「おばさんパワー」

いつの世でもあることだけど、いわゆるオバサンパワーがあちこちで炸裂し、そのホコ先は予測がつかない。オバサンパワーなんてどこで出てくるか分からないのだ。そのパワーの源が、どうも亭主を始め身の回りの不満から発しているようで、どうもイヤなのだ。

亭主の悪口といったって色々あるが、「もうあんなものは相手にしない」となるとそれはオバサンのの自己否定なんだからさ、そこから先はどこまで行ったってグチの「千日手」。
それがある日突然のように「ハンカチ王子」だ「はにかみ王子」なんぞとオモテに溢れでてくるサマは、どうも頂けない。ま、だけども、それに乗っかっちゃって、はにかみ王子が「ボクの笑顔を見ていただきます」と来りゃ、「ま、そっちの方で好きにやってちょうだい。」と云いたくもなるぜ。

そろそろ梅雨が明けそうで、ここ原村でも暑くなる気配だけれど、東京は地獄だろうと思っていて思い出したことがある。それは東京の町を闊歩するTシャツ姿のオバサンの群れだ。田舎ならまだいい。田舎では生活イコール労働っていうオバサンがほとんどなんだからさ。だけども東京でTシャツのオバサンはダメよ。

「いやだね〜!」何がイヤったって、女が女の美しさを忘れちゃっているサマがどうもダメなんだな。女が肌を出して美しさを表現できるのは、必ずしも年齢制限はないとして、初々しさと引き換えに、年齢とともに現れてくる、内面から湧き出るような美しさや色気が、女にはあるじゃないか。

そういう季節を迎えてもなお肌を露出してはばからない、一種暴力的なファッション感覚にはうんざりなんでね。まあ、そう感じるのもこっちの勝手で、何をか況んやなんだけども、美しいものを見たい、美しくないものは見たくない、のも人情だからして、これどうすりゃ良いのかしらね。

そう云う自分もジーンズにTシャツで、近所の農協に買い物に行ったりするんだから、これは「おあいこ」だけどさ。でも外出には襟のあるものを着るぐらいは心得ているつりなんでね。女のことは良くわからないけど、男は首筋から「老い」が外に出てくるって云うじゃない。これを見せられると「不快」とまでは云わなくても一種の「寂しさ」が漂うんだよ。

それが翻って冬などに老人が駅のプラットフォームなんかで、グレーのタートルネックのセーターにブレザーコートなんか羽織ってると、逆に色気が漂って見えるってこともあるんでさ。
夏の猛暑の中でも、ちゃんと襟のある長袖を着ているのも良いもんで、昔は麻のスーツにパナマ帽を被ってたしさ、その横には絽の着物をきちんと着て、日傘をさした夫人が寄り添ってたりしたんだよな。

私は洒落ようと思うとたいがい失敗するんで、例えば着るものを買いに行って「これカッコいいな」と思って買ってくると、どうもうまくいかない。そんな時、先ず想像しちゃうんだよ。いきなり試着したりするとだんだん自分が取り散らかって、しまいにはどれが自分に似合うのかも良く解らなくなっちゃってさ。
で、今は一つのキーワードだけ考えて、それを頼りに自分の身なりを判断するようにしている。それは「人前に出るときには清潔感」。

そんなに厳しいものではなく、ゆるやかなもんで良い。家にいる時や、労働をしているときは、古いもの、穴の空いているだって着る。ただ洗ってあるものならば合格、ぐらいにして。
けれども、例えば夏、外に出かけるときなどは襟のあるシャツ、外しておくボタンの数なんかも考えて着る。そしてその基本は「清潔感」、これだけだ。

幾つになっても「カッコいい先輩」というのはいるし、良い手本になる。だからその先輩の身に付けているものを、自分の目でチェックして、あとはそれを自分流に自由にアレンジする。それは楽しい仕事だからね。

でも元来、私はファッションを楽しむほどの人間じゃないない。たぶんそれは、私の色の感覚の弱さ、色の選択の下手くそさにある。だから自分がその場で好きな色と、その色に合う二番目の色、それ以上は考えないようにしている。私には2つ以上の色の組み合わせとなると手に余る、というか、失敗するからだ。

ま、それにしても、だ。真っ赤いパンツに真黄色のシャツ姿で街をあるく男はいないが、それが女ならば、そんなのは幾らでもいるんだし、女はファッションにおいても色の選択の豊富さは男の比ではないんで、そんなに楽しむ自由を獲得しているんだから、ペンキの殴り書きみたいなTシャツの単純な色に、更にワケの解んない横文字、それもヘンな英語、英語にもなっていない英語の文字を、尖った胸を更にトンガらせて、前に突き出してもらいたくないのよ。ワカッタ?!