持ちかえて二十分、そしてまた右手だ。そして持ち替えるまでの時間がどんどん短くなり、とうとう申し出て、働くみんなを横目に休憩を取らせてもらう。するとみんなが笑う。空はあくまでも青く、海は紺碧の度を加えてゆく。

 「SAPPHO号」はカリブ海に入ったようだった。わたしは目を覚まし、洗面を済まし口をすすぎ食堂へと向かう。船長、副船長、コック長はすでに席について何やら話しながら食事をしている。遅れて来た私は、お盆を持って朝食を乗せてもらい席に着く。テーブルは船独特で、海が荒れたときのために、テーブルの四周を「お盆」のように、木の縁取りが回してあるが、今はそれが下げられている。
ボール一杯のスープとバケットのような硬いパン、それにバナナ一本。それだけだ。
私はこういう食事には馴れていた。何しろ空襲の季節を、粗食というか、貧食の苦い経験と共に通過してきているのだ。パンだけはお代わりができるというだけで、私はリッチな気分になれた。けれども周りの目は「こいつ、この食事に耐えられるのだろうか?不味いといって残したりはしないか?」興味津々、明らか全員の目がにそう云っている。私はパンくず一つ残さないようきれいに食べ終わり、船長に向かって真顔を作りひとこと、「I enjoyed the meal. 」と云った。

10. カリブ海の事件

 船がカリブ海に入ると何故か今まで晴れ渡っていた空がどんよりとし、海の色も灰色になってきた。雨は降っていないが雲行きが良くない。私も船長たちも何となく空ばかり眺めていた。すると主翼にフロートのついた双発の飛行艇が、低空で「SAPPHO号」の上を飛び去っていった。そしてその飛行艇は、ずっと先まで行ってから旋回して、また船の上空をかすめて飛んで行く。何だか「SAPPHO号」を監視しているみたいだ。
すると行く手はるか前方の海上に、貨物列車のような影が浮かんでいるのに気がついた。先頭だけは船の形というよりは蒸気機関車のようにも見え、煙も出ているが、後の数隻は貨車そっくりな、黒い箱のような形をしている。私は船長のブリッジに立って海面を一周ぐるりと見回した。
すると右舷前方一時方向に黒く大きな船影が近寄って来ながら、甲板ではチカチカと光の通信をこちらに向かって発進している。
一瞬「船が攻撃される!」という恐怖が走った。見ると船長以下、甲板にいるみんなが緊張した面持ちでその様子を凝視しており、副船長だけが忙しげに、敵と同じような投光通信機(これを何と呼ぶのか分からない)をブリッジ脇に取り付けている。
ああ、船というものはこんなものまでちゃんと装備しているものなのだ、と感心して眺めている私の横で、キャプテン・ヴァンゲリも光の通信を開始した。
「何て云っているんですか?」
「出港地と仕向け地を訊いている。」
「何なんでしょう、これは?」
「今はキューバが緊急事態だからね。おっと、乗り組みの人数も訊いてきた。」
私はキャプテン・ヴァンゲリとのやり取りで、やっと事態が少しずつ飲み込めてきた。
洋上に浮かぶ貨物列車は、米海軍の海上封鎖用のバリケードだったのだ。それを使って有無を云わせずカリブ海を航行する全ての船舶を停船させ、チェックしているのだ。そう解ったとき、私の脳裏に、鮮やかにある記憶が甦った。

 それは一九六二年十月、未だ私がヴァージニアの大学の学生寮にいたときのことだ。私は寮のロビーで学生何人かと夕方のテレビのニュースを見ていたときだった。アメリカのU2偵察機が、キューバ本土にソ連製中距離弾道ミサイルMRBMの存在を発見、相次いでIRBM三基が配備されているところも発見したことを報じていた。
その日、十月二二日にジョン・F・ケネディ大統領はテレビに生出演し、全米に向けてキューバの核弾道ミサイルの存在を発表、ソ連を激しく非難した。そしてキューバ本土を爆撃しようとする国防総省とCIAの強硬論を抑えて、ケネディ大統領は緊急国連安保理の開催を要求したのだった。

 その日テレビは国連安全保障理事会の緊迫した様子を生中継していた。議場では既に米国のスティーブンソン国連大使が、ミサイルの存在を認めるよう、ソ連のゾーリン国連大使に強く迫った。ところがゾーリン国連大使が白を切ったのだ。

 すると米国のスティーブンソン国連大使は、緊急安保理会場にスクリーンを用意し、照明を落とし、遂に、動かぬ証拠となる航空写真の何枚かを写し出し、その存在を認めるよう強く迫った。
国際会議の場で、妥協の余地を全く残さないこうしたやり方は、外交には全く素人の私が見ていても、ゾッとするようなシーンだったのを鮮明に覚えている。それは私の中で第二次世界大戦開戦のシーンと重なった。そしてその当時、大学のロビーのテレビでこの様子を見ていた私は「ああ、これで私も日本に帰れなくなったな。」そう直感したのだった。

 あれから十ヶ月、私はこんなところでこんな目にあうとは想像もしていなかった。が、事態は比較的に淡々と進行して、米海軍側がこちらの積み荷と航行計画を掌握すると、「SAPPHO号」は航行継続を許可されて、また静かな航海に戻っていった。私はカリブ海の水面を眺めながら、去年の十月に起こった、あの事件を改めて思い返していた。
そうこうするうち、右舷二時方向に大きな藍色の陸地が見えてきたが、それがキューバだった。思ったよりもずっと大きな、ガスがかかっているせいか、あまり高い山の見えない平らな島のようだった。
私は突然思い出したように自分のキャビンに取って返し、急いで携帯ラジオのスイッチを入れてみた。するとそこには、どこへダイアルを回してみても、キューバの底抜けに明るいカリブ音楽だけが流れていた。
それから一夜が明けると、翌朝には今まで見たこともない濃い紫色をした、あくまでも透明な、深い深い海が一面に広がり、「SAPPHO号」はその海を快適に航行し続けていた。

11. パナマ運河

 キューバ島が見えなくなってから二日、「SAPPHO号」はパナマ(漢字表記=巴奈馬)に到着した。その時は既に夜になっていたが、船が接岸するとすぐに、乗組員の何人かがいとも簡単に上陸していった。
ああ、こんなところで上陸する時間があるんだと気がついた私は、船長に上陸したい旨を伝えた。しかし私のパスポートでは上陸できないと分かり諦めたが、私の気持ちのどこかに「上質なパナマ帽を買いたい!」と云う思いが持ち上がったが、それはとうとう実現不可能な、儚い夢となってしまった。

 パナマ・シティーでの接岸は単に給油のためだけのものだった。これも貧乏船の知恵だったのだが、ニューヨークで満タンにすると、積み荷のスクラップ(鉄屑)はそれだけ少ししか積めない。だから出来るだけスクラップを沢山積んで油を少なくし、パナマに来たらそこで初めて満タンにすれば、パナマは警備や規則がゆるいから、そんなことが簡単に出来てしまう。まさに貧乏船を運行している人間にしか思いつかないような、驚くべき知恵だったのだ。

 一晩停泊しただけで翌日早朝には出港したが、「SAPPHO号」は間もなくパナマ運河へとやってきた。
地理で習ったパナマ運河とはまるで違い、想像より遥かに大きく長い、立派な運河だったが、想像したのといちばん違ったのはその幅の狭さだった。十万トンのタンカーだったらおそらく通れない程の狭さで、「SAPPHO号」でさえも、幅にそんなに余裕はないように思われた。
多くの日本人にとって運河といえば、東京の木場か、せいぜい荒川の放水路。大阪や広島市内に縦横に走る運河などには親しみを感じるが、スエズやパナマといった巨大な運河を想像するのは難しい。私もそういう日本人の一人だったが、この時初めてパナマ運河を見て驚いてしまった。

 まずパナマ運河の長さなのだが、全長ということになればそれは八十キロメートルもある。が、そのことよりも、私の運河に関するイメージが根底から覆されたのは、運河が二つの大きな湖をつないで、大西洋と太平洋を結んでいることだった。そして、この時まで私は全く知らなかったのだったが、その湖と海面との水位の違いを利用して、この運河が設計されていることだった。大西洋と太平洋の水位が違うことは知っていたが、この湖(何と人工湖)は海抜二十六メートルもあり、そこへ何万トンという船舶を持ち上げてまた降ろすという、その仕組みは驚くに値するだろう。

 「SAPPHO号」がカリブ海からこの運河に差しかかった時は、「ずいぶんと狭い水路に船が入るものだな」というくらいの感じだった。この水路は両側を水門で仕切り臨時のプールを造る。この水門を閘門(こうもん)と云うのだそうだが、船が入るとその閘門を閉じてプールのようにするのだ。そしてそこへその人工湖の水を流し込む。なにしろ水位が二十六メートルも違うのだから、アッという間にプールは水面が何メートルか上昇し、隣のプールと同じ水面となる。そうしたら隣のプールとの閘門を開き、船を次の水路へと移動させるのだが、そこにまた一つ仕掛けが待っていた。

