「猫のいる暮らし」

(69枚)
平成十五年二月一日

1.「トラ丸の記憶」

 十六年も一緒に暮らした牡オスネコのトラ丸が死んで半年が過ぎ、庭にちょっと立派すぎてトラ丸には似合わないようなお墓を作ってやった。
 立派すぎるというのは、ひょんなことから大量に捨て値で買った、コンクリートブロックを使ったためで、畳一畳ほどに仕切った真っ白なブロックの縁取りが、何だか成金の墓地のようで、おまけにその中に草花の苗をいっぱい植えたものだから、なおさらその様相は悪趣味な出来映えとなっていた。
 トラ丸が死んだ翌日、石ころだらけの庭をさんざん苦労して掘って、そんなに深くも掘れない穴に死んだ猫の亡骸を置くのは、ちょっと耐え難い思いだった。そのことを思うと、墓なんかわざわざ作らなくたって、埋めてやったその場所に石でも一つポンと置いてやった方が、よほどトラ丸に相応しかったような気がしないでもない。トラ丸が死んで、あっという間に過ぎ去った半年という時間のなかで何がどうなっていったのか。

 トラ丸とは十六年も前に、私たちの住んでいた深川のマンションの、自転車置き場で最初に顔を合わせた鮮明な記憶がある。私がバイクのレース「タイムトンネル」でビリになった日、帰るとマンションの自転車置き場の自転車の上から、大きな声で私を呼び止めた。四、五日前から見かけていたノラだったが、私も大声で、
「はい、ありがと、元気だねえ。そんな所で何してるの・・・いい子にしてるんだよ。バイバイ!!」
 訳の分からないことをいって別れたが、人なつこいネコだという思いが後を引いた。
気になった私は家に荷物を置き、十四階の廊下から見下ろすと、未だ自転車の上にいるのが小さく見える。私はもう一度下まで引き返しネコに声をかけた。
「どうすんだよ、こんな所でさ。寒くないかい?」
いいながら近づいてみると、相変わらず大声で吠えるように返事を返してきたが、逃げる様子がない。トラ模様のその猫は、ハッキリした顔立ちの中に柔らかな風格を湛えていた。
明らかに人に飼われていたらしいが、最近棄てられたんだろう。近づいたが手を出すのを遠慮して、もう一度話しかけた。
「ボクのこと、憶えてたの?・・そう、ありがと。」
そういってそっと手を差し伸べてみた。するとトラ丸は、自転車の上に立ち上がって私の手に体をすり寄せてきた。私は初めて引き込まれるように身をかがめ、今トラ丸が見ているのと同じ景色を眺めた。飼ってやろうというのとも違うが、さっきまでと違う不思議な近しさを感じた。

 鮮烈な死のショックの記憶が、トラ丸の遺骸と同じように朽ちていって、そのあと土の中に骨が残るように、何か想いの芯みたいなものが私の中に残るのかどうか。
 日常的になっていた、トラ丸の墓の前に立ち心の中で話しかけるひとときも、このところ忘れがちになって、朽ち果てる方は私の心の中で着実に進行しているらしい。
 十六年間のトラ丸との暮らしの中で、数え切れない程の楽しみと、何ものにも勝る深い慰めをもらった想い出がある。それをたぐり寄せるだけで私は十分しあわせに日々を送っている。
 また、私の隣には、私以上にトラ丸との濃い関係を結んでいた和子という連れ合いがいて、その和子とトラ丸との、私よりも濃そうな関係を横目で眺め、トラ丸によって支えられてきた和子との時間を、辿り直していたのかも知れない。

 マンションの自転車置き場から私がトラ丸を連れてきたとき和子は、
「どうするの、このネコ。可哀想だけど家じゃ飼えないわよ!」
そういってトラ丸を自転車置き場までわざわざ戻しにいったのだった。
私は和子がネコを返して戻り、再び十四階の廊下から下の自転車置き場を、首を伸ばしてやっと見下ろしている姿を見ていた。声に出せないコトバを下に向かって送り続けているその背中は、悲しそうに曲がり、何時までも動こうとしない。
 ネコを不憫に感じているには違いないが、それと同時に和子が私との暮らしの中で、胸の中にしまい込もうとした数々の思いが、トラ丸の出現によって再び息を吹き返しているのだろうか?
私は和子に感づかれないようにそっとマンションの味気ない扉を閉めた。続いて同じドアから和子が戻ってくるのを感じながら、のそのそと居間に戻ったが、和子の後ろ姿が目の裏に張り付いたままになった。
 しばらく経ったが戻って来ないのでどうなったのかと思い始めたとき、トラ丸を抱えた和子が戻ってきた。
「やっぱり連れて来ちゃった。」
それだけいって和子はトラ丸をポンと居間の床においた。
私は深い安堵感を味わったが、それからどうなったのか手応えのある記憶がない。
しかし、その瞬間からわが家は二人が三人となり、トラ丸がいるというだけで二人の関係そのものが変化を見せ始めた。
 和子は私と同じ東京の広告会社にいて知り合い、ずるずると二十年も暮らしながら、妻子のある私はまだ和子の入籍も果たせずにいる。深夜残業が当たり前の過酷な勤務を続けながら、和子は私の痴呆症の母の面倒もみていた。そんな暮らしの中で突然トラ丸がやってきたことは、和子にとってはどういう事だったのか、私は何も考えず、ただ猫だけを受け入れようとしていたに違いない。
そしてその日からトラ丸はわが家の住人になったのだった。

 トラ丸の役割はすでに最初から抜き差しならないのもとなっていった。
激しい口論などはお互いに避けているものの、厳しい話をするときには、直接相手に向かって話すことはなく、そんなときはトラ丸に向かって、
「お父さんは怒らないといいのにね。たまには早く帰って、家のこと手伝ってほしいよね。」
そんな風にいっては相手の気持ちを探っていくような会話が多くなった。
和子のそんな物言いに心痛むこともあったが、どこか今までにない柔らかい時間が、わが家にも訪れるようになっていた。

 トラ丸が死んでしばらくの間、和子には、トラ丸の死はとうてい受け入れ難い出来事に違いなかった。私はトラ丸が死んでから二ヶ月くらいは、そのことを話題にしないようにつとめていたはずだ。私はひたすら時の流れてゆくのを待っていたような気がするのだが、和子はトラ丸のことを殆ど話さなくなっていた。

 定年から住み始めた八ヶ岳の麓のここ原村に、その年は例年にない大雪が何度か降った。林の中に建つ私の家は、雪のため外出が全く出来ないちょっとしたパニックと、雪かきなどの労働に追われ、気持ちがそちらに向けられる。今まであまり考えたこともない、大雪対策などに頭を悩ませているうちに雪解けとなり、花が咲き、今年庭の畑に植える苗の心配などと、矢継ぎ早に時が過ぎていく間、私たちはトラ丸との別れの悲しみを、少し忘れることが出来たようだった。そんな光に満ちた明るい季節の中で、和子は私に向かって、
「ネコか犬、どっちか貰ってきてよ」
唐突にそんなことをいい出したのだ。私はその言葉にたじろいだが、
「まだ喪も明けてないのに!」
と、ほとんど根も葉もないことをいってその場をやり過ごしていた。しかし私は心の何処かで、「もしも又動物を飼うようなことになるときは、何か強い、そうしなければと思えるような力がはたらくはずだ」という想いがくるくると回転し始めていた。

