英会話スクール「ジオス」の破綻

平成二十二年四月二十二日

 英会話スクールの大手「ジオス」(東京都)が破産申告をした。ニュースの記事を見ると「NOVA」の破産が受講者離れに繋がり、経営を圧迫したと報告されている。

このような英会話スクールは、主として大学受験と海外留学のための「英会話スクール」として受講生を集め急激に肥大化していったが、その経営体質の脆弱さがこのような破綻を招いたと報告されている。

一年分の受講料を先取りするという方式が当たり前というやり方も、昔の「月謝」方式とはだいぶ違うが、この状況を見ていると受講生側はこういった「英会話スクール」を「学校」と捉えているのに対して、学校側はあくまでも「企業」(ビジネス)として考えていることがこういう場面では顕在化する。

しかしこういう事態が頻繁に起こるということは、何か日本の教育のあり方が非常に脆弱な感じがしてくるのは私だけではないだろう。

このところ大流行してきた「英会話スクール」もその根本に流れるものは「学舎(まなびや)」には違いないので学校と思われがちだが、「英会話スクール」は利潤を第一に運営されるサービス産業の一業種として経済産業省が所管しているのだ。

学校を法律論で語るつもりはないけれども、法律は「学校」や「英会話スクール」のあるべき姿を規定するガイドラインでもあるのだが、この「学び舎」の解釈を変え、「企業」と規定し、そこの二種類の「学校?]の存在を矛盾としない日本の社会に、疑問や意見を持たない方が普通ではないのだ。

歴史的には「学習塾」を「学校」として認知するよう「臨時教育審議会」から答申が出されたこともあったがそれは無視された(1984年・中曽根内閣のとき)。

なぜこういうことになったかは複雑な経緯があるにせよ、物事を真正面から取り上げようとしなかった日本人の体質にその原因はある、と私は考えている。

「英会話スクール」が全てそうではなにせよ、大手で立派な企業を目指している「英会話スクール」は即ち大きな利益を求める故に、利益の確保に支障のある法の規制はなるべく受けたくないという意志が働く。

一方、学校側も家庭の側も、良い学校に入り優良な企業などに子供を入れたい、入りたいという方向に教育の目的が走りやすい現在の状況(傾向)がある。

これは人間の一つの弱点であり、楽な方向を目指し勝ちな心が行き着いた一つの間違った到達点だ。

そしてまた、特に英語などの外国語の習得には「反復練習」という面倒な手続きがどうしても必要で、それにいちばん時間もかかるのだが、それを学校側も家庭側も誰か別のところに押しつけたくなるという弱点が、教育の「本題」を、或る楽だが間違った方向に導いてしまう。これが実は、利益第一の「英会話スクール」の要求に見事に合致する。

要約してしまえば、学校も英会話スクールも一般には同じように見えてしまうというのは一つの矛盾なのだが、だれもこの矛盾を是正しようとしない、日本の社会のあり方に問題があると私は言いたいのだ。

今回の報道の中にはこんなものもあった。

「先月、一年分の授業料を納めたばかりですが、まだ一度も授業は受けていません。だから授業料を返して貰いたい。」

「大学の受講科目を、塾のスケジュールを優先して組んであるので、塾がなくなってしまうと、今年一年の計画が狂ってしまい、時間が大幅に無駄になってしまいます。」

このような受講生たちの声を聞くとまことに気の毒であり、こちらも暗い気持ちになってしまうが、この破綻騒動で塾の側を糾弾しても最終的には「経営の仕方が是であったか、非であったか」の判定しか下されないだろう。後は支払った金銭を返還する、しないの議論・手続きしか残されてはいない。

もしそうであるならば、受けた損害(金銭的なものばかりでない)の責任は、結果的に受講生側の自己責任ということになってしまう。

こんなことで良いはずはない。

企業も社会の構成要素の一つではあるが、企業の理念の中心にある「利益の再生産」を教育の場に持ち込むという、この日本の社会のあり方は明らかにおかしい。

人々がこのことにもう少しまともな目を向けないで逃げてばかりいると、「利益の追求」という思想が、知らない間に社会や人間のあり方の中心になってしまい、利益を度外視してでも成し遂げなければならない、重要な社会の活動が軽視される世の中が出来上がってしまう。

たかが一企業の破綻の話ではあるけれども、このことはやはり我々にとって逃げてはならない重要な問題を提起していると私は思う。

私は広告の畑で働いていた経験から思うのだが、企業は自分の利益になることに関しては、あらゆる美しい言語やイメージを使って、利益の対象となる人間を誘う。

それは企業の「必然」であり「善」であるから仕方がないことなのであるが、ここでも我々はもっと冷静に自分の本来の目的と、企業の呼びかけに目を向けなければならないが、それ以前に教育を提供する組織のあり方に対して、もっと厳しい目を向けないと、我々は「教育地獄」から始まり「地獄社会」に住むことになると私は思うのである。