保守と革新


私が高校生を卒業した年だったか、第五次吉田内閣が総辞職して選挙が行われたときに、父親が保守政党に投票したのを知ってショックだったことを憶えている。


当時は高校生に限らず大方の学生といえば社会党支持が圧倒的で、自由党から自民党となる保守党を支持する学生など殆どいなかった時代だったから、支持政党が示す父親の思想が信じられなかったのだろうと思う。


政治信条がその人のアイデンティティーの中心であり得た当時は、政党の示す主張の中に自分との一致点を見つけることがまだ出来た時代だったような気がする。


そんな風に保守か革新かで対立軸が明確だった時代はもうとっくに終わり、現在は各政党の主張する政治の内容はどれも大して変わらない。つまりもはやどの政党も独自のアイデンティティーを持ち得ていないということだ。


だから今の政党間の議論を見ていると、あれは政治の議論ではなくてほとんどが心情論で持ち時間を使い果たしているとしか思われない。


そんなことを考えている内にふと思いついたことがある。自分が七十代という年令域になって、現在の自分は保守か核心か?と単純に問いただしてみると、自分の過去に関しては全て保守的なのだ。

自分の過去はもう事実として動かないからそれを保守する意外にはないのだろう。


自分の過去を「革新」するということは、過去をいちど全否定することだから、生きている限りそれは不可能に近い。


これがむかし私が自分の父親に感じた「疑問」の答えだとすれば、年をとって来ると保守的にならざるを得ないとも言えるが、今の自分に振り返って考えると、もし自分が現在を革新的に生きようとするならば未来に目を向けるしかないことになる。


さ〜て、と。

自分に残された時間はどう見たって有限にしか見えない年令域に入って来ると、未来は益々見つめにくいけれども、それでも何とか現在を常に洗い直し、新しく目標を立て直して行かなければならないのかしらん、て思うわけね。


すべてに保守的になっちゃったら、その人の人生は終わっているってことだからね。