 それは水路があまり狭いため、船が自力で直進するのは難しい。そこで水路の両側に設置された、アプト式の、重くて頑丈な電気機関車がその船を牽引するのだ。その機関車は「SAPPHO号」に乗っている私からも、手に取るように近くを走っていて、私はその機関手と話ができ、それが日本製であることが解った。
何万トンもの船舶を機関車が引っ張る。これは私も知らなかったことだった。それを何回か繰り返すと、中間にある人工湖へと出るのだが、その湖の航行距離が四十三キロというから、ざっと琵琶湖くらいはあるのだろうか。
そして太平洋側へ来ると、また幾つかの閘門を使って、船を順々に太平洋の水位へと降ろしてゆくのだ。赤道間近のパナマの蒸し蒸しする空の下で、大型船が陸に上がったような光景は一見の価値がある。

 このパナマ運河の通過は、今までの単調な海洋の航行と比べれば、私をほとんど甲板に釘付けにさせるほど新鮮な驚きの連続だった。だから私は、この直線距離にして八十キロほどの旅が、何時間を要したのか全く覚えていない。ただ太平洋へ出たときはちょうど夕方で、美しい夕日が船の行く手に静かに沈んでゆくところだった。

12. 太平洋へ乗り出す

 パナマで無事給油を終えた「SAPPHO号」は、ニューヨークでは絶対に許可されない重量となり、喫水線は水面のかなり下に潜っているはずだった。それでも太平洋に乗り出すとその航行は順調そのもので、じりじりと照りつける赤道間近の太平洋上を、のんびりと、ほぼ西北西に進路をとったのだった。
「のんびり」というのは乗船しての実感なのだが、実際にこの船は、順風・海流なしで十ノット程度しか出ない。十ノットといへば陸上の時速十八キロだ。
そのうえ重油燃焼とはいえ蒸気船だから、そのリズムたるやまことにのんびりとした感じで、日本まであと何日かかるかなど、考える気にもならない。今まで乗ったことのある大型船は、すべてディーゼルだから、ビリビリと相当な振動があったはずで、こういう船に乗って初めてそのことが解るというあんばいなのだ。

 このリズム感はたとえようもなく快適で、云ってみれば肩の力はすっかり抜け、まゆの間はのびのびと広がり、全ての人間の動作が、どうしたってゆったりとしてくる。甲板で振るうハンマーの音もカーン、カーンとゆっくりと響き渡る。船のどこにいても間近に聞こえるような響きが、照りつける甲板を駆け巡るのだった。
甲板叩きの仕事にもすっかり馴れてきて、私はハンマーを持ち替えなくても、一時間や二時間の仕事は、当たり前のようにできるようになっていた。午前中に二回、昼飯をはさんで午後に二回のお茶の休憩も、目を細めて水平線を眺めながら過ごすのが、何よりの楽しみになってくる。
ひっきりなしに飛び魚が、船をはるかに追い越してどこまでも飛んでゆき、イルカの群れが、船と戯れてどこまでもついてくる。これも蒸気タービンの「スットントントン、スットントントン」という間延びしたリズム感と、ゆったりとした船の速度が、彼らに安心した動きをさせているのかも知れない。
ああ、良い時間だなあ、と思う。このままずっと、どこにもに着かなければ良い、と思う。

 仕事が終わって塩水のシャワーを済ませ、食堂に入ってゆく。あっと云う間にみんな真っ黒に日焼けして、食堂に入ってすぐは、真っ暗な中に人の白目だけがぎょろぎょろと動いて見える。毎週木曜日にだけ出る一本の缶ビールが、宝物のように黄金の泡をグラスの中に輝かせ、世界一の贅沢な時間を味合わせてくれる。

 赤道間近の海の夕暮れは美しい。食事が終わって甲板に出ると、決まって船長や副船長がデッキチェアーに伸び伸びと横たわり、そこに船員たちも現れて賑やかなギリシャ語の会話が始まる。私にはそのギリシャ語はまるで解らないのだが、その語尾がくっきりと常に母音でくくられているため、何となく日本語に近い感じと、彼らのきわめつけのジェスチャーで、充分会話に参加した気持ちにさせてくれる。
私も時折ギターを持ち出してポロンポロンとコードを打ち鳴らし、思いつく歌を次々と唄う。そうして以前ジョージが教えてくれたギリシャの歌を、ギリシャ語で唄う。
船長も船員もビックリして私を見る。私はギリシャ語の発音には自身があるのだ。それはそうだ、全てが母音で終わるギリシャ語は、日本語と同じなのだ。あとは「th」や「ガギグゲゴ」をくっきりと強く発音すればよろしい。

 やがて一人の船員が進み出て私に新しいギリシャの歌を教え始める。メモなんかしなくても、二人で繰り返し唄っているうちにすぐ覚えてしまう。教えてくれる歌は、ほとんどがマイナーの悲しいメロディーだ。聞けば悲恋の歌だという。いわれなくてもそれは解る。
中には明るい歌もある。映画「日曜はだめよ」の主題歌、アンソニー・クイン主演の映画「ナヴァロンの要塞」に出てくる耳慣れたメロディー。映画の主題歌になるとみんな一斉に胸を張って歌う。私にはジョージと肩を組んで一緒に歌った時間がよみがえった。

 ふと気がつくと、べた凪の水平線に夕日が沈み、あたりが急に暗くなり始める。見上げると空に浮かんだ雲は濃いチャコール・グレイで、そのふちに輝くオレンジ色を残し、いよいよ暗くなり始めたと思った瞬間、頭上から、いま日没のあった西の海面までの、空のちょうど半分が鮮やかなサーモンピンクに輝き始めるのだ。さっき見た時よりも暗くなって来るはずの空が、鮮やかな輝きを発してもう一度明るくなる光景は初めてだ。
息を飲んで見守っていると、頭上の西半分だけピンク色の部分が、次第に西の海面に向かって非常にゆっくりと下がって行くのだ。輝いていた西側半分の空の、ピンクの巾が少しずつ狭まってくる。
そして気がつくと頭上の空から西の水平線に向かって、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の色の帯となって、西側半分の空を染めている。
海上で見えている空の半分が虹のように七色の帯になるなどという、始めてみる壮大な光景に、心を奪われたように見とれてしまう。
そしてその七色の光の帯は、次第にその幅を縮めて遂に水平線に没するのだった。その間、おおよそ十五分。そして夜の闇へと入ってゆく。
私は今までに見たこともないこの光景に呆然となり、みんなもその光景を黙って見つめている。気がつくともう上空に無数の星が輝き始めていたのだった。

13. ギリシャを食べる

 カリブ海を抜け、パナマ運河を通り、太平洋を何日も航海し続けて、その間、毎日どんなものを食べていたのか、そのメーニューの記憶が私には殆ど無いのはどうしたわけか?

 それは航海の全般を通じ、取り立てて驚くような豪華な食事だとか、はたまた絶対に食えないような、ヒドイものが出てきたわけではない事が、その理由かも知れない。
もう一つ、私はニューヨークにいる間に、イタリアンやギリシャ料理のメーニューに比較的馴れていたせいもあるだろう。
それ以外に思いつく理由とすれば、それは私が子供のころの戦争体験から、どんなに酷い食べ物を前にしても、父が食前の短い祈りを欠かさず、全てに感謝して残さず食べるよう躾けられていた、ということがあったからかも知れない。

 そんな航海中の食事で、私にインパクトを与えたメニューが一つだけあったのだ。
来る日も来る日も同じ食事、同じ仕事、同じお茶、そして同じ顔におんなじ海。
飽きるといえば、こんなに飽き飽きすることはないと思うのだが、そんな時は自分の中にある自動弁のようなものが働いて、そのことに馴れようとする自分と、その中に少しでも変化を見つけて、楽しもうとする自分がいる。そんな風に思えなくもない。
でもその日のメーニューは、航海中でたったの一回だけ、私に見事、強烈なインパクトを与えてくれたのだった。

 それはいつもの夕食の時だった。食堂に入っていくと、もう船長も副船長も食事を済ませて、例の小さなコーヒーカップの底に、半分くらいコーヒーの粉が沈んでいる、あのギリシャ・コーヒーをゆったりと飲んでいた時だった。
私はいつものように調理場のカウンターで大皿を受け取り、大きな丸パンから自分の分を切り分けてトレイに乗せ、キャプテン・ヴァンゲリの隣の席に座った。
すると先ほどまで、目を半眼にコーヒーカップを傾けていた船長もヴァンゲリ氏も、嬉しそうに私の向かい側に自分の椅子を引き寄せて私の顔をのぞき込んだ。

「こいつはギリシャ料理の筆頭《ナンバーワン》メニューだ。どうだい、旨そうだろう?」
私はいつものように彼等に微笑みを返し、初めて大皿に視線を戻した。
改めて見ると、大皿だと思っていたのは実は大きなボールのような深皿で、その中に、羊の首から先を真っ二つに割った「半割れ」が、でんっと盛りつけられ、その目が私をじっと見つめていたのだ!
「What's this?]
そう云いながら、私は皿の中を更によく観察した。
そこには羊の頭の半割れが、中央に鎮座し、何やら草原から引きちぎってきたような雑草が、半分透明なスープの中に散らされて浮かんでいた。

