続・ 伊藤のお父さん

平成十三年二月四日
室田 堯
 一九七〇年の大阪万博の仕事が切っ掛けで知り合った伊藤さんは五十八歳、音響技師というふれ込みだったが、およそこういった野丁場には似合わない小粋ななりわいで、いわゆる明治時代の東京弁を日常しゃべる紳士だった。
落語などで古今亭志ん生や桂文楽が語る、江戸っ子らしい歯切れの良いコトバとして聞いていたのは、あれは江戸の職人衆の言葉で、伊藤さんに接するようになって耳に入ってきた言葉は、東京日本橋あたりの商人が使う言葉らしいことが分かってきたのだった。
伊藤さんの口から飛び出すコトバたちは、ただ歯切れがいいだけではなく、一種の品の良さをも漂わせながら、且つ啖呵を切っているような潔さがあって、静岡出身の私などは、忽ち伊藤さんの喋りに釘付けになったものだった。息子ほども年下の私に向かっても伊藤さんは、
「よろしゅうござあすか、むろっさん(室田さん)!」
などと語りかけ、その「ござあすか」は「ざんすか」にも「ございますか」を速く言ったようにも聞こえるといった塩梅なのだ。このあたりが何とも清々しく、いきなり私は当時の東京の町に放り込まれたような気分になってしまうのだった。
「今じゃ築地を”河岸”と云うんでしょ?あんな漠然とした所はね、あれは築地。ニッポン橋だから「河岸」ってんでございましょ?」
「でもニッポン橋も、上に高速道路なんて、あんなもんがアタマの上を走ってるんじゃあ、長生きなんてしたかありませんよ。」

 私の見た万博の現場は一種常軌を逸した世界だった。
先ずその背景として、世界の各国が競って出展するために、外国館が建ち並び、そこに日本の多くの団体や企業が参加して来るという状況がある。日本にとっては初めてであり、日本人は誰も経験がないわけだから、皆んな初めてオリンピックに出場するような初々しさと興奮があったのだ。
一つのものを作るのに、それぞれ違った分野の専門家が集まって共同して造っていくところは、一般の建築とそうは変わらないだろう。
けれども「日本万国博覧会」のそれは、建築家のお祭り騒ぎのようなところがあった。今までやっていた設計はいろいろな法律や規則、慣習の制約がある。ところが、アイディア競争の場だからと、大学の研究室あたりでジメジメしていたセンセイ方や、日本一流の高名なる建築家の大御所たちが、一挙に日向に飛び出したような、今までの鬱憤を一気に爆発させたようなハチャメチャな、オモチャ箱をひっくり返したようにエキサイトしている。だから、むしろそれを造る側の職方の方がむしろ真面目に見える。

二百を越える建造物の製作が、すべて一九七〇年三月十五日という絶対の工期をかかえている。そのことが彼らをますます緊張させていくという構図がある。それでいて妙に設計する側も造る側も初めての経験に興奮しているような所があった。
しかも、この建物と展示は、芸術作品や、歴史上の貴重な意味をもつ建物や展示品だったり、そういうレベルのものから単なるカラクリの類やそれ以下のレベルのものまで、シッチャカメッチャカの集合体!
すべては終了と同時に取り壊すことになっているというのも、又それに拍車をかけていた。

通常、建築現場というものは、かなり整然と工事が進行していくものだが、万博の工事現場は日常が殺気立っている感じなのだ。しかし当時の大阪万博の現場は、異常に殺気や緊張があるだけでなく、一種の異常な明るさ、言ってしまえば「浮き浮き」とした空気すらあったように思うのだ。

私はその後もいくつかの博覧会で働いたが、大阪での「日本万国博覧会」はその後の博覧会には見られない、そういった独特の雰囲気に包まれていたことが、強い印象として心に焼き付いているのである。

それは何といっても日本で初めてのこと。携わる人間にとっては、すべてが初めてで、「やるっきゃない!」が合い言葉だった。建築家は、建造物を立ち上げることは飽きるほど経験しているけれど、本気でふざけた設計の建築物。その奇想天外な外観、そして「展示」と呼ばれる大小さまざまなカラクリを、会期の百八十三日が終了すると全てを解体・撤去するという、いってみれば経済原理で動いている今までの建築の概念に、水をかけるような初体験に興奮しているのかも知れなかった。