2.「メール」

長い間、立ち止まる度にトラ丸との想い出を噛みしめる日々が、半年余り続いていた七月のある日、私は東京に住む娘の尚子から突然こんなメールを受け取った。

パパへ
尚子です。元気ですか。七月十六日火曜日に、ついに外ネコだったサクラ(牝猫)が家で出産しました。
 午前中からお昼にかけて、関東地方を台風七号が直撃した日です。動物のお産は台風や嵐の日が多いと聞いていたので、これはいよいよサクラもお産かなと思いました。ところが台風が過ぎ去った午後二時頃、ドアを開てみると、外猫のサクラがなかば強引に家の中に入ってきました。
 もしも家の中で産む場合に備えて段ボール箱で産箱を作ってはあったのですが、今までのサクラは家の中に入ってもそんなもの見もしなかった。それなのに、この時は一直線にその箱の中に入って寝たのです。
「これは・・・ここで産む気なんだ!」
私は外に出かけるのを止めて、二階でずっと待つことにしました。

 ここまで読んだとき、私は高校生の頃静岡の家の私のベッドで、「じゃび」という牝ネコが、五匹の仔猫を矢継ぎ早に生んだことを思い出していた。「じゃび」は私の寝ている布団の中で、いとも簡単に五匹の仔猫を出産したが、まもなく仔猫を一匹ずつくわえては、別の部屋に運んでいったことなどが脳裏に浮かんだが、次のくだりを読んで自分の記憶は消し飛び、それと引きかえに何か重い衝撃に頭を強打されたようになった。

 午後五時頃、下に降りていってみると、産箱に敷いてあった新聞紙がビリビリに破られていて、血が少しついていた。
「破水だ!!」
慌てた私は、まず友だちに電話して仕事が終わったら来て貰うように頼みました。
それから獣医さんに電話すると、それは間違いなく破水だとのこと。
破水から三時間しても第一子が産まれない場合はまずいので、すぐに連れてくるように、と言われました。
 それから、猫は普通、胎盤を食べてヘソの緒を自分で切るものだが、猫によっては何もしない場合があるので、その時は飼い主がヘソの緒を切らなければいけない、ともいわれました。
そんなことになったらどうしよう・・・と不安な気持ちに。
 でも、もしもの場合に備えて、木綿糸、熱湯消毒したハサミ、ガーゼ等を用意して待ちました。
午後六時、友だちが応援に来てくれる。
午後七時、二階にいる私たちにもはっきりと聞こえる甲高い鳴き声!
サクラがついに第一子を出産しました。
ところが、仔猫の方が箱の外に飛び出ていて、鳴き声はその仔猫の声でした。サクラは胎盤を少し食べましたがヘソの緒は始末せず、そのまま箱の中に横たわってしまいます。
仕方なく、これは私がヘソの緒を切らなければと決意し、友だちに仔猫を持っていて貰って、木綿糸で縛って止血すると、ヘソの緒を切りました。
午後八時、第二子誕生。
やはりヘソの緒を切らないので、私がまた切る。
午後十一時、第三子誕生。これもヘソの緒を私が切る。
この時点で、サクラは自分のカラダを舐めると箱の中で寝てしまったので、私たちはおそらくこれでサクラのお産は最後だろうと思いました。
ところが、台所の扉を開けると、仔猫が下半身だけ出た状態のまま、サクラがそれを舐めているが、サクラは苦しいらしく大きな声で鳴きながら、グルグルと台所を歩き回り始めます。
逆子だ! 人間と同じで、逆子は出にくいので人間が手伝った方がいい、という本の記述が蘇りました。
 決心して、後ろ足と尻尾だけが出た状態の仔猫をタオルで包むと、思い切って引っ張りました!
ものすごい声で鳴くサクラ!!
「がんばれ、サクラ!!せーの!」
と気合いを入れてもう一度引っ張ると上半身が出て、続いて頭が出てきてようやく産まれました。
サクラは相当苦しかったらしく、そのまま寝てしまいます。
逆子で産まれた仔猫はすでに冷たくなりかかっていたので、私は一生懸命ガーゼでさすり、口と鼻に指を入れて羊水を出させました。
やがて仔猫は元気に鳴き出し、サクラの乳を探す仕草をしてホッと一安心。
こうして、七月十七日(水)午前二時半、四匹の仔猫が無事産まれました。

 娘の尚子が三歳の時、私は妻と言い争いの末家を飛び出し一人暮らしを始めたが、妻は幼い尚子を連れて本郷の実家に帰っていた。時が経つに連れて険悪な状態は収まったものの、元の鞘に収まる気にどうしてもなれない私は、ずるずるとそのままの暮らしを続けていた。
実家に於ける暮らしがどんなものかを、私の方から聞くことはなかったが、義父の葬儀の時に久しぶりで目にした娘の成長ぶりに驚き、妻方の親戚が私と並んだ尚子に目を潤ませる姿を見て、精進落としの宴の途中、夢中で、逃げるようにして帰った記憶がある。

 その後、「子供には時々は会ってやって欲しい」とさりげなくいう妻のことばには添う形で、尚子が小学校に入る辺りからは時々会うようになっていた。
小学校、中学、高校と進む間、娘がどんな暮らしをしているのかの手応えを求め続けていたものの、いつも明快な形を現さない柔らかな手応えだけが残った。その後大学に通うようになってからは、尚子の方からも電話が掛かるようにもなり、かなり頻繁に会うこともあったが、やはり私はいつも緊張していたように思う。

 その尚子も今では大学も卒業し、東京でいわゆるフリーターをしている。音楽関係の仕事で、ものを書いたり音楽学校で講師をしたり、ラジオにレギュラーで出演していたことなどもあったが、要するに定職を持たないので比較的自由なところがある。
そんな娘からメールをもらったりするのは嬉しいのだが、同時にどこか顔向けできない思いを噛みしめていた。そんな中でもらったメールだったが、このメールはストレートに私の胸に強く届いてきたのだった。

 それにしても尚子がフリーターをしていたことが、ネコの出産には役立ったのかも知れない。時々顔を出す外ネコに、ご飯をやろうというごく普通の行いがきっかけで、まさかこんな事態に発展しようとは、夢にも考えなかったに違いない。
それにしてもかけがえのない経験をしたものだという思いが、このメールを読んだ私の胸に湧いた。

 ムツゴロウさんという動物学者が北海道で、家族や若者たちと一緒に、動物たちと暮らしているが、そこに働く若者が動物の出産を経験するのとは、明らかに違うことを経験したことになりはしないか。
最悪の場合に経験者が身近になく、すべて自分だけの判断と、結果責任を抱えての手出しは、ムツゴロウさんの所に働く若者とは、確かに違うことのように、私には思えてならなかった。
そんなことをぼんやりと考えている私に、尚子からメールの続編なるものが届いてきた。

