EaglePerformance V8/9,600

平成十七年十月十八日

1990年6月16日午後4時。初夏の暑い快晴の午後、世界で最も歴史のある自動車レースの幕が切って落とされた。フランスはパリの南西部にあるル・マン市のサルテ・サーキットのスターティング・グリッドに、史上初めて日本の車、カー・ナンバー24が、予選で驚異的なラップタイム(コース・レコード)をたたき出し、ポールポジションを獲得した。このことは当時のテレビや雑誌を通じて日本でも大きく報道されたから、ご存知の方も多いと思う。事実このことはル・マンの記録として残り現代の技術者たちを唸らせ、うなずかせるものを持っている。

けれども、こうした記録はル・マン73年の歴史の中には無数にあり、このニッサンの記録も、その中では小さな光を発する存在となってしまうに違いない。この歴史あるモータースポーツ・イベントの持つ価値は、ものすごいスピードで進化する技術への挑戦、創意工夫の世界的競争と、それに立ち向かう人たちの命がけの闘いのドラマの中にあるのではないだろうか。

たかが自動車レースなのに、まるで戦争でも語るように世界中の人々がレースを語るのも、一国の自動車技術のレベルがその国全体の技術レベルを物語ってしまったり、一人のレーサーの勇敢さや、冷静さがその国の国民性を代表するほどにドラマチックだったりするからだろうと思う。しかしそれにしても「ル・マン24時間」自動車レースがなぜ1923年から、戦争の間は別としても、70余年も続いているのか。その秘密は一体どこにあるのか。それが分かれば、なぜル・マンが世界一のモータースポーツ・イベントなのかが解るだろう。

その秘密の一つはその設立にあると私は思っている。もともとこの地方では「フランス・グランプリ」という自動車レースが地方の自動車クラブの手で行われていたが、そのクラブの事務局長ジョルジュ・デュランが「ツーリング・カーの信頼性を世に問うレースをしたい」と希望したが、その背景には電装品製造会社のマーシャル社から、自社の自動車用電装部品の信頼性をアピールしたいという強い働きかけもあり、この24時間レースの骨格が出来上がったと云われている。

故障しやすいエンジン、パンクしやすいタイヤ、そして頼りにならない電装品といった当時の自動車は、24時間レースなどという、とてつもない過酷な条件下では容易に優劣が出てしまったに違いない。だからレギュレーションは至って簡単で、「無改造の市販車」であれば何でも出場でき、「全車に一定量のガソリンを配給」それで24時間にどれだけの距離を走れるかというスピード競技だった。これはつまり、壊れる自動車はすぐにリタイアを余儀なくされただろうし、反対にガンガン走っても驚くほど壊れない車も現れたに違いない。このルールは現代でもレースを面白くするのに共通した要素をもっている。
しかし、この「ル・マン24時間」は、見るものにとっては他の自動車レースにはないル・マン独特の特徴を備えている。それは例えば、レースの最終ゴールを観戦したとしましょうか。そこには優勝した車からドライバーが手を振りながらゴールラインを通過する姿がみられるのですが、その車は全速力でゴールラインを通過することはまずないのです。もう彼は最終ラップに入ったあたりからスピードをゆるめ、歓呼する観客に手を振りながらゆっくりと周回するのです。そしてそこにはレース・マーシャルたちが手に手にフラッグを振りながらコース上に出迎え、そこに何百人もの観客たちがなだれ込んで、優勝車と一緒にコース上を走る姿が見られるのです。

24時間も走ってもなお2位の車と死闘を繰り広げるようなことは滅多にないのです。それどころか、レースが始まって3時間もするとトップを走っている車以外の車がどうなっているのか、何週目の何処を走っているのかさえ良く分からない。そのため観戦者たちはメインスタンドに流れるアナウンスを聞くか、そこここにあるモニターでも見て見ない限り、レース全体の状況が全く解らないですね、これが。