 私は、本当は気が小さいのだろうか?見た瞬間に防衛本能のような考えが、いやそうではない。考える前に変な行動に出てしまうのだ。それは、
「こんなもの、食料難時代にご馳走として食べた「マグロの頭」と思えばいいじゃないか。」
そういう構えで、いきなりその頭の中心にフォークを突き立て、まず一くち口に入れたのだ。
塩味だけで煮た、というよりもゆでたこの頭は、身がほろりときれいにほぐれ、「これは可なりいけるぞ」そういう味覚が口の中に広がった。

 いや、私は元々これを見た瞬間に、不味そうな食い物だと思ったのではない。ただ一つ、本当に私の気にかかった事はといえば、その頭の半割れに顔を出している羊の歯が、草の渋で裏側が真っ黒だったことだ。
これは、出来れば見えない方がもっと味を楽しめるのにナ。そんなふうに思い、フォークとスプーンを進めていった。次ぎに取り掛かったのは羊の脳の部分だった。それを一口食べると、
「Eh?Good?」(どないやねん。ええっ?)
副船長がそう聞いて来た。
「I think the good is the brain!」(この、ミソのところ。ここが旨いね。)
私はそう答えてチラッと副船長の方を見、すぐにボールに目を戻した。それは少年のころに食べた「マグロの頭」と比べて、どっちとは云えないくらい旨かった。
とろり、ねっとりとした濃厚感と、あっさりとした塩味の加減が絶妙なのだ。そして、これは魚でも同じだけれども、せせくり出して食べ始めると、しまいには両手を動員して、最後をしゃぶりきるまで止まらなくなるのだった。

 皮は剥《む》いてあるので、フォークでも結構食べ難くはなかったが、本当は箸が欲しいのにな、と思いながら、ウラもひっくり返してキレイに平らげたのだった。
もちろんこれは、ギリシャでもそんなに高級料理の部類には入らないに違いない。
けれどもこれは相当美味しいスープだったのだ。落ち着いてゆっくり振り返れば、羊の頭という複雑な美味を、ハーブのアクセントだけで、他にあまり色々と加えずに、あっさりと塩味だけで仕上げた極上のスープだったのだ。

 このスープは色々な意味でインパクトがあり、船旅の単調にアクセントをつけ、船長始め乗組員たちにも、食べる私を観察する、ちょっとした退屈凌ぎを与えてくれた、私に云わせれば、こいつはコック長の大ヒットだったと思っているのであります。

14. 大海原のレイド

 砂漠などで行う自動車レースがある。今では有名になった「パリ・ダカール・ラリー」や「サファリ・ラリー」などがそれにあたるが、フランスではこういうイベントを「レイド」と呼んでいるそうだ。
レイドとはもともと冒険というくらいの意味らしく、何日も何日も道も何もないアフリカの大地を、高速で飛ばす自動車レースなどは立派な「レイド」なのだ。
一旦走り出せば他に頼るものは何もなく、故障すれば自分たちだけで、自分たちが持っているものや、その辺に見つかる石や、動物の骨、人が捨てたと思われる空き缶や車の残骸など、何でも使い、自分たちの想像力をフルに発揮して修理を行う。直らなければその場所からは動けないことになり、動けないということは、発見してもらえなければそれは死を意味する。
だから冒険であり「レイド」なのだ。

 私もある時期「パリ・ダカール・ラリー・レイド」にあこがれて、本気でバイク部門に出てみたくなったことがある。それは身近な友人がラリー・レイドに出場してクラス優勝するなど、このラリーに関する詳細を知る機会に恵まれたからだったが、その友人を始め誰もが、ボクが一種の無知から「出てみたい」とほざいているのを、決してやめろとは云わない。云わないけれども話の内容はすべて消え入るように消極的となり、「ま、出るとすれば・・・・・ああでもあり、こうでもある。」と。
そのうちに段々と、自分の実力がまるっきりお呼びでないレベルにあることが明白となり、体力もライディング・テクニックのお粗末もさることながら、だいいち心臓の持病などを抱えているようじゃ、お話以前であることが解って、無事に止めたことがある。

 太平洋を快適に、いやこの船としては快適に航行しているある日のこと、甲板で海面を見ている私の目が何だか変なことに気がついた。
仕事をしながら見ているので良くは解らないが、船の速度が何だかバカに遅いような気がするのだ。でもまあ、そんなことだってあるだろう。広い広い太平洋のまっただ中なのだ。風も吹けば海流も変わるだろう。たとえ船は順調に航行していたとしても、何しろ順調でも十ノットかそこいらしか出ない船なのだ。海流だって場所によっちゃ十ノットなど軽く超えるものだっていくらもあるんだし、航行速度が半分くらいに見えたって別に少しもおかしくはない。

 おかしくはない、おかしくはない、と思いながら休憩時間になって私はデッキの手摺りに掴まって海面を、船がつくる波のしわなどをじっくりと観察してみた。
いや、やっぱり遅い。異常にのろいのだ。
「アッ、そうだ!船のリズムが遅いのだ!」あのスットントントンが異常に間延びしていることに私は気がついた。私は例によって船長のブリッジへと駆け上がった。
そこには船長が機関室と電話で話している姿があった。
「船長、船は速度を落としてますよね?」
「ああ、ボイラに穴が空いたらしいんだ。今エンジンを片方止めているんだよ。」
「そうですか。それは大変ですね。」
私は船長のプライドを傷つけないようにするにはどうすれば良いか、それだけを考えようとするのだが、どうも逆ばかりやっているみたいだ。
ようするに私の好奇心がいちばん邪魔なのだが、そのことが私にいちばん解ってないのでありました。
「船長、機関室へ見に行ってもいいですか?」
船長は「バカヤロー」とは云わなかった。
「キミはエンジンが好きか?」
「そうですね、好きですけど。そのエンジンを見たいんですが。」
「それはかまわんよ。だけど邪魔せんようにしてほしいんだ。」
「マリスタ。」
ギリシャ語では「はい」を「マリスタ」と云うのだが、これなんかは日本語の響きそのものなのだ。
船長の許可が出たんだ。これで好きなだけエンジンを見ることが出来る。

 私は何だか体が浮き浮きとしてきた。タラップを降り、自分のデッキからその下の船員たちのデッキの廊下を通り、下りに下って私はやっと機関室へと辿り着いた。
機関室は船底にあるのだが、この船の中でいちばん広い空間が船の中心にドカッと開いていて、そこには巨大なタービンエンジンが三基と、更に巨大なボイラーも二基が鎮座してあった。
そして片方のボイラーは火を引いてあるとは云え、まだ余熱は相当に残っていて、とうてい近寄ったりはできそうもない。
しかし私は次の光景を見てほんとうにビックリしてしまった。何とそのボイラーの中から職人が一人出てきたのだ。厚い革手袋をしているとは云え、その手に握られたスパナーからは少し煙が出ている。
彼は出てくると機関長と何やら話をし、今度は溶接機とアセチレンのツイン・ボンベを台車に乗せて、ボイラーの今度は下側へ潜っていった。
「へー、やっぱりこの船のボイラーに穴が空いたんだ。」
しばらくぼんやりしていた私は、視線をエンジンに戻していった。
巨大なエンジン・クランクが驚くほどゆっくりと回り、四メートルはあろうかというこれまた巨大なコンロッドを「ズッゴン、ズッゴン」と上下させている。

 これを見た瞬間、私は静岡で高校に通っていた頃の、ある情景を思い出していた。そのころ私は県立の静岡高校に通っていたのだが、その静高の友人に武藤君という物静かな男がいた。彼にはお姉さんが二人と弟が一人、そしてお母さんと、ほとんどこの五人で暮らしていた。
姉二人との三人姉弟のボクに対して一人弟がいるというのが羨ましく、またそのためか家族の雰囲気がわが家とは全く違った感じだった。
しかしその決定的な理由はもう一つ別のところにあったのだが、それは彼のお父さんは船乗りで、旭海運という会社の筆頭機関長として、それこそ七つの海を渡り歩いていて、殆ど静岡の家にはいなかったので、母親と子供四人の、五人暮らしのような雰囲気が、私などにはちょっと新鮮だった。
そこへ何ヶ月ぶりかでお父さんが帰ってくると、まずお母さんがはっきりと若返って見えたのが印象的だった。
そのお父さんは、ずんぐり、でっぷりとしてチョボ髭を蓄え、クリッとリスのようないたずらっぽい目をした愛嬌のある風貌から、ちょこっと冗談を飛ばす顔はまじめで、私があるとき友達のバイクで訪ねると、
「よー、ムロタくん。そのオートバイは君の?」
「いや違います。これは岡崎君のを借りてきたんです。」
「ほう、それ何ccなの?」
まるでひとの赤ん坊でも見るような、嬉しそうな目で云う。
「これですか?百二十五ccですよ。」
おやじさんはにっこり笑って、
「ひえー、細《こま》い、こまい!」
何とも云えない、嬉しそうに顔をほころばせ、目を細めてボクとバイクを代わる代わる見ている。
「おじさん、おじさんの乗っている船は何CCなんですか?」
「それはちょっと分からないけど九千五百馬力だ。」
そんな会話が甦ってきたが、
「武藤のおやじさんが乗っていたのは、こんな船よりもっとずっと立派な船だったんだろうな?」
という思いが、「SAPPHO号」の巨大な蒸気タービンのクランクを見ている私の中に鮮やかに甦った。