翌七月十七日(水)朝7時頃。
 真っ先にサクラと仔猫の様子を見に行くと、サクラは床に寝て、箱の中では四匹の仔猫が母親を一生懸命捜しています。とりあえずサクラを箱の中に入れてやると、すぐお乳に吸い付く仔猫達。
そこで、私は床に点々とサクラの水みたいな便の跡があることに気がつきました。
と、サクラはお乳をやるのを途中でやめて箱から出てきてしまう。
また水のような下痢便をすると今度は嘔吐もしてしまう。水は少し飲むけど、餌は全然食べない。
本を読むと、母猫は産んだ直後から箱の中に入りっぱなしで、仔猫に乳をやるはず。しかも、ご飯はいつもの三倍ぐらい食べるとも。
 獣医さんが開くのを待ってすぐ連れていくが、病院で診察中もどんどん下痢してしまうサクラ。
先生の話によると、おそらくもともと腸が悪かったのに、お産で打撃を受けたのだろう、とのこと。
ご飯を食べないのは具合が悪いからで、とにかく下痢を止めるのが先決、ということで、注射を打たれ下痢止めのシロップを貰う。
その日は、仔猫にお乳もあまりやらず、箱から出て寝てばかりいるサクラ。
翌十八日(木)
 やはりご飯は食べていない。ウンチは下痢で出血もしている模様。また獣医さんに連れていく。出血は子宮の内膜が炎症を起こしているためで、注射と今日は栄養をつけるために点滴をする。
今日もご飯を食べなかったら、明日も点滴しに来なさいといわれる。心配で思わず先生に「死んじゃいますか?」と聞くと、先生は笑いながら、「死なないようにしましょう。お産とはこういうものなんですよ」とおっしゃる。
 ここで心配なのは仔猫のこと。一応猫用の粉ミルクと哺乳瓶を買ってきて、夜仔猫に授乳しようとして箱から仔猫を出すと、ものすごい声で鳴く仔猫たち。
声をききつけて、サクラは初めて自分から箱に入り授乳する体勢に。
ご飯を全然食べてないのに、サクラは授乳を開始。
十九日(金)
 明け方、サクラが少しだけドライフードを食べましたが、出血はまだ続いています。
獣医さんに行ってまた点滴してもらい、栄養剤も注射してもらう。
先生も「顔つきが大分よくなってきたね」といってくれ、念のため翌日仔猫も一緒に連れていくことになりました。
病院から帰ってきたサクラは、ドライフードを食べ始めました。まだそれほどたくさんは食べませんが、それでも本当に嬉しい。仔猫にも自分から授乳するし、ペロペロと舐め始めます。
二十日(土)
 仔猫とサクラを獣医さんに連れていきました。仔猫は問題なく育っているとのこと。ところがサクラが少し発熱している。これは子宮内膜の炎症がまだとれてないからだろう、とのこと。今度は炎症をとるシロップを貰う。
でもご飯も食べているし、顔もよくなってきたので、何とかなるだろう、と言ってもらいました。
火曜日からずっと、本当に生きた心地がしなかったのだけれど、ようやく気持ちが落ち着いてきました。
 一時はサクラが死んじゃうのじゃないかと思い、一人でメソメソしていましたが、今のサクラを見ていると自然ってすごいものだと思います。
まだ、熱のことなど心配はあるけれど、何とか元気になって仔猫たちが離乳するまでは、私もがんばって面倒みようと思っています。
長いメールでごめんなさい。産まれたばかりの四匹の写真を送ります。また電話しますね。和子さんにもよろしく。
                                尚子

 考えてみれば、七月十六日から二十日という、わずか五日間の間に尚子の周辺で起こった出来事なのだが、それにしてもたった一匹のネコと尚子との間に起こりえた、ちょっと信じられないような出来ごとの全てだった。
私はこのよく耳にする出来事が、周囲の人々に投げかけてくるものの重さを考えてみた。そしてそれが、犬ではなくてネコであることの微妙な誤差を考えた。

 犬だって、我が身に降りかかってくる出来ごとに対して、それを受け止め、全身でそのことに立ち向かっていくことには変わりはないのだが、犬はその対処の中で、人との関わりを絡めながら立ち向かっていくように見える。それに対してネコは、何か一人ですべてに立ち向かっているように思えるのだ。

 私は、そのネコの何ともいえない、しなやかな孤独感みたいな部分が好きだ。
頼っているように見せて、肝心な部分では誰にも頼らず立ち向かっているような、その強くしなやかな姿に、何ともいえない魅力を感じてしまう。
 そう考えていると、尚子のアパートで起こったサクラの難産が、何ものにも代え難い、目出度い出来事のように思えてきた。そして難産の最後の七月十七日が、和子の誕生日であることに思い当たったのだった。

3.「二つ目のメール」

 ここ八ヶ岳の麓からははるか彼方で起こった出来ごと。娘とはいえ、私にはその暮らしの何もかもが見えていない、遙か遠くで起こった出来ごとなのだが、尚子の日常の一面を覗く窓が、私たちにも開かれているみたいに思えてしまったのである。
 それは自分勝手な思い込みなのだが、半年前にこの世を去ったトラ丸が残していった余韻ともいえた。そんなことをあれこれと思い巡らしている時に、尚子からこんな内容のメールが再び飛び込んできた。

パパへ
 尚子です。あれから実はとても色々なことがありました。
七月三十一日(水)、出産から二週間と一日目の朝、仔猫が一匹亡くなりました。前の日までは普通に元気に見えたんだけど、朝起きたら動かなくなっていました。
茶トラのオス、多分、一番目に産まれた子だと思います。
(略)
 その悲しみも覚めやらぬ昨日八月二日(金)、今度は三番目に産まれた白のメスが死んでしまいました。二日前の出来事があったので気をつけて見ていたのですが、前日の夜、この子だけお乳を全然吸っていなくて、あまり動かずじとしていたので、これはまずいかなと思いました。
 慌てて哺乳びんでミルクをあげたら、少し飲んだのでやや安心して眠り、それでも気になって、二時間後ぐらいに起きてみたら、すでに動かなくなっていました。まだ温かくてサクラは一生懸命その子を舐めていました。
(略)
 二匹とも弱い子というか、自然淘汰なのだと思うしかなさそうです。
庭に穴を掘って埋めてお墓を作ってあげました。とてもとても悲しくて、辛い経験でしたが、命の尊さや不思議さ、また残酷さをまざまざと思い知らされた気がします。
そんなわけで、今仔猫は二匹です。一匹はオスの茶トラで、獣医さんによれば、この子はすごく元気がよくて、将来大きく丈夫に育つだろうとのこと。
(略)
 それで、パパにお願いがあります。尚子としては、この残った二匹にとても大きな愛着を感じています。今は、二匹ともが無事に元気に大きく育つように祈るのみですが、無事に育った暁には、是非どちらかをパパに貰ってもらいたいのです。
家でも相談したのですが、白いメスの方をできれば家に残して、茶トラのオスをパパに育てては貰えないでしょうか。
 当初里子に出すことも考えてはいたのですが、二匹が次々に亡くなってしまい、残る二匹を、見ず知らずの人のところに出すのは、とても忍びない気持ちになっています。
パパなら、愛情をもって一緒に暮らして貰えると信じていますし、いつでも消息がわかるので、パパのところで一匹飼ってもらえたらこれほど嬉しいとはありません。 
どうでしょうか?和子さんとも相談して、考えてみてもらえないでしょうか?
一応、現在の茶トラの写真を送ります。ちょっとやんちゃだけど可愛くて、元気な男の子です。また電話します。
                                尚子