たとえばブリティッシュ・コロンビア館。それは世界最大の木材生産地をアピールするために、カナダのブリティッシュ・コロンビアからはるばる運ばれた巨大な杉の原木を八本、そのまま立ててパビリオンの正面の壁をつくるという。
そのアイディアは「なるほど!」なのだが、それを実現させるためには、大阪港に陸揚げされた五十メートル近い丸太を、トレーラーの台車を二分割して、長大な原木の両端に配置する。それをトレーラーのヘッドが牽引して会場に搬入するという。そのために運送会社に特殊部隊が編成され、計画と現場検証、輸送のリハーサルまで行って、当時の名神高速道路から、吹田インターチェンジを一時交通遮断して万博会場に搬入するという。
インターチェンジの周辺に植えてある植栽が邪魔になるような場合は、一時別の場所に植え替えて、搬入後また植え戻すという。電柱や電線などももちろん同様で、事前に電力会社に申請書を提出して、運送・電力両社の技術者たちが共同で、現場検証から実施までをするのである。
これは一つの例として、そういうプロジェクトが百以上も同じ万博会場の中でひしめき合っている。

これに参加するあらゆる職種・業種の人々が、このような一種異様な雰囲気の中でしゃにむに突っ走っているような、そんな世界が大阪・千里における1968年から70年にかけての時間だったのだ。そういった、きわめて特殊な世界の中で眺める伊藤さんは、私の目には一種の色気を発散する存在に見えていたのだった。

伊藤さんは自分に「ああしろ、こうしろ」と言う存在に対して、常に舌打ちしては理を説きながら皮肉り、皮肉を笑いに爆発させていたのだった。
「あのねぇムロっさん、よござんすか。機械ってもんはね、壊れるものですから。そうでござあしょ?そういうものなんで御座いますから。」
「そう・・はあ。」
「よく、新幹線なんかが故障で止まりましょう? そうすると怒る人がいますでしょ?・・・機械は止まるんです。それが分からねーんだ、ッしょう!」
「・・・??」
「ようござあすか?機械は止まるものなんです。技術ってえものはそういうもんなんでございましょ? そんなことが分かりやがんねエ・・・てへッ!あ〜あ、室っさん、なんか旨ぇものが喰いてぇなぁハハハ!!」

これをプレハブの現場事務所の中で、身内だけになると大声でやるのである。ある時は、千鳥格子の三揃えのネクタイをぐっとゆるめ、ソフト帽をあみだにずらし、事務所の粗悪な椅子から尻をずらし、机に肘を置いて喋るのである。
又或る時は初老の物腰をジーンズの上下に包み、デニムの襟元からチラリと深いブルーのシャツをのぞかせたりして、丸椅子に掛け、壁にもたれながらパイプをくわえて語りかけてくるのだ。
おもしろいというべきか、痛快というべきか、粋なのである。色気があるのだ。おかげで年をとることが急に嬉しくなるのである。今ここにいなくても、想い出せば、たちまち生き生きと目の前に甦って来るような存在感。

私たちの現場は、業界の常識を完全に無視、逸脱したきわめて特異な状況下におかれていたのである。普通「建築」は建築会社が受注し、その会社が下請けを使って建設をするのが当たり前なのだが、私たちの現場はそうではなかった。
日本専売公社が、建物の箱だけを大成建設に発注し、中身の設備や展示物、その他の仕掛けを私たちのような広告代理店に発注しいたのだ。つまり、現場は2つの会社がそれぞれ主導権を握っている格好となっているのである。
しかし現実は、建築の方は文字通りのプロ集団。それに引き替え、私の会社は広告会社であり、一級建築士はたった一人いるのだが、そいつはライセンスを会社に預けて、建築とは関係のない「交通広告」なんかをやっている。言ってみればド素人の集団なのだ。これでは事実上現場の主導権はその建築会社にあるのは当然だった。そのおかげで、我々のやることはいちいちイチャモンをつけられ、後回しにされ、邪魔されたりもするのである。
「あのなア、あんたんとこ、あの一七〇人乗りの椅子を乗せた円形のリフト?あれ、そのまんま二階に油圧で上げるんとちゃう?」
「そうです。あれ、油圧のリフトでお客さんが二階へ上がっていくと、リクライニングして座ったまま天井から煙が降りてくる”煙のショー”が見られるんですよ。」
「そら、あかんワ!」
彼らは建築の専門家達だ、だから何も仕掛けに驚いているのではない。むしろ仕掛けは昔からある、どってこともない陳腐なものなのだ。それよりも、観客を一七〇人も乗せたまま、キノコ型のフロアーごと二階へリフトさせるなど、技術的にも経験がなく、安全上も問題がありすぎて、消防法にも建築基準法にも引っかかり、できるわけがないと思っているのだった。