「船底での仕事も悪くないな。」
そんな思いを噛みしめながら、私はさっきボイラーの下に潜っていった船員が戻ってくるのを待ち続けた。

 太平洋の真ん中で、一万一千トンの貨物船がエンジンを半分止めて機関の修理を行う。こんなことがあるのだろうか?
それは充分ありうる珍しくもない光景なのか、それとも何年に一件、あるかなしかの珍事なのか、私には判定のしようがない。いずれにしても、私にとっては一生に一度経験するかどうかの珍事には違いなかった。

 私が船の速度の異常に気がついてから丸一日、「SAPPHO号」は半分漂流したような格好でボイラーに空いた穴の修理を終えて、いつの間にか再び快適なあの「スットントントン・スットントントン」という、のんびりとしたリズムを取り戻していった。

 「SAPPHO号」は別にレースをしているわけではなかったが、しかし、太平洋上で突如起こったエンジントラブルを、全くの単独、自分たちだけで修理修復して航海に復帰していく、これは立派な「洋上のレイド」とは云えないだろうか。

 屑鉄を売り払った会社があり、その積み荷を待ち受けている相手がいる。そしてその積み荷の運搬を引き受けた会社があり、その会社には積み荷の運行スケジュールもきっとあるのだろう。
そして「SAPPHO号」の船長や副船長はそのスケジュールに従って「SAPPHO号」を運行しているのであり、航海中に起こるトラブルにも対処しながら航海を続けているのだ。
何か男系家族の色彩が強いギリシャ人の社会、私だけかも知れないが、何となく戦前の日本の社会に近いように感じられる彼等の居ずまい。
男だけで乗り組んだ「SAPPHO号」の力強い側面をかいま見たようで、私はこの航海がますます心強いものに感じられたのだった。

ヤローイアロー ピゲナメー
キョロヤセー ナレガメー
イアロナパース イアロナルシース
タロヤムー ナルシミシス、 じゃんじゃん。

ジョージに教わったこの歌が、いつの間にか私の口を突いて出てきたのだった。

15. 太平洋の水泳大会

 太平洋にはベタ凪という日がある。その中でも出色は、辺り一面、見渡す限り鏡のような凪が訪れた日が一度だけあった。それは見事に、見渡す限り水平線まで、どこまでも凪なのだ。それは薄晴れた日の午前中に現れた。
私は船長に「こんな日があるんですね」と声をかけた。その日、十一時のお茶の時間に副船長のエヴァンゲリスが私に声をかけてくれた。
「今日は珍しく海が絶好の水泳日和だから、午後は船を止めて、全員で水泳大会をしよう。君も食事が終わったら支度をして甲板に来てくれ。」
そう云ったのだ。

 これは偶然かも知れないが、私はいつも甲板から水面を眺めると、海面に目を凝らし、この遅さじゃ歩くのとそんなに変わらないんじゃないか?私の泳ぎでもクロールだったら、最初の百メートルは負けない感じがしてならない。そう思っていつも眺めていたのだ。だからこの水泳大会はどこか腑に落ちる、持って来いの話に聞こえたのだった。

 そこでその日は昼飯を早めに切り上げキャビンに戻り、開けたことのなかった鉄製のトランクを開け、中をかき回してやっと海水パンツを引っ張り出した。それは昔から愛用していた競泳用のパンツで、それをはいてバスタオルを首にかけ、颯爽と甲板へと駆け降りていった。
そこにはもう既に、乗組員のほとんどが集まって、ガヤガヤと話し合っていたが、私が到着するとみんなが一斉に私を見た。私は自分の海水パンツが珍しいのかと、最初は思った。が、気がつくと、他に水着姿の男は一人もいない。そして次の瞬間みんなが笑っていることに気がついた!「シマッタ!!」と思ったがもう遅い。
「君はこの海でサメに食われたいのかい?」
船長が笑いたいのをこらえ、少し気の毒だという表情でそう云ったのだ。
マイッタ!いかにもオレらしい失敗をしてしまったのだ。でももう全てが手遅れだった。

 これは彼等の考えた一種の「人試し」だったのかもしれない。殆どの乗組員が一度も接触したことのない日本人。その日本人の気心を知るのだってそう簡単なものではないはずだし、仕事や食事、音楽などを通じて少しずつ分かってきたとはいえ、もっと知りたい、何か試してみたい気持ちも分かる。
考えてみれば何か悪意を感ずるいたずらではないし、何日掛かるとも知れない航海を日常としながら、安い賃金で働くこの船の乗組員たちは、来る日も来る日も、わずか二十六人の同じ顔ぶれでもあり、退屈するのは当然で、それでもそういう苦しい時間を、何とか乗り切ろうと彼らなりに工夫している。
全く異色の、私のような、見たこともない東洋人が乗り合わせたこと自体、彼らにとっては刺激になっているのかも知れなかった。
この貨物船の乗組員の純朴さは、一昔前の日本人にはよく見られたものだし、もしかしたら戦争で散っていった、日本の若い兵士たちも、こんな風だったのかなとも考え、ちょっと不思議な気持ちを噛みしめた。 

16. 小さな通信室

 私と同じデッキのフロアーに小さな通信室があって、狭い部屋が通信用の機材で更に狭くななったその隅に、ウェールズ出身の三十歳くらいの男パトリックが働いていた。
しかしこの船の通信士がそんなに忙しいはずもなく、退屈な日常を、なんとかやり過ごしているように私には見えていたので、声をかけることにした。
私が今まで何となく声をかけるのをためらったのは、パトリックの英語がひどく聞き取りにくいからだったが、通信室を訪ねて声をかけると、愛想良い返事が返ってきた。
この船でギリシャ人でないのは、この男だけだったのは知っていたが、ただ一人毛色が違うというだけでなく、なんとなく仲間はずれのような、いじめられっ子のような雰囲気を私は彼に感じていた。

 実はその雰囲気に関して、私は少し良からぬことを勘ぐっていたのだが、それはこの船に乗り組んでいる、エヴァンゲリスではないもう一人の、非常に小柄な副船長が、そうとうにオカマっぽいことに私は気付いていたのだ。
それにはちょいとしたワケがある。ある日その副船長シミオス (Thimios)が「あんたの携帯ラジオを見せてくれないか?」というので、私は携帯ラジオを彼の部屋に持っていったことがあった。そのとき彼は黒い超ビキニのブリーフ姿で待っていたのだ。

 赤道近い洋上で、自分の部屋にいるのに、どんな格好をしようが別に不思議ではないといえばそうだが、その当時、男のビキニ・パンツなんぞ見たことがなく、私はタマゲた。と同時に私独特の防衛本能がちょいと働いて、その時の会話の流れだったと思うが「自分はアメリカの大学で勉強しながら、空手も教えていたんだけど、良かったらちょっと習ってみませんか?」などとうそぶいてみたのだ。
しかしそれにしても、こうしたシミオスのような人の微妙なニュアンスは、ながい時間の中でしか見えてこないものなのか、今ごろになって馬脚を現したのか、という感じだった。

 レスビアンといわれたギリシャの美貌の女流詩人SAPPHO、そしてこの船に付けられた名前と乗組員のオカマ。
これは何か、つながりを感じないでもないという気がした。無理な類推といえばそうかも知れないが、もしかしたらギリシャという国の文化の奥行きが、こんな局面でのぞいているようにも見える。
オカマを文化と云ってしまうのは無謀かも知れないが、しかし、神の存在のアンチテーゼとしての人間のエゴが、紀元前の時代から、ギリシャには既に色濃く存在していたとすれば、これは文化といえなくもない。私はそんな思いを心の中で玩んだ。
今の時代の、同性愛者やオカマが多く見られる世相を、文化面から捉えることとは、次元の違う話なのだ。

 ま、いずれにせよ「空手」の話はけっこう効果があったららしく、それ以来シミオス(多分私より少し若かったのではないか)は私を部屋に誘うことはなくなったのだった。
しかし私はこの通信士のパトリックを見たとき、なんとなく彼がシミオスに苛められているのではないかという疑いを感じてしまった。もちろんそれが当たっていたかどうかは分からないが、その通信士がそういう雰囲気を持っていたこともまた確かだった。

 なんとなく暗い佇まいと、仲間はずれな感じは、ちょっと気の毒な雰囲気もあり、「ま、私は日本人だから、話しかけても彼が身構えることもあるまい」ぐらいの感じで話しかけていた記憶がある。
しかし実際に接してみると、パトリックはそんなに変わった男でもなく、普通に妻子があり、女房の尻に敷かれている生真面目な男というだけで、カマ気があるわけでもなく、まあ云って見れば「別に面白いわけでもない普通の男」ということになりそうだった。

 私はウェールズが何処にあるのかさえ正確には知らず、だいいちコトバは英語だと思っていたくらいだから、まことにいい加減で済みませんでした、と云いたいくらいだ。
それでもウェールズ語だって、聞いているうちに少しくらいは分かるだろう、と高をくくっていたのだが、これがまた発音からして英語とは似ても似つかない。聞いていると何だか嘔吐しているみたいな耳触りだった。
そんな国が、あの英国の同じ陸地内にあるということを知っただけでも、私にとっては一つの発見だった。イギリス人とは全くの別民族・別言語・そして全く別の文化を持ったケルト民族の国であることを知り、自分の知識の程度にあきれざるを得なかった。
でも、プリンス・オブ・ウェールズと云うではないか。これは英国の皇太子のことを指すことはけっこう知られている。がしかし、なぜそうなっているかを知る人は、となると、その数は激減するのではなかろうか。

 あなたはたとえば"Cymru am Byth"の意味を知っていますか?読めますか?と聞かれればボクは全くのお手上げだ。
「ウェールズよ、永遠なれ」という意味だそうだが、しかしだいいち、この三つの単語のどこがいったい「ウェールズ」なのよ。
こんな言葉は私の習った英語の授業には一度だって出てきはしなかったし、だいいち今でもこれは読めない。そもそも英語の辞書には出ていない。でもまあ、堅いことは云わないで、何しろここに正真正銘のウェールズ人がいるのだから。

 さてその通信室だ。これは一見しただけで誰にだって「こいつは第一級品だぜ」っていうことが解る。そうなのです。その当時だとしても真空管はないだろう! 