 ちょっと信じられないような嬉しさがこみ上げた。出産の話には心を打たれたが、又猫を飼うなど考えてもおらず、何の心の準備もなかったのだ。
「和子さんと相談して・・」という言葉からは温かみが届いてきた。

4.「成りゆき」

 仔猫の写真というのは、送り手の思い入れとは別に、外見の特徴みたいな所だけが目に入ってしまう。
 なるほどその四匹は上から、牡、牝、牡、牝、なのだが、牡は全く同じような茶トラで、いくら眺めても見分けがつかないほど良く似ているし、牝の方はただ真っ白けで、末っ子だといわれる方の頭にチョット薄墨色のハネがある以外は、それこそ見分けようがない只の白だった。
しかし、そのうちの二匹はもうすでに死んでいるのだが、実感のない私には、写真の四匹全部が生きているようにしか見えない。メールから受ける、何か深いところに響いてくるインパクトと写真とが、どこか反りが合わない。

 それにしても、自分の手の中で、生きている証である体温が冷えていくといった経験は、一生の内でもそう幾たびも経験するものではない。それを経験している尚子の心の内が、手に取るように伝わってくるメールだった。
 今までにも動物など飼った経験もなかったはずだから、おそらく尚子の日常の中では、あまり考えることもなかったようなテーマが、比較的短時間の間に押し寄せてきたに違いない。
小さな生き物だと思っていた存在が、突如として尚子の日常の中で大きなものとなり、かけがえのない何かを投げかけてきたに違いなかったし、同時に仔猫を貰い受けるという新しいテーマが、私たちの暮らしにも突然のように飛び込んできたのだった。

 私は自分の机に座って、「トラ丸と別れの朝に髭を剃る」と書かれて壁にぶら下がっている半紙をぼんやりと眺め、その仔猫をこの家で育てるのだろうかと思い始めていた。が、それは何か現実感の抜けたような感覚でもあった。

 それから一週間程して和子に、尚子のところで起こった猫の出産のあらましを話し、その仔猫の一つを家で飼いたいという私の希望を伝えた。それに対して和子は、写真を見たいとか、私が突然飼いたいと言い出した理由などを聞きただすこともなく、
「じゃ、どうするの?何時連れに行くの?」という返事を返してくれた。

 簡単な返事の仕方というのではない。和子は、常にこういう大切なことへの結論が、私など舌を巻くほどに明快に投げ返される。私はこのときも同じような明快さにたじろぎ、少し大袈裟にいえば、何か心の暖かみを感じていた。
私はその日のうちに尚子に返事のメールを返した。

尚子へ
 半野良というよりは、事実上は野良猫なわけで、壮絶な生き方をしている様子が伝わってきます。そういう生き物を身近に見ることから伝わってくるもの、その伝わり方の力も凄いものだなと思います。別にサクラも子猫たちも伝えようと思っていないところが、こちらの胸には強くストレートにくるんだね。
 学んだ、とか学習なんて言いたくない気持ちがよく分かります。 合掌。
(略)
 この件は「くれてやったり、もらったり」でなく、様子をしばらく見て、自然な成り行きにそっと従うのが良いのではないかと思っています。僕もトラ丸が生きている間に、数えきれず与えてくれたものを忘れない中で、考えたいと思っています。
 先週散歩で転んでしまい、肋骨を折ってしまったので一寸おとなしくしています。今週は横川さんが例によって薪割りに来てくれるので、ありがたいけど弱ってもいます。
自分の家のことをして貰っているのに、こちらが見ているだけというのは。
そんなこんなで今年の夏は過ぎそうです。
では。直喜くんにもくれぐれも宜敷く。

5.「出逢い」

 こういうことがあって、その年の夏はあわただしく過ぎていった。
それから二月ほどが経った九月の終わり、尚子が茶トラ模様の小さな小さな牡猫を籠に入れて、八ヶ岳の麓の我が家へとやってきた。
三時間あまりの長いドライブだったはずだ。尚子は家に入ると挨拶もそこそこに、仔猫をバスケットから出して、床の上にそっと置いた。

 後に和子が語ったその時の印象は、「何て可愛くない顔をした猫だろう」だった。私も実はそれに近い印象で、やけに顔も体も細く、声も印象の薄い響きだと感じていた。それは多分十六年も一緒に暮らした、トラ丸との時間のせいだったのかも知れない。

 長旅から解放されたその茶トラ模様の小さな固まりは、全身にただ一つの気持ちをみなぎらせ、背を低くとって、テレビの後ろに入ってしまった。安全の手応えが欲しかったに違いなかった。
それから本棚の後ろや植木鉢の陰、ソファーの下へと忙しく移動し続け、ついには三人でどこを探しても見つからない何処かへと、身を潜めてしまったのである。
 結局、尚子はその晩我が家に一泊して、夜中まで、潜んでいる仔猫を探し出しては、こまごまとした世話をしてくれた。そして翌日になると、後ろ髪を引かれるように、切実な願いごとをするような表情を残して、東京へ帰っていった。

6.「名前」

 ポツンの残された格好になった茶トラ模様の仔猫は、まだ名前が付けられていなかった。いや、実は東京では「満男」というテレビドラマから取った名で呼ばれていたのだが、「長野に行ったら、パパたちが名前を付けていいから」ということで、宙ぶらりんになっていたのである。

 私は何となく雄猫には「丸」をつけようと、いくつかを考えてみたが、これだと思えるような名は見つからなかった。というよりも、トラ丸が亡くなってから、こんなに短い時間の中で、又猫を飼うこと自体考えてもいなかったのだ。それよりも只、私は命名するのは自分の役割だという、意味のない思い込みに取り憑かれていたが、和子はいつの間にかチャチャと勝手に呼んでいた。

 茶トラだからチャチャ。これでは余り単純すぎるとばかりに、私はなおも自分好みの名前を考え続けていたが、ふと気がつくと、そういうおやじ意識は、この状況とは何とも馴染まないことに気づき、和子の自然体の命名に沿ってみようと、私の好きな丸を入れて、
「茶々丸でどうかな?」といってみたのである。
「ほらね。私は最初からチャチャだったんだから。」
丸も何もない、これで決まり。今日からこの茶トラ君の名前は目出度く「茶々丸」となった。

 茶々丸は三日間は隠れてばかりで、よくもこんな場所を見つけるものだという所に潜んでいた。
テレビの裏側、コンピュータの後、食器戸棚の下、本棚の隙間、ありとあらゆる場所を創造的に見つけ出すが、こちらが苦心してこしらえてやった、小型の段ボールに小さな穴を開けた、如何にも隠れ家らしい場所には見向きもしなかった。