そんなわけだから、現場に張り付けになった私たちは、荒海の木っ端のように翻弄され、来る日も来る日も現場では、「今日どうするか」「今をどうするか」という難問が矢継ぎ早に持ち上がって来ては、それを綱渡りのように凌いでいく毎日が続いていた。
そういう中で伊藤さんは、我々のような素人集団の、ヤクザな会社の下請けに回ったばかりに、しなくても良い苦労ばかりさせられていたのだが、請け元である我々に対しては一言の文句も言ったことはなかった。

しかし何しろ江戸っ子だからじっと我慢するなんてことはない。文句はいつも決まって施主である専売公社に対して言うのである。
「この年寄りに向かって、ヘルメットをかぶれだの、天井裏に入れだの・・・私しゃね、そんなこと言われたなあ、戦争以来はじめてだってんだ。しょーッ!」そんな伊藤さんが我々に向かって何かいうときは、私たちをまるで息子たちのように元気付け、笑わせて、どっちが元請け会社だか分からなほどに励ましを送ってくれるのだった。

「伊藤さん、万博の現場って女っ気がまったくありませんよね、考えてみれば。何処にも一人もいないんじゃないかなア」などと私が言うと、
「よーしタカシ、ヒメこうたる。大阪行ったら姫買うたるッ!」
落語でいえばさしずめ「明け烏」の‘源兵衛さんと太助さん’みたいな台詞だが、それは本当に私を連れて買いに行くというよりも、男所帯に有り勝ちな殺風景な雰囲気と、我々の憂さを吹き飛ばそうとしてくれている感じなのだ。
私はその云い方に参ってしまった。「何という粋なせりふなんだろう?」と妙に感心してしまい、いかにも殺風景な男世帯の現場に、何か底抜けに明るい心の通い合いを感じてしまう。

その頃私は、伊藤さんには奥さんとの間に二人の娘さんがいるのだが、それとは別に子供がいて、その子供を直ちに認知して育て、今でも可愛がっているという噂を聞いていた。私はそんな伊藤さんをいろいろと想像してみた。人でも例えば機械でも、「魅力」を感じたら一直線に突き進む。何も隠さず何も恐れない、そんな伊藤さんが匂い立ってくるようだった。
そしてそのことから生まれる結果に対しても怯まない。全て受け止めてみせるといった、一種男の色気を発散していることに私は気づいていたが、その時私は伊藤さんに対して何というのか「父親」のような感じを抱いていたのではなかったか。

私は父親とは五十五も年が離れていた。だから父のことを「おやじ!」と呼んで気軽にものを尋ねたり、一緒に酒を飲んだりすることもなかった。立派な人ではあったのだが、私にとっては身近な人という感覚が欠けていたのかも知れない。だから、私が結婚する時なども、今考えれば何かを聞いたり相談したりすることもなかったし、何かのコトバを投げかけて反応を見るということもしなかった。自分一人ですべてを決めていたのだった。

「伊藤の父さん」という呼び名を思い浮かべていたのは、伊藤さんが私にとって、外から自分の心の芯に「何か」を問いかけてきそうな唯一の先輩の男性だったことによるのかも知れない。その「伊藤の父さん」に女性観、いやそうではない、「男らしい生き方」みたいなことを、三十いくつにもなって聞いてみたいという気持ちが沸いていたのである。

その頃私は女房と別居中であり、三歳になった娘にも、今までろくに会ってやったこともなく、どうしたらよいのかを考えあぐねていたのだが、その頃の伊藤さんは誰かから私のそういう状況を既に聞き知っていたらしかった。私は別に自分を伊藤さんになぞらえていた訳ではなかったが、むしろ私は伊藤さんに叱られたかったのかも知れない。

女房や子供に対して、してはいけないこと、しなければならないことに自分自身の明解な答えが見つけられないまま、忙しさがそのことを忘れさせ、そのために問題が少しずつ深まっていくような繰り返しに逡巡していた時だった。しかし伊藤さんはそういう私に対して、私が恐るおそる期待していた「雷」を落とすようなことはしなかった。
「たかス〜、子供は今どうしているの?」
「落ち着いたら一度ここに呼んでみようかと・・・」
「ああ、そうなさいな。私しゃね、好きになってつくった子供でございましょ?女房なんざ、あんなもんはどーでもよござんすよ。うっちゃっといたって。でも子供は可愛いでしょ? 子供は可愛い! 会ってやんなさいよ。」
私はそのとき心の中で、「おやじ!」と感じていたのではなかったか。伊藤さんを私に引き合わせてくれた何物かに対して、手を合わせるような気持ちが沸き上がっていた。