 通信室に入ると、洋上を飛び交うモールス信号が激しく交叉している音が耳に入ってくる。それは高速通信のとても聞き取れないような早い通信音と、「トトツー・ツートツーツー」という聞き馴れたモールス信号の音。高速通信は通信文を圧縮して送受信し、受信した側はそれを解析器で読み取る仕掛けだが、この船にそんなものは当然装備されてはいない。
モールスの送信機というものは、そのむかし理科の実験室だとか、戦争中にはそこらじゅうで見かけたあのモールス信号の発信機だ。カチカチカチと右手で押さえると、真鍮のレバーが動き、信号が送信される機械。それが一機卓上に置いてあり、その前にはいくつもの黒いダイヤルが並んだ凾が一つ。
まあ、これでも本社からの指令や、洋上に飛び交う天気予報の解読くらいなら、ものの役に立っているのかもしれない。だいいち一万トンかそこらのスクラップを積んで、会社の船が太平洋上でどんな航海をしていようと、アテネにある本社ではどうでも良いことなのかも知れないじゃないの。
私はもうとうに、私をいれて二十七人の男たちが、世界から完全に忘れ去られた「ほとんど漂流者」であることを感じ取り、だからそのことが返って私の心を自由に開放し、その一部始終をまるで他人ごとのように観察していられたのだと思う。
そして私がこうして通信室で油を売っている間も、「SAPPHO号」は蒸気タービンの音をのんびりと響かせながら航行を続けていたのだった。

17. 大圏コース

 ある日の早朝、私はかなり揺れる「SAPPHO号」の軋み音といっしょに人の唸り声がするので目を覚ました。
それはかなり大きな声で苦しそうに繰り返され、私は眠れなくなってしまった。
船の揺れと男の唸り声で、船の中は異様な雰囲気に包まれ、私は落ち着いていられない気持ちだったが、騒ぎ立てたところで自分はなんの役にも立たないと思い、目を開いたままじっと夜が明けるのを待った。
夜が明けると、唸り声の主はコック長のお爺さんだったことが分かった。船長や副船長が心配顔で行き来するのだが、声をかけることは何となくはばかられた。
副船長が通信室へ入っていくのを見てからしばらく後で、私は通信室へ行った。

 通信士のパトリックは、船長の命令で緊急電報を打電しているところだった。しかし空は曇っており、電波の状態が悪いのか、打電への返事はどこからも来ていないので、パトリックは珍しく焦っているようだった。
パナマを通過してから二十日も経っているから、船はもうハワイにも近いのではないかと私は思っていた。当然パトリックはハワイを呼び出しているのだが、ハワイからは打電の返事は来ていない。

 「SAPPHO号」の中はそんなこんなで緊急事態には違いないのだが、打つ手を打った後というものは事態のひっ迫している状況に反して、なんとなく間延びした空気が流れている。
打つ手を打ってしまえばあとは待つだけというのも、どこか日常感覚を逸れた感じなのだが、パトリックと私はいつの頃からか習慣みたいになっていてた、木曜日に出される一本の缶ビールを食堂では飲まずに、この通信室での退屈凌ぎに持ち込むようになっていた。
今日も二人は缶ビールの蓋を大事そうに開けて、それを飲みながらどこから入ってくるか分からない無電の連絡を待っていた。
「通信が届かないなんていうことは、良くあることなの?」
「まあ、こんな緊急事態はめったにないことだけど、たとえば本社を呼び出してから応答があって、連絡事項を伝えるのに三日ぐらいかかるのは良くあるけど。」
「本当かね?」
まあ実際にこの船に乗っていれば、彼の云うことはよく分かるものの、あのコック長の唸り声を一晩中聞かされた後では、ちょっとそれはないだろう!とも云いたくなる。

「この船はこの会社に来てからどのくらいになるのかね?」
「いや、ボクは知らない。この船に乗ってからはまだ三年しか経っていないし。」
「そう、でもボクはこの船の甲板を叩いて思ったんだけど、これ、相当にボロい船だよね。」
「ああ、もう世界でもこの船をいまだに動かしているのは、ギリシャぐらいしかないんじゃないかしら?」
「何しろ蒸気船だものね。でも、このゆったりとした感じはボクは好きだけどね。」
「TAKはまあ船乗りじゃないから良いけど、無線やってるとね、この船最近よく沈んでいるんですよね。」
「・・・・」
「去年はインド洋で一隻沈んだし、まあ良い船なんだろうけど、この船、機関室が真ん中にあるでしょう?あれ、前と後ろのハッチを満杯に積載すると、あの真ん中のエンジンルームの空洞が弱いらしいんですよ。」
「・・・・」
「もちろん普段はけっこう良く働いてるけど、海がシケて、大波の真上にちょうど乗っかると、プシッ!」
「・・・やばいな、それ。」
「大丈夫ですよ、この船は。」
パトリックの話は、云っていることは凄いのだけれど、実際に揺られながらこの通信室でパトリックからその話を聞いている限り、何か現実感が薄く「沈んだ船は沈んだ船」という感じが強い。
「パトリックはその船のSOSなんて聞いたことあるの?」
「それはないね。プシッ!といったら、もう何もできないもの。」
「・・・・」
「・・・・」
「Well,はやくハワイから連絡があると良いね。」

 そうこうしているうちに、パトリックが弾んだ声で「サンフランシスコが出た!」と叫んだ。けれどもそれは、一番近いホノルルには届かずに、ずうっと遠いはずのサンフランシスコにある「アメリカ太平洋沿岸警備局」が直接傍受したらしかった。
サンフランシスコの沿岸警備局は「SAPPHO号」に直ちに進路変更を命じ、ホノルルに向け全速力で航行するよう指令してきたのだった。
副船長が慌ただしくその電報を受け取って船長のブリッジに駆け上がってゆく。私はその後を追うように甲板へ出てみたが、空は厚い雲が立ちこめ肌寒い。そんな景色を見ていると突風が巻き起こり、甲板の埃が一斉に舞い上がった。
洋上ではそんなことはめったに起こるものではない。私はすぐさま海を見た。すると「SAPPHO号」は船尾に大きく白い泡の弧を描き、急旋回が始まっているところだった。
私はブリッジに取って返しキャプテン・ヴァンゲリの様子を後ろからみつめていた。
彼は私がそこにいるのを見て、
「これでSAPPHOは大圏コースを完全に失ったな!」
独り言のようにそう云った。

18. さようならコック長

 それから丸一日、「SAPPHO号」は一路ホノルルに向け全速力の航行を続けた。翌朝になってみると空は相変わらず曇っていたが、その雲間から、突然大型の飛行艇が現れた。
無電で「SAPPHO号」の緊急事態を知ったアメリカのコースト・ガードが差し向けたものに違いなかったが、飛行艇は船の上を旋回すると、もと来た水平線の彼方へと飛び去っていった。

すると今度はその水平線に忽然と大きな船影が現れた。その沿岸警備艇はまるで海の上に「アメリカ」が浮かんでいるように立派な船だった。

 ちょうどその頃「SAPPHO号」では救命ボートを降ろすべく、錆びついたようなエンジンを始動させたり、ボートのハンガーを水面側に倒し、出動の準備をしていたのだった。
ところが、水平線の彼方に出現した警備艇は、あっという間に乗組員の顔が見えるほどに近づいたかと思うと、ピカピカの救命ボートが二人の男を乗せたままスルスルと水面に降ろされた。
息次ぐまもなく、その二人の乗員を乗せたボートは高速で走り出していた。すると先ほどの飛行艇が何処からともなく飛来して来たかと思うと、そのボートの鼻先の海面めがけポーンと何か荷物のようなものを落下させた。
それは見事にボートの目と鼻の先に落下した。すると間髪を入れず、ボートの一人がその荷物をフックで引き揚げたかと思うと、全速力でこちらへやってきた。
その時「SAPPHO号」ではもう全乗組員がポートサイド(左舷)の甲板に居並び、固唾を呑んで成り行きを見守っていたのだったが、タラップはまだ降ろされてはいなかった。
向こうがあまりにキビキビと行動し、こちらが間に合わなかったのである。
到着したボートはしばらく海面に揺られていたが、もたもたとタラップが降ろされると、ズボンの折り目も正しい、見るもスマートなユニフォームの係官が二人、スルスルとタラップを上がってきたのだったが、私の目にはその二人の係官の履いた茶色の短靴が、ピカピカに磨き上げられているのが鮮明に焼き付いた。
その瞬間、「SAPPHO号」の乗組員全員が、まるでボロボロのホームレスの集団のように見えてしまったことに、私は強い衝撃を受けてしまった。