 茶々丸の家内探訪は飽きることなく続けられ、散らかしっぱなしの書斎に入って来ると、「何か変わったものを出せ!」という風に、私の顔に向かって吠えるように鳴いた。
 するとそのことが次第にエスカレートして、私のジャンパーの中に頭から入り込み逆立ちになったり、脇の下から袖の中まで無理矢理に入って、私のメール書きを中断させたりした。

 これは私にとっては、何か気脈が通じ合えたようで誇らしかったが、茶々丸にしてみればやはりまだどこかしら不安で、本当に安心できる場所を必死で探しているのかも知れなかった。
生まれて二ヶ月ほどで親兄弟から引き剥がされ、その小さな五感で感じ取れる総てのものが、一気に入れ替わってしまったのだ。こういう環境の激変がどんなものだったのか、私などにはとうてい想像もできない世界だったに違いない。

 尚子の申し出を簡単に引き受けてしまった、私の決断の何処かが間違っていたとしたら、それは、やっと築かれた親兄弟との安全で暖かな日常から、茶々丸を明らかな驚天動地へと投げ込んだことだ、という思いが湧いた。

7.「兄妹」

 そのことに釈然としない思いを抱いたまま、更に二ヶ月が過ぎていったが、私は何となく、牝猫の方も一緒に飼えないかという考えが浮んでは消えるようになっていた。
 そんな中で尚子から電話があり、今住んでいる借家の契約の中に「動物は飼えない条項」があるから、今後が不安だという相談を受けた。

 親猫サクラが産気づいた時に、無理やり家に上がり込んできた経緯があり、落ち着けばまた外猫に戻すことは一応考えているが、何か言われるまではこのままの状態でいきたい、というのが尚子の相談のあらましだった。

 この相談の答えとして、妹ネコの方も一緒に飼うということが、良いのかどうかは分からない。それでも私は自分の中で明滅するプランの話を尚子にしたのだった。
これも人の都合で決めしまうことに変わりはなかったが、最初の一手を人が打ち出したのだから、その後はすべてが、その筋道の中で決められて行くより他になかったのかも知れない。
結局、「そうしてくれる?」という尚子のコトバに、「その方が良いだろう」と私は答えて、あとは時期を待つことにしたのである。

 それから何日か経って、今度は私が車で東京まで迎えに行くことになった。
バスケットを用意し私は上野池之端の尚子の家へと向かった。その家は寺の多い静かな住宅街の一郭にあって、古い二階建の三部屋、ひっそりとした佇まいだった。一階には小さな台所しかなかったが、そこに真っ白なそっくりの親子が、それぞれ勝手な場所に座っていた。

 この台所の空気を頬の辺りに感じながら、私はこういう所に住んでいるものを、長野の我が家へ連れて行くのは、如何にも強引な行為のように感じて、取りあえず発する言葉を失っていた。
 また同時に、自分はいつもこうして物ごとを決めてきたような気がして、何か胸を締めつけられるようで、心は金縛り状態になっていたのだったが、それでも自分が意図してきたものを、着実に進める構えは崩していなかった。

「サクラもこんなに元気になったのよ。」という尚子の言葉にドキッとしながらも、「うん。」と答え、横でのろのろと歩いている仔猫の方に目をやった。
その時の私は、身売りされる娘を一瞥する、人買いのような目つきだったに違いない。

 私は、尚子に促されるままに、細い階段を上がって二階の畳の部屋に座ったが、何となく気まずい間を噛みしめた。やがて仔猫の方のシロが、のそのそと二階へ上がって来たかと思うと、ひょいと私の膝の上にあがって一周し、自分の腕をまくらに顎をのせて丸くなった。
すると尚子が急に、
「この子、めったに人の膝なんか乗らないのに!」
と弾んだ声でいって、またほどけた空気が戻ったようになった。が、尚子の目の奥にある虚ろな陰は消えてはいなかった。

 それから少しの時が流れたのだろうか、私はまたもやあり得ない間の悪さの中で、
「じゃ、そろそろ出掛けなくちゃ。」
そう言ってしまったのだ。
「そうね、そうする?」
そう答える尚子の声を背中に、こんどは私は、自分の持参したバスケットの蓋を開けて振り返った。
ゆっくりと動きながら、何故かもう一人の私が、激しく自分をせき立てているのを強く感じていた。

 私は全てが一拍子に支配された夢遊病者のように、玄関に出て靴を履き、バスケットを抱え、外に出て車の運転席に座っていた。
 車が発進するとき、私ははっきりと尚子に目を合わせられないまま、左手を挙げて合図を送り、もうすっかり暗くなった池之端の表通りへ向けてゆっくりとアクセルを踏んだ。

8.「再会」

 こうして茶々丸の妹が八ヶ岳の麓の我が家へとやって来たのは十月二十四日、茶々丸が来てからちょうど一月ほど経った夜のことだった。
 この妹は真っ白で、ひたいに薄墨を撥はねたような点が一つ。左右の目の色が違う意志の強そうな仔猫だった。家の中で隠れ込む習性は茶々丸以上で用心深く、とてもひと筋縄ではいかない構えを見せていた。
 この妹猫、東京ではちゃんと「ロナ子」という名前を持っていたが、この猫もやはり我が家で新しい名前を考えてやることになっていた。しかし今回はその心配をする必要はない。それは、連れてくる前からかみさんが勝手に「その子は、雪ちゃんにするから!」と宣言していたからだった。

 この二匹を再会させて私がいちばん驚いたのは、一ヶ月ぶりに再会した兄の方が妹に牙をむいて威嚇したことだった。
 僅かひと月前には仲良く暮らしていたのに、という思いがするし、何だか生き物の世界の底知れない厳しさを見たような気持ちではないか。

 人生いろんなことを経験してきているつもりなのに、この小さな生き物に対して、畏敬の念を抱いてしまうのはこんな時なのだ。私は怖いような、嬉しいような気持ちでその光景を眺めた。
だがよく観察すると、これまた一つの厳しい挨拶のようにも見えてきた。そしてそう思うと何だか観察する楽しみがぐんと増してきたようだった。

 茶々丸と雪は揃って、狭くて埃だらけの場所に隠れていたが、それは兄妹というしかないほど、ぴったりとくっつき合って行動していた。食事やトイレに行くときも、茶々丸が道案内をしているみたいで、じゃれる時もその場所まで雪を案内し、獲物には「お先にどうぞ」といっているようだ。
 先にこの家にやって来た先輩として、一つ一つを優しく案内し、教えているみたいに見える。これは明らかに、妹を気づかいお兄ちゃんをしている姿だった。

 茶々丸は全身が茶色のトラ模様に覆われていて、体はほっそりとして背が高い。声は何といったらよいのだろう、ジャラ声で、太くはないどちらかと言えば細声だ。物腰には何となく遠慮がちなところがあって、人なつっこいかも知れない。
 これに対して雪は真っ白な体に小さな筋肉が盛り上がり、柔らかくふっくらとして小柄だ。全身真っ白の中にたった一つ、額の真ん中に中筆で打ったような、薄墨色の点がある純白崩れだ。人にさわられるのが嫌いで、一瞬人の目の奥をジッと見る。ちょっと意地悪そうな、如何にも意志の強そうな表情が特徴だ。そしてその目は左が金色、右が青い色をしている。じゃれるときに人の手などに当たっても、爪を引っ込めないで引っ掻いていくような所があるのだ。