伊藤さんは大阪にいるときは、梅田の駅前の旅館にいつも逗留して、万博のある吹田の現場に通っていたのだが、気がつくといつも一人のアシスタントの青年を連れていた。伊藤さんはその青年を我々に紹介することはなかったが、その若者は物腰が穏やかで、礼儀正しいが殆ど目立たない青年だった。
その青年が現場にやって来るようになっても、一月くらいの間、私は彼の存在をぼんやりとしか意識していなかったはずである。ある朝のこと、その青年はめずらしく一人で現場に現れた。
「伊藤は今日ちょっと用があって、午後から参ります。」と挨拶した。私はそれを聞いて一瞬、おやっ!と思った。あれ、彼はもしかして・・伊藤さんの息子さんではないのか?!
伊藤さんには娘さんが二人いるとだけは聞いていたのだが、それがいま・・・
オフフォーカスでぼんやりと動いていた映像が、フォーカスリングを、力強くぐいと捻ったように、突然クリアーな「画」が迫ってきたみたいだった。そのとき私は心のどこかで、何といたらいいのだろう、一種心地よい衝撃を味わっていたのである。

そのときを境に、今まで薄ぼんやりとしていた青年の輪郭が、私の心にクッキリとその姿を現したのだ。世間に対して決して表舞台にまかり出ることのない父親と息子の関係。その二人を同時に眺める時間が、私には何か特別なシーンに立ち会ってでもいるように、目眩と感動の中に流れていった。

万博建設のいつ果てるとも知れない戦いの時間は、やがて終盤を迎えるようになって行ったが、その頃から伊藤さんが東京から現場にやって来る日数も次第に少なくなって行ったように思う。そして遂に、
「今度は試運転でお伺いいたしやすが、これで私はお終いになると思います。」そんな電話があった。そして、
「室っさんは、まだあのバカヤローたちと付き合わなきゃなんないんすか?
大変でございますね。ウッシッシー!」そんなことを言ってきたのだ。
「チキショー!おやじはもう金輪際、万博なんて仕事はご免こうむりますと、啖呵を切っているんだ!」「おやじは何て清々しい啖呵が切れるんだ!羨ましいじゃないか。俺たちはこれが済んだら、今度は会期中のパビリオン運営で、あと六ヶ月も張り付けになるんだぜ!」私は心の中でそう叫んでいた。

それから一ヶ月後、伊藤さんから電話があった。
「室っさん、わたしゃあの会社やめてやりましたよ。社長のバカヤロー、泡くったって知っちゃいませんがね。」
「えッ?それでどうするんですか? しばらくお休みってところですか?」
「まあ、食べるくらい何とかなりましょう?あなたも早く帰っておいでなさいよオ!」そう話す電話の向こうの伊藤さんの声は、弾んでいるようでもあり、また、寂しそうにも響いてきた。

齢六十にもなれば、会社勤めをするのも容易なことではないし、そうかと言って一日中アパートでひとりぼっち。何でも好きにしていれば、といっても何か所在なさや寂しさが漂う。考えてみれば伊藤さんもそういう年齢域に入っていることにはなるのだ。私はそう考えていると、無性に伊藤のお父さんに会いたくなった。氏のアパートに「清水のきんつば」でもぶら下げていって、渋茶を啜りながらくだらないことどもを喋りたかった。

こんな大阪の殺風景な僻地で、ガチャガチャしたおもちゃ箱みたいな万博にいたって、何にもなりゃあしない。みーんな忙しそうに「仕事、仕事」「商売、商売」ってやっているけどそれがどうした、くそ喰らえだ。今までただしゃにむに「やらなければ」の一心で頑張ってきたこの現場仕事に、突然全く違った風が流れ込んできたような感じだった。

一人の老人が音響技術の、それも天下一品、珠玉の技術を持って馳せ参じたって、そういう人を放りっぱなしにして、利用するところだけ利用し、あとはポイッと捨ててしまう。
万博という大きな流れが、何時の頃からか鉄砲水のように押し寄せ、ぶつかり合って、何やら金ぴかの巨大なパビリオン群を林立させて去っていく。万博が始まって百八十三日後には、そのすべてを又ぶち壊して、殺風景な地面を残していってしまうんだ。

伊藤さんからの電話を切ったままの姿勢で、私はぼんやりとそんな想念をかき回し続けていた。すると私の耳にいつの間にかこの万博現場でガチャガチャに混ざり合い、いま巨大な唸りとなって立ちのぼる工事の大音響が、一瞬シーンと静まりかえったように感じられた。

私はのろのろと現場事務所を出て、専売公社館{虹の塔」に架けられた足場の階段をゆっくりと登り始めた。七〇メートルの頂上の塔屋に着くと、吸い差しのタバコを消し、「太陽の塔」のあるメイン会場の巨大な大屋根を眺めた。
人類の進歩と調和・・・か。東京では、もう桜が咲き始めているだろう。