「孤独へのスタート」


失われた平衡感覚、無重力の世界

昭和六十年四月二十日

ヤマハ・テネレ600は、息も絶え絶えだった。マフラーはすでに壊れてしまい、ガソリンタンクは、数日前からクラックが入って、ガソリン漏れしていた。アルジェリア、ニジェール、マリと砂漠地帯を走り、何十回という転倒の末、傷だらけになってしまっていた。背中のザックにはガソリンをポリタンクに入れて10リッターを背負っていた。転倒!そのたびに「ダメカ!」と思った。

ち切れたマフラーから、瞬間的なバックファイアーがあれば、タンクへと燃え広がるのは一瞬のうちである。「とにかく行くしかない。走るしかない」と自分にいいきかせ、モーリタニアまでやって来たが、バイクも僕も限界に達していた。前後、何もない砂漠。引火する恐怖はしかし、間もなく消えた。ガス欠である。それにタイヤもパンクした。周囲は闇。「もう走れない。走らなくてもいい」それはホッとすると同時に、リタイヤをも意味していた。1月17日の朝。モーリタニアのネマという村に近い場所だった。

残念という気持ちと、ホッとする安堵の気分が交錯した。割れたヘッドランプだけを頼りに「ダカール、ダカール」といい聞かせながらの最後の夜の旅は終わった。 ボクは乾き切った砂の上に転がった。リタイヤを示す青い非常用信号灯スイッチを入れ、どこまでも広がっている砂漠の夜空へ、その光が吸い込まれて行くのをぼんやりとながめていた。

風が出ていた。サラサラと砂がボクの顔を打った。「終わったなー。今年もパリダカは終わった」厳しかった。もし、ここまでやって来る間に、闇の恐怖やガソリンに引火する危険に追い詰められていなかったら、あまりの静けさと孤独感に、頭が変になってしまったかも知れない。ホッとする気持ちと、これでもう大きな危険は去った、という安堵感が寂しさをいく分和らげてくたようだった。本コースから外れいない確信はあった。コース近くにいれば、救い出してもらえる。もう、寝袋はとっくになくなっていた。銀紙を体に巻きつけ、零度近くまで下がる砂漠に転がって目をつぶった。

吹雪の山越え

パリ〜ダカール・ラリーは今年が2度目である。昨年はホンダXL250で初出場。完走し、しかも250ccクラスで優勝するという幸運だった。いい思いをしたからもう一度。前回が本物かどうか再確認したい。そんな気持ちが、ボクを今年のパリダカへと駆り立てた。しかし、去年の厳しさより、今年はさらに過酷だった。夜を徹して走らなければならない日も、去年より多かった。「こんなはずではなかった」そんな思いがあった。アフリカにひかれて来たものの、それを堪能しているヒマはないのだ。

地中海をフェリーで渡り、アルジェからサハラ・アトラス山脈を越えて砂漠地帯へと入ったが、出発が遅れ、吹雪の山越えとなった。ガレキの山に雪が積もり、路面は凍結していた。サハラ砂漠へと下る南側では、サハラ側から吹き上げてきていた。アフリカの第1日目は皆ひどい目に遭ったが、まだラリーは始まったばかりなのだ。 960キロをアルジェから走り、サハラ最初のキャンプ。タイヤ交換、マシンの調整。まず自分より先に、自分をはこんでくれる”手段”バイクをいたわってやらなければならない。寝たり、食ったりは後回しになる。これがパリダカを走るプライベートを象徴するものだろう。

砂漠を旅するとなれば、しかし、こういうことは太古からら変わらないのではないか?たとえばトアレグ族にとって、ラクダは欠かせないものであろう。キャンプ地について、なによりも先にラクダの世話をする。そういう生活が砂漠にはある。ボクたちもやはりその掟には従わなければならない。もし、これをなまけたら、失格が待ち構えている。 2日目の300キロにわたるスペシャル・ステージで参加バイクの3分の1は消え去っていった。闇の中を走った。ヘッドライトだけが頼りである。砂はあらゆる光を吸い込んでしまうのだろうか。日本でいわれるようなロマンチックな月明かりや星明かりはない。墨の中をたった一個のライトが照らし出す道筋をたどるのだ。