 二つを比べると妹の方が少し大きい感じだ。お兄ちゃんの方は顔も小さく、ヒョロヒョロっと足長の、ちょっと頼りなさそうな所が魅力といえば魅力だ。しかし何といっても辺りに気を配るという一点に於いて、一日違いの妹との差別化を図っている。
 雪が目的に向かう時は、少しもためらわず一直線なのに対して、茶々丸は「一周回ってワンッ!」だから何事にも一歩も二歩も遅れてしまう。これ、兄妹の関係だからなのか、男ネコが女ネコに対する気配りなのかは見当もつかない。

 ただ私の胸の内にいつも「妻は夫をいたわりつー、夫は妻を慕いつつーーーう」
という浪曲「壺坂霊験記」の歌い出しが鳴り響いてしまう。
兄妹なのに変だけれど、ついついそうなってしまうのである。見ているうちに、
「ああ、やっぱり連れてきて、一緒にしてやって良かった!」
何の根拠もないのにそんな風に思ってしまう。

 雪が我が家にやって来てからひと月も経たないうちに、二匹は見る見る我が家に馴れてきた。どう馴れたかといったってあなた、ネコという生きものは家の中に分からないものや、コトがあってはならないらしいのである。

 とにかく目新しい場所へ入り込み、何でも新しいモノには乗っかり、その知り尽くそうとするエネルギーには目を見張らされる。入ってはいけないところ、行ってはいけないところは新しいところだからして、トイレなどは人よりも先に入って中を先ず一周し、あとから入った私の顔を見上げて、「これだけかよオー」という顔をする。
 私の家はトイレの中にもう一つドアーがあって、実はそこから縁の下へ降りる秘密のハシゴがあるのだが、そのドアーの取っ手と私とを交互に見比べるのである。

 和子は最近キルトにはまっていて、デザインの台紙に相当する、毛布大のネルのような布を壁に掛け、そこにモチーフとなる一片のデザインを当てては考えている。
作業が進んでくるとその一片が、十片も二十片も並べられていく。そういう風にデザインが増えてきた頃合いを見て、その壁に飛びついては、大布ごと引きずり落としてしまう。デザインの配列がぐちゃぐちゃになってしまうのだ。

 ここまでなら、どこの家でもネコがいれば似たようなものだろう。だがここからが我が家では趣が少し違ってくるのである。

 そんなとき、私が見ていれば「こらっ、こらっ!」といって手を振り上げ睨むのだが、和子は決してそういうことはしない。「いやだー、もうー!!」と情けなさそうに泣き声で愚痴る。
その後「お父さんッ、何とか言って!!」と来る。
何やら、私は俄然分が悪くなり始めるのである。

 そう、猫たちから見れば、「お父さんはおっかない人」であり、「お母さんは何をしても叱らない、優しい人」になってしまい、一旦そうなると猫たちの中に私のそういうイメージが出来上がってしまう。この辺りから私は、いわば四人家族の中で、一人だけ浮き上がってゆく悲哀を噛みしめることになるのであります。

 今年は例年よりも早くここ原村でも十二月の初めに雪が降り始めた。一度に降る雪の量はそれ程でもないのだが、かなり頻繁に降ると結構積もるものである。我が家でもサンルームから見える庭は、ぶ厚いふとんをかぶったようになって、池のところだけがポッカリと穴が空いている。

9.「まさか」

 私は朝起きると最初にやらなければならない仕事がある。それはストーブの掃除で、まずストーブのガラスをピカピカに磨き、灰を落としてそれを庭の隅の川に捨てに行くのだが、その作業が茶々丸にとっては興味津々の光景らしいのだ。
 雪ちゃんの方はそれ程でもないらしく、少し離れたところからジッと見ている程度だが、茶々丸はそうはいかない。

 私が灰受け皿を持ってドアーを開けようとすると、近くのテレビに乗っかって、「どこいくの?どうするの?!!」という顔をする。外に出たいのかと思うから、しばらくドアーを開けて待ってやるのだが、外に出る気配はない。
「寒いよー!早くドアーを閉めて!!」と奥から和子の声が飛ぶ。急いでドアーを閉め私は灰を捨てに行く。その間僅か二、三分だろうか。外はマイナスの十度だ。

 戻ってみると茶々丸が雪ちゃんに体当たりをし、相手を転ばしてじゃれ合っているのだが、そのうち急に、茶々丸が雪ちゃんの上にひょこんと乗っかっている。
ありゃりゃ!。こりゃもうそういう時期になっているのかなー。でもただふざけ合っているだけだよナ、と自分に言い聞かせるのだが、やはり気になって、
「お母さん、茶々丸が何か変だよ。雪の上に乗ったり。」そういうと、
「そう、最近変なのよ。困ったわね。」なんぞという。
「だって、生まれてまだ半年だぜ。」

 そういいながら、私は子どもの頃によく聞いた、猫たちの三角関係の声が、いつも寒い時期だったことを思い出していた。しかしそれにしても猫って半年で大人になるものかなア、などと思ってみたが、頭の片隅に「妊娠」という言葉が浮かんでしまうと、それがだんだんにふくらみ、自分の身勝手だと思いながらも、いつの間にか引き返すことがない結論として、心の中に納まっていった。

 師走も押し迫ったころ、ようやく和子が一年前に、トラ丸の死を看取ってくれた獣医さんに電話を掛けてくれた。
「年内は駄目。じゃ、年明けの十一日、午後一時に連れていらっしゃい。」
電話で先生は、そうおっしゃったそうである。
これで安心して良いのかどうなのか、ま、とにかく年明けまでは待つより他にない。
 その獣医さんには、我が家に来たばかりの仔猫を、予防接種のため連れて行ったことがあったが、その時に避妊のことについて先生のアドバイスをいただいていた。

「でもねまだまだ。変な大きな声を出したり、オシッコをあちこちにするようになったら連れていらっしゃい。女の子の方が早いでしょう、男の子はもっと遅いですよ。」
この言葉が頭の中をぐるぐると回転して止まらない。
 私はこういう時には情けないもので行動が出てこない。ぶつぶつくよくよと、頭の中がくるくると回ってばかりで、じゃあどうする、というのがない。

 和子はそのことは先刻ご承知で私には相談をしない。年明けの十一日に向かって、何か着々と用意している様子が、言葉の端々から伝わってくる。お百度参りの旅に出掛ける、おばあさんの後ろ姿にも似ている。

10.「犬との遭遇」

 今年の我が家のお正月は例年になく忙しいものとなった。
まず大晦日には川崎で療養中の姉を迎えに行き、三日には、娘の尚子とその彼氏直喜君が、猫との再会を期して訪ねてくる。そして最後には姉を今度は川崎へ連れ戻す「アッシー」を引き受けた、その下の姉夫婦がやってきた。