ところがです、25万人もいる観客のほとんどが今現在のレースの状況を、何故かちゃんと知っていて、例えば知らない同士でも、レースの今後の展開なんかを声高に話し合ったりして愉しんでいるのです。私も興奮しながらスタートから2〜3時間はモニターを睨みっぱなしで愉しんでいるのですが、ワインを飲みメシを食べて観戦ポイントに一時間ほど出掛けたりするわけです。そして戻ってくると疲れが出て2時間ほど寝たりもする。で、もうウルサくは感じなくなったレースカーの爆音で再び目を覚ますと、どこが一番手なのかも解らないわけです。で、おもむろにモニターのところまで行って、「はは〜、ニッサンがまだトップでジャガーが1周遅れ、メルセデスはそのまた半周おくれか。」などと寝ぼけた頭に覚え込ませるのです。F1などでは考えられもしないことですが、ピットインした車が30分以上も何やら調整してまたレースに復帰したりもするというのもこのレース独特だ。

そして、ル・マンだけではないが世界に歴史を持つ自動車レースには、彼らがレースを面白くしているもう一つの要素がある。それはレースに関わる人々がみんな、全生活、全人生そのものをレースに賭けてしまっているということだ。往時の写真をじっと見ていると、劣悪なサスペンションで高々と凸凹道をジャンプしたり、巨大なぬかるみから抜け出すのに、一人でタイヤにロープを巻き付けたり、また現代のようにピットに戻ってはプロが修理するというのではなく、レースの途中、コースの途中でドライバーが車を降りて奮闘しているのが当たり前のように見受けられる。こういう姿を見ると「役者が違う!」と感じ、感動を呼び覚まされてしまうのです。

皆さまもご存知かと思うが、ル・マンの優勝争いはメーカーのファクトリー・チームばかりが取り沙汰されるのが現状で、プライベーターたちはその蔭に隠れてしまう。スペアエンジンはおろか、必要部品さえも十分に用意できない彼らだが、実はその中にもル・マンの歴史を感じさせる人たちが大勢いるのを私はこの目でシカと見届けたのです。

1990年、ル・マンのピットに「イーグル・パフォーマンス」というアメリカからのエントリーがあった。先ずそのV8/9,600cc というエンジンが、集まった人たちの度肝を抜きました。実際このエンジンに火が入った時の音というものは、「雷か地震が来た」みたいだったと同時にこの爆音を聞くことが出来た幸せを噛みしめずにはいられなかったのですが、この音は完全に周囲に居合わせた大勢の人々を引きつけ、目と心を釘付けにしました。これなどは、ル・マンの歴史に登場した、巨大排気量エンジンがどんなものだったかを再現する意図が感じられる素晴らしい試みだったし、だいいちエントリーするだけで億単位の費用も掛かろうというのに、このアメリカ人たちは至ってもの静かに登場し、結局予選で3周を走り、その後エンジンのレブが上がらずピットの中で長いこと調整を繰り返したまま予選落ちしてしまったが、それでも悠然として再びアメリカへ帰っていったのだ。

こう話すと彼らは極めて男くさい技術屋集団のような印象を受けるかも知れないが、実際はそうでもなく、総勢24〜5名のメンバーは、中年の男性はが5〜6人、ご婦人が7〜8人であとはごく少数の青年と大勢の子どもたちだった。私は彼らのテントの中に入れてもらって間近に巨大なエンジンを見て興奮し、一発で1200ccを呼吸するというピストンを手に持たせてもらったり、いろいろと話も出来た。しかしテントの中の雰囲気は大家族のピクニックといった感じで、婦人たちはアメリカ人にしてはハシャイだ様子もなく料理を作ったり、飲み物を配ったり、子どもの相手をしたりしていたのだ。

「こんなイベントの裾野の広さは、歴史のあるレースでなければ絶対に見られないし、だから”ル・マン二十四時間”は文化として世界が熱狂するんだ。」ル・マンのピットで、私は9600ccの爆音にはらわたを揺さぶられながら、そんなふうに思い、改めて日本という国と日本人、日本の文化、そして何かが違う世界の文化、そういったものがゴチャ混ぜになって私の体を突き抜けて行ったのでした。