また、闇は平衡感覚を乱す。ちょっとしたきっかけで転倒する。そんなとき、エンジンや路面からの震動が消え、孤独感はつのる。「なぜ、またこんな所へ来てしまったのだろう」 まったく、クルマもバイクも、人間も見えない地域を走っていて、何度も何度も考えた。「バカ者!お前は何をやっているのか」景色も変わらない荒茫とした地帯で自分を励ますのは自分しかいなかった。少しでもいい方向へと考えを向けるため、何か希望を見つけなければならなかった。ガソリンの残量が少なくなる。飲料水も切れる。そして転ぶ・・。こんな中で、いい材料を探すのはむずかしい。視界は変わらずの地平線。エンジンの音。眠気、そして嫌気がさしてくる。「こんな無意味なことをやって、何になるというのだ」と、自分の行動にすら、腹が立ってくるのだった。

進まなければ逃げられない。何かいいことはないか・・。行き着くところは、東京に残して来た家族である。妻、そして13歳と8歳になる娘を思う。キャンプで周囲を見ると、ケガをした人達がたくさんいる。「無事で帰ることだ。ケガをせずに帰ることだ」いつも行き着くところは同じだった。そして自分で自分を奮起させながら、進むしかなかった。砂漠はエゴイズムを風化させる。

夜の走行は厳しかった。平衡感覚のほかにも、山間の狭いコースは”悪夢”そのものである。ときに、後ろから四輪のラリー車が来る。危険を避けるため道端で寝ようとしても場所がない。前へ進むしかないが、道をゆずって先へ行かせるスペースも、闇の中ではなかなか見つからない。後ろから追われる恐怖。それは、広い砂漠でもあった。 轍が道で、それに沿って走る。轍を外すと転倒が待っている。夜は光の輪の中以外は見えない。ここでもあっさり道をゆずる気にはなれない。四輪の方もバイクを抜くのに、大きく轍を外れて行こうとはしない。クルマが後へ迫って来る。逃げようとして転倒・・。四輪の急ブレーキ・・・。そんなピンチも、サハラの闇の中で繰り返されているのだ。

しかし、闇の中の走りで、すべてを判断するわけにはいかない。日が経つにつれて、参加者同士のいたわり合いも出て来る。休んでいると通りがかりのラリー車やバイクが止まったり「だいじょうぶか?何か問題はないか?」と声をかけてくれ、「水は?ガソリンは?」と話しかけてくれる。思えばパリを出る時には1000人を越す参加者がいた。それが10日を過ぎるとキャンプ地の人数も急激に減った。ゴールへ向かって駆り立てられる雰囲気は次第になごみ、お互いに厳しいところをくぐり抜けて来た、という親しみがわいて来るのだ。人間の持つ本来の優しさが感じられた。

メーカーが資金を注ぎ込んでワークス・チームを送り出している。本来は勝つ目的で突っ走る男たちだ。そんな彼らがクルマを止めて声をかける。あるワークス・ライダーは僕のそばで休み、水を飲み、ボクのことを気づかったのち「グッド・ラック!」と走り去っていった。普通モータースポーツでワークス・チームは決してこんなことはしない。そして、ボクたちも、ガス欠で止まっているワークスのバイクに、残り少ないガソリンを分けてやるようなことはあるまい。それが、ごく自然にパリダカの後半では行われている。茫漠とした砂漠が、人間のエゴを風化させてしまうのかも知れない。