 この下の姉のところにはアンナという牝のビーグル犬がいる。いつもならアンナは外の車の中で寝かされるのだが、この寒さではそれも可哀想だからと、家の中に入れることになったのだった。
「すわ一大事!」だったのは茶々丸と雪だった。
犬はこの家を知っているから後先を見ることもなく、いきなり、スポーン!という感じで居間に飛び込んできた。

 茶々丸たちは完璧なまでの素早さで、高いところへ駆け上がってしまい、いつも悠々と休んでいたストーブの前の席は、犬のアンナへと簡単に明け渡してしまった。
 アンナは人のいうことを良く聞くから、ストーブの前で大人しく休むが、茶々丸たちは階段の手すりの間から、四つの目でアンナから片時も目を離すまいと居間を見下ろす。興味津々、本当は近寄りたいのだが、別に仲良くなろうというのではなく、ただ近づいて臭いをかぎ、様子を窺って、こいつがどの程度のモノなのかを、慎重に測っておきたいだけだ。

 家の中は人が大勢になり、ひときわ賑やかでイヌ、ネコたちも少々興奮気味だ。
けれども私が心配していた、ネコがイヌの顔めがけて飛びかかり、鼻の頭を囓るといった荒技は出現しなかった。ただ、どうしてもアンナをもう少し調べておきたい二匹の猫たちは、階段上の見張場を少しずつアンナに近づけてきて、とうとうアンナのシッポの付け根の臭いを嗅ぐところまで来た。

 よく見ると今度はアンナの方がぶるぶると小刻みに震えて、猫たちを怖がっている。本当はアンナはそろそろ落ち着いて寝る準備をしたいのかも知れない。

 アンナはビーグル犬で、この犬種は英国の貴族たちが馬に乗ってホルンを吹き鳴らし、二、三十頭の集団で狐狩りをする、というのが私のイメージだ。もしそうだとすれば、ビーグル犬はその血統の中に、大勢で力を合わせ、一頭の獲物を仕留める知恵を持っていることになる。それが今は逆に、自分一人で複数のネコに嗅ぎ廻られているのだから、これは落ち着かないのも仕方がない。
そこへ行くと、普段は徹底的に個人主義のはずの猫が、今は何となく力を合わせるように、必死でアンナの素性を探ろうとしているのだ。

 犬にも猫にも申し訳ないのだが、私はこういう光景に何となく見とれてしまう。
しかし心配していた犬と猫の緊張関係も、時間と共にすっかり静かなものになって行った。これはきっと彼らの体内に、正確な生活時計が刻み込まれているからかも知れない。どんなに興奮して暴れ回っていても、ある時間が来ると波を打ったように静かになるこの不思議。
明るさ、暖かさ、湿り気、匂い、その他周りの変化が、猫たちに伝えてくる信号に忠実に答えてゆくさまは、驚異に値するといったら大袈裟だろうか。
少なくとも私などは、そういう知覚がまるで薄れてしまっていることを思い知らされる。食事の時刻といい、睡眠時間とその時間帯、昼間の活動の時間とその量。そういったものがすっかり秩序を失って、意志を持ってといえば格好良いが、欲望の赴くままにやっているのが、当たり前になってしまっている。

 私は妙なことを思い出してしまった。私がかつて福岡で「アジア太平洋博覧会(平成元年)」の仕事に携わっていたときのこと。その職場は「トロピカル・ビレッジ」という太平洋島嶼諸国を集め、歌や踊りを披露することを目的としたパビリオン。そこのテーマが「パシフィック・ウェイ」という。これはかつてオーストラリアのラツ・マラという首相が提唱した生き方の提言で、「太陽が東の海から昇ったら活動し、西の海に没したらやすむ」という生き方だ。

 「この可愛らしい猫や犬たちと、生活時間だけでも合わせられたら、もっと思ってもいなかった生き方や発見が出来るかも知れない!」そんな想いが明滅して止まらない。
 見ると茶々丸と雪は二階の寝室にいつの間にか引き上げ静かになった。
 アンナはと見ると、居間のストーブの前に、姉たちが敷いた布団で丸くなってもう眠っている。こうしてたった一泊の犬の襲来ともいうべき姉たちの訪問の時が過ぎていった。

11.「手術」

 正月の訪問者たちが去って、私たちにはぐったりとした疲れと楽しい記憶が残り、また雪に覆われた静かな暮らしが戻ってきた。
 茶々丸と雪は、驚天動地であろうとなかろうと、その時々を精一杯に生きるという点だけでも、六十余年も生きている私をはるかに越えている。これだけのテンションで生きることは、そう簡単なものではないはずだ。もし私が彼らと同じくらいのテンションで生きていたら、病気や怪我などをしなくても十二、三年くらいしか生きられないに決まっている。なぜ決まっているかといえば、茶々丸や雪よりも私の方がはるかに欲が深いからであります。

 さて、嵐去って静かな時間は瞬く間に過ぎ、獣医さんとの約束の十一日がやってくる。和子は前日から、茶々丸と雪を入れてゆくバスケットやその中の敷物、タオルなどをこまごまと用意し、明日はいつもより早く起きるように私にもそう申し渡した。
 当日は結局二匹の猫を一緒に連れて行くことにしたが、雪だけを一晩病院に預けることになった。私たちは取り敢えず帰宅し不安な一晩を過ごしたが、翌日迎えに行ったときには全てはすでに終わっていた。
私はこの避妊に関わる一部始終をメールにして東京の尚子に送った。 

尚子へ:
雪ちゃんの病院、土曜日に行って来ました。
心が決まらない内に時間ばかりが過ぎて行き、とうとうその日がやってきてしまいました。
朝から二人とも気が落ち着かず、午後1時に来いというのに、午前中からそわそわして、他のことが手につきません。
 イヤなことだというのに、お昼にはもうすっかり支度が出来てしまい、仕方なくテレビをぼんやりと眺めて三十分ほど。お金も用意しなければならず十二時半になったら「行こうか」と僕。
車を暖気して出発です。心も決まらぬままに、何故か行動は先へ先へと前のめりに運んでゆきます。
 そういう気分が働くのか、それとも僕の性格によるものかも分からないのに、そんな風にして滑りやすい道を先へ先へと車を走らせました。
バスケットの中には茶々と雪ちゃんが仲良く入っていて、泣き虫の茶々は一言も発することなく、雪ちゃんがひとりだだをこねるように鳴いています。和子の手にしっかりと抱えられたバスケット越しに猫たちを眺めながら、茶々丸のお兄ちゃんぶりに感心するばかりの、無言の二人。
そんなはずでもないし、そうしなくても良いのに、約束の一時きっかりに到着。
 先生に両方連れてきたことを告げると、
「雄の方はまだ早いな。あと二ヶ月後くらいでいいでしょう。」
「変な声で鳴いたり、あちこちにオシッコをかけるようになったらね・・」
と促されて雪ちゃんだけを診察室へ。この時点で和子はすっと待合室の方へ引き返す。