 コック長の部屋に入った二人のアメリカ人は、十分と経たないうちにもう部屋を出てきたと思ったら、コック長がその後から、危なっかしい足取りで出てきたのだ。
私は目の前を通りすぎるユニフォームの一人に声をかけた。
「大丈夫なんですか?」
「だいじょうぶ。彼は盲腸炎です。われわれも全力を尽くします。」
「あのー、さっき飛行機から落とされたものは何ですか?」
「医薬品のセット。今回の連絡で処方されたものです。」
「・・・・ありがとうございました。コック長の無事を祈ります。」
「Have a good trip!」
ユニフォーム氏はそう云うと早足に先の二人に追いついて行った。
三人はゆっくりとタラップを降りて、注意深く救命ボートに乗り移った。こちら側の乗組員は全員固唾を呑んでその成り行きを見守ったが、コック長が一度だけこちらを振り返って手を振ったとき、見守っていた乗組員たちが心配そうに手を振ったが、何人かの目に涙がに滲み、鼻水をすすり上げている船員もいた。
コック長が救命ボートのキャビンに姿を消してしまうと、そのボートは全速力で警備艇に向かって戻っていった。
警備艇は三人が乗ったままの救命ボートをスルスルと甲板まで巻き揚げてしまった。

 コック長の病名は「盲腸炎」だったのだ。アメリカの沿岸警備艇は長い汽笛を三声、ビックリするような大音響で太平洋上に残し、水平線の彼方へと消えていった。

19. 二つの電報

 大圏コースをすっかり狂わされた「SAPPHO号」は、改めて進路を直線コースに取り直して航行を続けていったが、私たちのグループは相変わらず甲板のサビ落としに精を出していた。
船橋の真下、船体の中央辺りから始まったサビ落としは、ぐるりと船首の部分を一周して、もう船尾の部分にまで達し、いよいよこの作業も終わりを迎え、錆を落とした甲板全体に油を塗ることになった。
キャプテン・ヴァンゲリが私に向かって、
「今日は甲板に油塗りをする。この油はクジラの油で、ちょっとにおいが強いが非常に優秀な油だ。あんたはこの臭は大丈夫かな?」
と云って人の顔色をのぞき込むような顔をした。
ははあ、オレはこの臭いに耐えられない、ひ弱な奴だと、きっと勘ぐっているに違いない。
そこで私は、
「あのねえ、日本は戦争で苦しい食糧事情を乗り越えた時期があるんだ。オレなんかもこのクジラの油で揚げたベーコンを食べていたもんさ。」
そいうって彼の顔色をのぞき込んでやった。
「よしっ、じゃ作業をする。」
そういって甲板に油を塗布する作業が始まった。

 棒の先に雑巾がついている、別名「横着雑巾」と呼ぶあれでもって塗っていく。その臭いは強烈で、甲板全体にゲボッと来るような匂いが立ちこめる。でも私は頑張った。というよりも、やはり子供のころあれを食っていたから、何とか耐えられたのかも知れなかったが、とにかく一日でその作業は完了したのだった。

 それが終わって部屋に戻っていると、通信士のパトリックが私を呼びに来た。何事かと通信室へ行ってみると、ギリシャのアテネからの電報で、コック長はホノルルで無事手術を終えて、もう既に元気でアテネに戻っている、というのだ。
いや、これには驚いたが、でも考えてみればあれからもう一週間は経っているのだから、そういうことになっていても別に不思議ではなかった。あの時は苦痛に顔をゆがめていたコック長が、ニコニコと笑っている様子が思い浮かんだ。

 ところが「もう一つあんたにも電報が届いてますよ。」というではないか!
ははーん、オレはまた担がれているんだなと思いながら、一枚の電報用紙を受け取った。するとそこには、
「MUKAENIYUKU,CHICHI」と書かれていた。
「エエッ!?」と思ったのは云うまでもない。
「ムカエニユク、チチ」は彼らギリシャ人やウェールズ人に書けるわけがない。電報が来たことは嘘ではない。でもどうしてこの船に乗っていることが分かったのか?私はそのことを未だ誰にも知らせてはいなかったのだ。
通信士のパトリックの話を聞くうちに、やっとこの事情がのみ込めてきた。それはつまりこうだったのだ。

 パトリックは船長の命令で、臨時の乗組員が一人この船に乗っていることを、荷受け会社のドッドウェル・トーキョーに打電させられたことがあったというのだ。それでドッドウェル社は、そのことを私の静岡の家族の住所に知らせたというわけだった。
「迎えに行くって云ったって、いったい何時、何処に行くのよ。オレだってそんなこと知らないんだぜ!」そう思いながら、もう一度電報用紙をながめたが、やはりこの電報はウソなのかホントなのかが判然とはしないまま、宙ぶらりんになってしまった。

 しかしそんなこととは関係なく、「SAPPHO号」はとうとう今までと違う海域に入ったらしかった。

20. 台風十七号

 この航海の予定はおおよそ四十五日。だったら今日あたりちょうど日本に着いているはずだった。朝のうちは曇っていたが海はまだ穏やかなものだった。目を凝らすと水平線の彼方にうっすらとだが、塔のように尖った島影が見えた。
「あれは何だろう?」
副船長と一緒に海図室に行って海図を見せてもらったが、それはどうもベヨネーズ列岩の一つらしかった。(後に「孀婦岩(そうふがん そうふいわ)」と分かる。)
そんな日だったが、昼ごろから急に海の様子が変わった。夕方からは相当なうねりとなり、揺られながら私は夕食を済ませ、食後は船員たちが暇つぶしをするゲーム室で、ぼんやりと彼等のカードゲームを眺めていた。
すると突然「ギャーギャーギャー!」というものすごい叫び声とともに、一羽のカモメがゲーム室に飛び込んできたのだ。それは船員の一人がマストに当たって翼を折られたカモメを、ゲーム室の丸窓から投げ入れるという、ちょっとした悪ふざけをしたのだった。がしかし、船乗りにとっては、それは海が荒れる一つの前兆だと分かったのだ。

 するとゲーム室でカードをしていた一人の男が、そのカモメを乱暴につかんで、その円窓から外に投げ返し、悪戯をした男を睨みつけた。
するとその丸窓から、一陣の風がサッと室内に吹き込んだかと思うと、テーブルの上のカードがパッと全部舞い上がってしまった。これでゲームはお流れだ。室内はしらーっとした空気となり、一人、二人と、そこにいた船員たちは部屋に戻っていった。
私も部屋に戻ろうとデッキに出た。すると何故か足元がふらついてよろけ、思わず手すりにつかまってから海面を見た。海は今まで見たこともないほどシケて来ていた。

 そのまま部屋に戻った私は、早めに寝ることにしたが、いちおう用心のため机の上のものは全て引き出しの中に仕舞い、洗面用具もすべて鞄の中に入れてから横になった。そしてそのまますぐに眠ってしまったらしい。

 翌朝早く、私は凄い物音で目を覚ました。それは部屋の中の椅子がひっくり返ってベッドの横をあちこちへ滑っている音だった。私は急いで起き上がりその椅子を寝かせ、机の脚にくくりつけ、再びベッドに戻った。
すると足の先にある丸窓から空が目に入ったが、その空が今度は海面に変わった。その時私は壁にある丸窓を踏んで立っているほど直立し、海面が丸窓にくっつきそうに見え、こんどはその海面がゆっくりと空に変わった。
「ああ、これはそうとうなシケになったな。台風かも知れない。」そう思ってぼんやりしていると、今度は船の中のいろんな音が聞こえてきた。ドアのバタンバタンする音、色んなものがガラガラ・ドッシャンとあちこちに転がる音、船の中は大混乱になっているようだ。

 私は起き上がり、それでもいつものように歯磨きと髭剃りと洗面を済ませ食堂へと向かった。向かいながらタラップを降りるときも、両手で手すりを持ち、その手を滑らせるように降りていくのだが、その時の船内の景色がバカに広い空間に見えたのを記憶している。
食堂にやってきたのは私とキャプテン・ヴァンゲリだけだった。私は船酔いにはめっぽう強く、酔うという経験がなかったので、その時も食欲は充分あったのだった。キャプテン・ヴァンゲリも同じようにケロッとしていて、二人は無言でテーブルに掴まるように座っていたが、調理場には人影が見えず、しばらくの間そうして待っていた。
するとやがてコックが一人出てきた。今日は火が使えないからこれを食べて我慢してくれ、と云ってパンとチーズの塊とリンゴを二個持ってきたのだ。
私と副船長は無言でそれを受け取り、それを口にほうばった。
「相当ひどい嵐ですね」私がそう云うと、
「たいした嵐じゃないよ。こんなのは珍しいことじゃない。」
多分キャプテン・ヴァンゲリは、私を少しでも安心させるためにそう云ったのかも知れなかったし、船乗りのプライドが断じて弱音を赦さなかったのかも知れない。しかし彼の目はやはり緊張していた。