ずっと一人で走りつづけ、何時間かして、同じ仲間を見かけると、そこにやすらぎを感じるのではないだろうか。自分だけ、オレだけの考えでは生きて行けない。他人への思いやりが生まれてくるのが印象に残る。自動車レース関係の仕事を13年間やった後、4年前に独立したボクにとって、パリダカは自分を知る上でも、またとない試練になった。先行き不安、過酷な状況などを自分の生活とラップさせて考えた。家族を思うと安全でなければならないが、大胆さを失ってもかえって危険が増すこともある。細心さと大胆さのバランスをいかに保つかは、サハラを走るのと、東京での生活と似たようなところがある。日本の生活は、パリダカに来るのと精神的には似通っている。 何が起こるか分からない。それにどう対処するか・・。その方法は良かったか、悪かったか、悪かったとしても乗り越えて行かなければならない。悪い事態の中で、自分で考え、いい方法をみつけ、前へ進まなければならない。「物事すべては、行き当たりバッタリではダメだな」と痛感するのだ。

冒険という言葉は、ときに「めちゃくちゃ」という意味にも用いられるが、本当の冒険は綿密な計画、訓練、知識の固まりだ。日本での生活をしっかりするためには、パリダカをこなしてみることが、より自分にプラスになると考えだした。瞬間、瞬間で事態は変わる。それを瞬時に決断して前へ・・・。また、周囲も環境が日本とまったく異なることで、客観的に自分を見つけることができるのではないかと思う。もし、同じような厳しいラリーが大島で行われたとしても、距離感はじめ、経済的、自然的な条件などで、心のあり方は比べようもあるまい。  一ヶ月半にわたって留守にする。その分、一生懸命働かなければならない。体も1年がかりでトレーニングし、健康に留意する。パリダカをやることで、精神的にも肉体的にも健全にならざるを得ない。

生命力あふれる仲間たち

「オイ、どうした?リタイヤか? それなら乗れよ」イタリア人の乗ったクルマが、砂漠で横になっていた私のそばに止まっていた。ボクのパリダカはここで走ることをやめたのだ。ボクの体の一部になっていたバイクは、すっかりみじめな姿となって、すぐそばに転がっていた。バイクを積むスペースはない。残念だがバイクは置き去りにして、ボクはクルマに乗せてもらい、キャンプ地へもどった。 朝のスタート。バイクのないボクは、ゆっくりと歩いて見に行った。クルマやバイクがダカールを目指して走り出して行く。ドッと疲れが出た。全身に痛みがある。そして、頭がボーッとなってしまった。その後は運良くオフィシャルの飛行機に乗せてもらえた。下をラリー車が走っていた。砂の煙を巻き上げ、長く白い尾を引いて、前後左右の地平線の中を走っていた。 照りつける太陽、乾いた土地。「なんと生命力があるんだろう」とボクは人間の強さに改めて気づいた。同時に、いくら人間ががんばっても、砂漠では、大自然の前では、どうしようもないことのあることも身にしみた。「自然にまかせるしかない」こともあるのだ。

大地を這うように走っていた前日までとは一転し、空から下を走るクルマを見るにつけ、いくらテクノロジーが発達しようが、人間は自然の前では一動物に過ぎないと思った。また、衣食住の満たされているいまの東京から、そのすべてが悪条件の地域へ行くと、いかにボクたちの生活にムダが多いかにも気づき、反省もする。ポツンと一人バイクを走らせ、自問し、人間のやさしさを知った。たいへんな精力を注ぎ込んだパリダカは、ボクにとって決してムダではなかった。


横川啓二(よこかわ・けいじ)

1947年1月20日生まれ。16歳よりモーターサイクルに乗り始めバイク歴20年以上。現在マトリックスコーポレーション(2輪4輪のスペシャルパーツの輸入および製作)経営。趣味はアウトドア・スポーツ全般、特にテニスでは反射神経を養っている。4輪レース歴15年。1984年第6回パリダカール・ラリー2輪部門250ccクラス優勝。