首筋に一本細い注射針を立てられるが動かない雪ちゃん。
先生が注射液を一気に注入する瞬間に、雪ちゃんは一歩前へ進み出る感じ。
「はい、じゃあこちらへ」と促される部屋に雪ちゃんを抱いて入ると、そこにある檻のような箱のなかを指さして、
「ハイ、そこへ入れて・・」
「明日の朝、十時前後に来てください!」
 あまりに気持ちを抜き切ったコトバに唖然としながら、言われた通りに雪を檻のような中に入れ、待合室にもどりました。
これであとは先生に全てを任せる。そう思うと僕たちは何も考えずに、急いでへ外に出てしまいました。
 気がつくとお金のことも、そのほかの何もかも話してないことに気がつきましたが、何だか逃げるようにあっけなく家まで帰ってきてしまいました。
{翌日}
 少しだけ早起き、というより寝坊をしないで起床。朝ご飯をすませるとすぐに、「もう行こうか」という僕に、
「そんなに早くなくたって、午後でも良いよ」という和子。
「駄目だよ。十時ってはっきり言っていたんだから」
今日は軽トラで茶々丸を連れずに出発。抜けるような青空の下、まばゆい雪景色の中を急いで病院へ。
 今日は昨日と違って他に二組ほどの人がすでに来ていて、ちっちゃな、僕には犬種の分からない人なつっこい犬が待合室を動き回っている。受付に顔を出した先生に、
「室田です。お世話になりました。」と声をかける。
「ああ、無事終わりました。でも、この子妊娠してたね。」
「・・・・・」
(やっぱり!可哀想に!!!)と思うけどコトバには出せない。

 診察室に一人入って、黙ってバスケットを開けて雪ちゃんを抱き入れる。
雪ちゃんは胴体全体という感じに、キャラコの割烹着を着せられたような 感じになっていて、何だかものすごく小さく軽くなったような気がする。
帰りの車の中は、どうしようと思うほ雪ちゃんは大声で泣きわめく。
十分も走ると今度はものすごい力でバスケットの蓋を開けて出ようとするので、和子は必死でふたを押さえたり、名前を呼んだりしている。
 僕も時々しっかりした声で「雪ちゃん」と呼んで見るけど一向に大人しくはならない。できるだけ揺れやガタガタを少なくするように全神経を集中して運転。やっと家に着く。

 家の中に入っても、和子はどうして良いのか分からず、バスケットの蓋を開けずに僕を待っている。
「良いよ。そこで開けてごらん。」
 結局開けて出してやると、早速茶々丸が雪に近づくといきなり、フーッ!と威嚇するので、驚いて離してやる。でもそれから何回も「フーッ!」を繰り返す茶々丸。

 強烈な消毒の匂いが茶々丸をそうさせているみたいだ。ネコも犬も相手を姿形で認識しているのではなくて、臭いや、声、触感などを先に感じているのかも知れない。でもその事にはすぐに二匹とも馴れる。と同時に茶々丸もそういわなくなる。
 雪ちゃんはご飯も食べ、お水も少しのみ、うんち・オシッコもして僕たち を安心させる事を忘れない。そのおまけに、爪研ぎ箱に乗っかり腹筋・背筋に力を込めての思いっきりの爪研ぎ。ほんとにハラハラさせられる。
(略)
 方針転換で、結局階下で二匹をほったらかしにすることに。
茶々丸が雪の背中に乗っかったり、雪が何かにじゃれつこうとしたり、を辛抱強く見守る。
夜は二匹でパオの中で寝んだらしい。今朝は茶々丸が前より少し甘えん坊になったらしく、僕の布団の中に入ってくる。今までにはなかったことだ。
 何だか、こちらもじっと何かを我慢して堪えるような、そんな時間が来るかも知れません。それはそれで、これからもこの子たちと長いこと一緒に 暮らしていけたらと思います。
写真は一夜明けた今日のものです。
この二つの生命が語りかけてくるものを、芯で受け止めるのは大変です。

 雪は割烹前掛けのような傷当ての布が不自由らしく、あまりじゃれたり遊ぼうとはしない。じっと痛みに堪えているようだ。そのせいか雪の体が小さく見える。しかし、この間までは茶々丸の方が明らかに小さかったのに、こんな時に体格のどんでん返しが起きるとは。茶々丸の方が一回り半も大きく見えることに気が付く。
「手負いの雪に、でっかい体で乗っかったりするなよナ!」と言いたいのを我慢する。時どき二匹がじゃれ合うのを直視することができない。抜糸まであと十日。

12.「抜糸」

 雪の縫合の傷跡はお腹の半分くらいまで切られて、野球ボールのような縫い目が痛々しい。でもとてもキレイで良く乾き、美しいピンク色が生き生きとしてきた。
「もう大丈夫。引っ掻いたり引っ張ったりさえしなければね。」本当にあともう一息というところまで来た。

 待ちかねた抜糸の日がやって来た。抜糸は一週間から十日くらいで、時間を掛けるほど良くついているからという先生のことばに、私たちは十日後を目標にしていただけだ。

 「抜糸」はビックリするほど簡単だった。先生は雪のお腹が半分はチョン切れそうな、大きなハサミかペンチのような器具を手にして現れた。そしてその切っ先を注意深く傷口の糸目にあてて、「パチンッ!」と切る。
 私が驚いていると先生は、「パチンッ、パチンッ、パチンッ!」と矢継ぎ早に切っていき、ホコリでも払うように、指先で雪のお腹を左右に払った!
 すると、検眼する時に見る、あの「C」の字のように曲がった、太い鎖の一駒みたいな糸くずが、面白いように手術台のあちこちに散らばった。

「ハイッ!お終いだよー!」
 その時私は、手術台の上でバンザイするような格好に雪を押さえていた。その私の方が、真夏の海にいきなり素っ裸で飛び込んだみたいな気分になってしまった。
「良く頑張ったね!」
 そういって私は思わず雪を抱き上げた。帰りの車の中でいくら鳴いたってもう大丈夫。私たちは病院のそばの行きつけのレストランに立ち寄ることにした。
駐車場の車の中に雪を置き去りにして、でんっ!とばかりにレストランの窓側の席に陣取ったが、その席からは車の中の雪の姿が小さく見えていた。

 家に帰った雪は見違えるように活発に動きだした。おもちゃのネズミを投げてやるといきなり突進し、元気良くお水を飲んだ。
「割烹前掛けがないだけで、あんなに動けるんだ。」
私は、この小さな生き物に見惚れてしまった。そして、しばらくこの猫たちの様子をぼんやりと眺めているうち、病院で見た雪のお腹の傷跡が脳裏に蘇った。

 もう後戻りできない体になった雪の暮らしがどんなものになって行くのか、考えようとしてみるのだがやはり何の手応えも感じることはできない。
やがて私はゆっくりと立ち上がって、サンルームの窓から雪の庭を眺めた。

 相変わらず分厚い布団をかぶったような庭は、あちこちに雪掻きでできた小山があり、小鳥の餌台の周りにはヒマワリの種の殻がちらばっていた。そしてその向こうにトラ丸のお墓の立て札がかろうじて雪から顔を出し、こちらを向いて立っていた。