 そんな風にして朝食を済ますと、二人は申し合わせたようにブリッジへと向かった。
そこではもう既に船長が操舵士を横に立たせて自ら舵をひいていた。そしてその目は明らかに緊張しているのが分かった。
今まで船長が自ら舵を引くことはなかったが、こういうときはやはり船長が舵輪を握るのだ。それは納得の出来る姿だった。
しかし副船長が到着するとすぐさま舵取りは交代し、私はその後ろに立って船の前方を始めてしっかりと眺めた。
前方五メートルにあるブリッジの大窓からは、水平線が物すごい落差で上下し、また左右にも激しく揺れて、雨はほとんど水平に叩きつけていた。私の体の感じでは、おそらく五秒間に十メートルくらいは船体が上昇し、そして五秒間でその十メートルを降下すると云った感じだ。
私は思い出したように、副船長の正面にある件《くだん》の「角度計」を見つめた。するとガラス管の中の錘《おもり》は、とうに三十五度を通り越し、四十度近くに達する程だ。私は咄嗟に乗船する前に副船長が話していた「これ以上揺れたことなんてない」と云っていた三十度という角度を思い出していた。

 そしてふと見ると、すぐ左に立っている操舵士の身長が、船が右に傾くと三十センチ位も高くなり、右に傾くと低くなるという、今まで経験したことのない不思議な感覚に「オーッ!」と思った。
そのとき気がついたことなのだが、船長も副船長も操舵士も、その十秒間の上下や左右の揺れに対して、自分でも体で調子をとっているのだ。
私はさっそくそれを真似てみた。すると、実際に自分の体はそうとう揺られているのだが、何かそれを大所高所から見ているような感じになり、心身に受ける揺れのダメージが軽減できる感じなのだ。
これは得をした。「いやあ、これは発見だ!」そう思った。

 しばらくするとまた操舵士が交代した。私は少し気安さを感じ彼の横に並んで海面を見つめていた。すると彼が私に訊いた。
「Shave, shave?」
自分の頬をさすりながら云う。分かった。ヒゲを剃ったか?と訊いているのだ。
しばらくの間をおいて私の心臓が「ドキンッ!」と鳴った!
これはまずかった。ヒゲを剃ってはいけなかったのだ!
船乗りはシケのとき、兵士は出撃のときヒゲは剃らない。男は死を覚悟したとき、はじめて髭を剃る。

 私は正直、青くなった。船乗りの「験《げん》」を破ってしまったのだ。この状況がさらに悪化し、船が沈むか沈まないかの瀬戸際になったらば、この縁起の悪い髭を剃った男は、海に投げ込まれるかも知れない。でももう剃ってしまった髭は元には戻らない!
私はすぐさま副船長をブリッジの脇に連れて行って謝りたかったが、船は今それどころではなかったのだ。
それから私はブリッジから横のドアを出て外の風に当たった。真横に殴りつける雨粒は顔に突き刺さるような痛さだったが、しばらくの間そこに立って船の舳先を見ると、舳先は大きなうねりの波頭にミシミシという音を立てながら昇って行き、頂上で一呼吸止まったかと思うと、そのままゆっくり下降し、こんどは舳先がギュッギュッギュッという軋み音とともに海中に潜ってしまうのだ!
潜ってそのままもう浮き上がらないのかと思う一呼吸をおいて、またミシミシ、めりめりと音をたてながら浮上してくるのだった。
この光景は、このまま船が再び浮上せず沈んでしまっても、少しもおかしくない状況だったが、どうしたものか私は急に何か歌が唄いたくなったのだ。
最初に口を突いて出てきたのはこれだった。

「霧が流れて むせぶよな波止場
思い出させてよ また泣ける
海を渡って それきり逢えぬ
昔馴染みの 心とこころ
帰る来る日を ただそれだけを
俺は待ってるぜ」

一つ唄うと、何の脈略もないのに次々に歌が出てきた。

「日暮れが青い灯 つけてゆく
宵の十字路
涙色した 霧が今日も降る
忘られぬ ひとみよ
呼べど並木に 消えて
ああ哀愁の 街に霧が降る」

「長い旅路の 航海終えて
船が港に 泊まる夜
海の苦労を グラスの酒に
みんな忘れる マドロス酒場
ああ港町十三番地」

 次々と脈略もない歌が飛び出してきたが、ギリシャ船に揺られて、しかも嵐のただ中で唄う日本の歌謡曲というのは、なんとも馴染みの悪い世界には違いなかったが、それは死を覚悟したときの祈りみたいなことだったのか、それとも、底知れない恐怖を跳ねのけるための私流の挑戦だったのか、そこのところは判然としなかった。

 ただ、唄い終わると私はもうすっかり映画の主役気分に浸りきったみたいに、その場に仁王立ちとなって、波に翻弄される船の舳先を見ていた。そしてなぜか私は「この船は絶対に沈まない。」「私をここまで、もうあと一週間で日本だというところまで連れてきて沈むはずはない。」そう確信した。
なんの根拠もない、まことに身勝手な自分中心の考え方には違いなかったが、それでも何でも「沈まない!」という自信に疑う余地はなかった。

 その時私は目の縁に何かの視線を感じて振り返った。気がつくと扉の小さな丸窓の中から、操舵士のお兄さんが私を手招きしているのが目に入った。それを見た私はやっと我に返って扉を開け、中に入っていった。すると、その操舵士のお兄さんは私を間近に呼び寄せて、
「気が散るから止めてくれ!歌を唄うのは止めてくれ!」
小さな声だったが、きっぱりとそういったのだ。
私は股間にカッと汗が吹き出たような気分に襲われた。
「オレはなんてバカな奴なんだ!オオバカ野郎だ。」
情けなさが込み上げて自分自身をめった打ちにしてやりたいような気持ちだった。
「すみませんでした。」
舵輪を握っている操舵士には到底聞こえないほどの小声でそれだけ云うと、私は操舵士のずっと後ろの方から、大波にもみくちゃにされている舳先を見つめていた。

 ところがである。そんな揺れに慣れっこにもなってきた午後の三時頃だったか、突然「SAPPHO号」は揺れるのを止めた。キツネにつままれたような感覚で私は海をしっかりと見た。
確かに凪いでいる。海面はちゃんと平らになっているのだ。よく見ると丁度水平線のあたりまで海は平らに見えているのだ。しかしその水平線の彼方は三百六十度、俗に云う「ウサギが飛ぶ」状態に荒くれだっているのが見える。すると、あろうことか薄日が差し始めたのだ。
「これは大変だ!台風の目だ!」私は直感的にそう感じて鳥肌立った。

 その凪状態はものの十分もあっただろうか。再び海は今まで以上に荒れ狂い出したのだった。
私は今度は船尾に行ってみることにした。ブリッジデッキの最後部に立って見ると、船が海に対してどのようになっているかが、更に良く、手に取るように眺めらる。

 それは直径五百メートルほどだろうか、深さも五十メートルほどの、巨大な噴火口のような海のすり鉢ができ、その底をめがけて、船はまっしぐらに、船尾に白い泡の帯を引いて下降してゆき、そこから今度は、噴火口の底自体がむくむくと盛り上がってゆき、船を三角の波頭の頂上に持ち上げるのだ。そして持ち上がり切ると、今度はその一万一千トンがサーフボードのように噴火口の斜面に泡の帯を引いて下降して行く。そして船尾からは、その景色の中で「SAPPHO号」は小さな一枚の木の葉のように見える。そしてその繰り返しだ。

 その日一日、「SAPPHO号」は船長の説明によれば、大きなうねりの押し寄せてくる方向に対して、正確に三十度の角度を保つ。そのために必要最小限のスクリューの回転を保ちつつ、その角度を保ち続けるようにするのだそうだ。ただそれだけを、船が上下しようがどうしようが、海が静まるまで続ける、というのだ。

21. 夕暮れの八丈島

 私はそれでも食堂に相変わらず食事をとりに行き、夜になれば一万一千トンが発する軋み音を枕に眠ることができた。決して神経の太いほうではない私が、なぜそんなふうに過ごせたのかは解らない。別に居直ったり、開き直ったりという気持ちになったわけでもない。ただただ、夢中になっている内に時間が通り過ぎて行ったのだ。
翌日も丸一日そういうシケの状態は続いていた。そんな中、私はまたもや妙なことを思いついてしまった。偶然、ほんとうに偶然にふと、ラジオをつければもしかしたら、日本のNHKからの気象状況が聞けるかも知れない、と思ったのだ。

 この一九六三年の当時は普通、航行する船舶は、この海域では銚子と潮岬から、朝夕二回発信される無線の天気概況を頼りに航行しているらしいのだ。もちろん今はそんなことはない。GPSや衛星を使えば正確な気象情報を手にすることもでしるし、自分の船の状態を上空から直接見ることだって出来るかも知れない。しかし当時はモールス信号の天気予報しかなく、それも一日に二回しか更新されないから、実際に暴風域に突入したような船舶にはほとんど役に立たない。

 私は部屋に戻ってラジオをつけた。やっている、やっている。良く聞こえる。
「北緯30度・東経141度・南南西の風・風力は45・暴風。北緯30度30分・東経141度30分・南南西の風・風力は44・暴風。」
当時は「お天気概況」といって、こんなふうに等圧線をを引くための、地点ごとのデータを放送していたのだ。
「午後三時の気象情報をお知らいたします。台風一七号は現在八丈島の南南東、北緯31度50分東経141度20分を時速三十キロで東北東に進んでいます。中心付近の気圧は985ミリバール、台風の中心から二百キロメートル以内の海上は四十メートル以上の暴風雨となって・・・」
という普通の天気予報もあるにはあったが、私の聞いた「お天気概況」は副船長に伝えるのには好都合だったので、私はすぐにこれをメモし、急いで副船長室へ向かった。
事情を話しメモを渡すと副船長は私を引っ張って海図室へ連れて行った。すぐさまその海域の海図を引っ張り出し、コンパスを使って距離を測り始めた。そして今度は船長室へ行って船長を海図室へ引っ張って来た。
一睡もしていないらしい船長は、赤い目をギョロリとさせて副船長の話を聞き、私の顔をまっすぐに見て云い放った。
「船には正式な天気概況がある。こんな日本の、ラジオの話なんか聞いてどうする!」怒ったようにそう云うと、スタスタと引き揚げてしまった。

 私はなぜか感動してしまった。船長というのはこうなければならないのだ。私は又一つ何か貴重な体験をしたような気分になっていた。しかしそのおかげで、私たちは丸二日間というもの、台風に翻弄されながら完全な漂流状態にさらされていたのだったが、夕方になるとその嵐は嘘のようにピタリと止んだのだ。

 部屋にいた私は驚いてすぐに甲板に出た。外には既に夕闇が迫っていてが、「SAPPHO号」はいつの間にか元の速度で堂々と航行していた。
ふと見ると右手前方、二時の方向に真っ黒な島影が見えた。船はその島影にぐんぐんと近づき、やがてそれは手に届くほどに近づいていた。
島の海岸線にはいくつもの電灯の明かりが並んで瞬いている。それはまるで夢の世界にいるみたいだ!
八丈島だったのだ。私は息を呑みしばらくの間声も出なかった。自然に涙らしきものが滲むのを感じたが、私はそのまま島影を見つめてその場を動けなくなっていた。

 「オレはとうとう日本に帰ってきたのだ!」「日本だ!ここは日本なんだ!!」
心の中でそう叫んでいたように思う。しかしそれは、何か気持ちだけが先行し、思考が後追いするようなもどかしい気持ちのまま、甲板に立って八丈の島影を見つめていた。

 だがしばらくすると、今度は急に重苦しいものが押し寄せてきた。後一歩というところまで来て、取り返しのつかない後悔に突然襲われたように、身動きが出来なくなっている自分がいる。
私には何が待っているのか、分かりすぎるほど分かっているのだ。私の胸には、元勤めていた銀行の支店長の顔、組織の椅子にしがみついているのに笑っている顔たち、銀行の窓口に来た客が、熱心に借金の理由を語る口元、稟議書の書類にどんな理由を書こうかと思い巡らしている自分自身、そんな光景が一斉に押し寄せてきたのだ。

 もう二度と元へは引き返せなくなっている自分を後悔している。あれほど日本に帰りたいと思っていた自分はどこに行ったのだろう。
私はもうここまで来てしまったのだ。二度とアメリカには戻れない!
カリブ海も、パナマ運河も、赤道直下の海も空も・・・ニューヨークの町も、ジョージのあの明るい声も、何もかもがもう戻っては来ないのだ。
日本まであと一歩というところまで来て、何か狂おしいような、圧倒的な何かが、云いようのない重圧感と、そして何もかもが消え失せていくような寂寥感と、深い後悔の思いが、私の胸に一気に押し寄せてきたのだ。

 流れてゆく八丈島の黒い島影を見ているのに、何か薄膜のかかったような感覚をどうすることもできないまま、私はデッキの手摺りに掴まって立っているしかなかった。

22. 大阪港の幻影

 「SAPPHO号」はそのまま北上したが、トウキョウには向かわなかった。
夜が明けると長い日本列島をスターボード側(右舷)に見ながら、一路西に進路をとり航行し続けていた。そのことはやがて右手に見えてきた富士山を見ても分かった。
副船長の説明から我々は大阪港に向けて航行していることも知っていた。
ドッドウェル・トーキョーからは「東京港には陸揚げしない。積み荷の屑鉄は大阪に陸揚げする」と連絡が入り、船は西に進路を変更したのだった。それからひと晩、「SAPPHO号」は日本の太平洋岸に沿って大阪港に向かった。

 大阪湾に入ったときは朝だった。何という小舟の数!「SAPPHO号」と並走する船あり、すれ違うものあり、ある小舟たちは「SAPPHO号」の船尾を横断し、またあるものは鼻先を平気で悠々と横断する。船長はひっきりなしに警笛を鳴らし憤然とし、怒鳴っている。

 危険を感じて「SAPPHO号」が更に速度を落とすと、その小舟たちは一層近づいて来た。その一隻からオッサンが大声で「ランドリー・ランドリー!」と怒鳴っている。
たちまち小舟が何隻も「SAPPHO号」を取り巻いてうるさいくらいに「アイスクリーム・アイスクリーム!」と云ったり「ライター・ライター、ロンソン?ロンソン?」なんて叫んでいる。
ああ、日本だ。ああ、大阪だ、と思う。

 「SAPPHO号」は大阪港の遥か沖合いで停船し、遂にガラガラと錨を下ろした。とたんに騒がしかった辺りが、急に静まり返ったように私には感じられた。
もう動かない。もうこの船は二度と動かない。そんな絶対的な感触が足元から這い上がってきた。それと同時に大阪湾の間の抜けた生暖かい風が頬をなでた。

 五分と経たないうち、一隻のはしけが近づいてきて「SAPPHO号」に接舷したかと思うと、白いカバーを付けた帽子をかぶった男たちが、トントンとタラップを上がってきた。
私は船長に呼ばれ船長室へ行って見ると、船長は入国管理事務所の係官や検疫官と書類を取り交わしたり話したりしていた。
私は船長から、出港の時に預けたパスポートを受け取り、入管の人に見せ、二枚の書類に書き込み署名した。入港したばかりだというのに、そういう手続きが矢継ぎ早に処理されていくのは不思議だった。
しかし、それによって私と船長はこの船の誰よりも先に、そのはしけに乗って上陸することになったのだった。

 一方甲板では船員たちが皆集められ、副船長のエヴァンゲリスがサンタクロースのような大きな袋に手を突っ込み、一人一人の船員の名前を大声で呼んでいる。今届けられた手紙を皆に手渡しているところだった。
手紙を受け取った船員は、船のあちこちでその手紙を読み始めていた。すると今まで親しげに私に話しかけていた船員たちも、副船長も何となくよそよそしく、うつろな目で私を見ているような気がした。
彼等は私を見ているのだが、その目は私を通り越して私の後ろの方の何処かを見ている。そして私にはもう何も話しかけなくなっていた。
すると、急に私の胸に今まで感じたことのない、肩身の狭いような、ギリシャ人の中にたった一人のエトランジェとして立っている自分を感じ、胸苦しい気持ちが襲ってきて足がすくんだ。

 船長の「早く!」と云う声に我に返り、船長の呼ぶ方に歩き出したが、副船長の前を通るときには会釈するのが精いっぱいだった。副船長は黙って右手を軽く挙げて挨拶を投げてくれたが、それはもう洋上の「キャプテン・ヴァンゲリ」ではなかった。
私は何者かに心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。最後のときが急激に迫って来ているようだった。

 船長と私を乗せたはしけが本船から離れてゆくとき、私は「SAPPHO号」を振り返った。
そこには今までみたこともない「SAPPHO号」の姿があった。
私はその姿を見てぎょっとなった。そこに見たものは、汚れた塗装の上に赤錆が鼻水のように幾筋も垂れ、老婆のようにうらぶれた船体が静かに浮かんでいる姿だったのだ。
私はあまりの衝撃に頭の中が真っ白になった。何かを感じ取ることもできず、ただ金縛りにあっているような感覚に襲われてしまった。

 紀元前からギリシャの最も美しい詩を詠んだといわれた美貌の詩人SAPPHO。そしてまた第二次世界大戦のアメリカを力強く支え、勝利に導いたとされるリバティー船。その歴史と栄光を背負って航海を続けてきた「SAPPHO号」が、今私に投げかけてくるものは何なのだろうか。
ジョージ・グレコスの奨めで始まった五十三日の不思議な旅。そして旅の中心にいて全てを見届けてくれた、ギリシャ船籍のリバティー船「SAPPHO号」。それでも彼女は大西洋と太平洋をつないで、私をここまで無事に送り届けてくれたのだ。波間に揺られる船の上の刻一刻が、私の胸に鮮やかに蘇った。

 はしけの上に立ったまま私は静かに目を閉じた。すると「SAPPHO号」がゆっくりと波頭にせり上がり、静かに下降してゆく感触が私の足のウラに生じた。その瞬間私の体はグラリと傾いて、子供の時に見た夢の中ように、足元からふわりと宙に浮いたような感覚が甦った。
やがて眼下に「SAPPHO号」が静かに横たわっているのが見えたが、それは今まで見たこともない美しいリバティー船の姿だった。そしてその船は大洋のまっただ中を堂々と航行している美しい姿に重なった。