「ダメな先生は辞めていただく」

2006年11月3日

「ダメな先生は辞めていただく」これは安倍晋三さんが自民党総裁選に向けて書いたとされる「美しい日本」という本の中にある見出しの一つだ。これが奇しくも今回の「世界史の単位」問題で再び表面化して話題になっている。安倍晋三という人が総理になったら実行しようと考えていた方針の一つだが、政治家が実行しようとする施策にこういう抽象的なタイトルを付けたがるのは気になるひとつだ。

最近テレビの討論番組を見ていると、テーマそのものが抽象的なために、概念の違う議論とも云えない論点を、ただワアワア口角泡を飛ばしているばかりで、ただ時間が来ると「ハイ、おしまい。」というのをよく見かける。これもテーマがどれほど具体的なのかの問題だ。「ダメな先生」、これはどういう先生のことだろう?こういう、どうにでも解釈できるコトバを使われるとちょっと恐ろしい。そこにもってきて「辞めていただく」とはまことに高圧的で、いかにも与党・自民党の政治家が云いそうな態度だ。

これは歴史上にかつて存在した「赤狩り」と極似しているように見える。「あいつは共産主義者だ」という疑いを掛けられると「アカ」というレッテルを貼られて社会から追放されるという、これは思考回路が大雑把で気が小さい人間が権力を持つと、別に独裁国家に限らず民主主義といわれる國でもその國全体が狂ってくると云う、記憶されるべき社会現象だったと私は思っている。共産主義者にもいい人と悪い人がいる、というのではなくて「共産主義者イコール悪」という極めて大雑把な捉え方で決めつけ、決めつけられたら最後、社会から追放されるという恐ろしい時代が存在した。これはアメリカのマッカシーという人物が指揮したので「マッカーシー旋風」といって恐れられたものだが、もうこれは時代の彼方に忘れ去られている。

こんな話を引き合いに出したのはちょっと極端な気もするが、よく考えてみて下さい、この両者はその「構造」に於いて酷似している、いや、同じなのであります。「文部科学省の云うことを聞かない先生でも、良い先生と悪い先生がいる」というのはいちいち面倒くさい。教育委員会や文部科学省、文部大臣や総理大臣といった頂点に立つ目線からだけ見て、云うことを聞かない奴は「ダメ先生」だというレッテルを貼って「辞めていただく」と来れば、こりゃもうマッカーシーと同じくらい「超タカ派」の考え方だ。優しいマスクで、ちょっとドモリ気味ではありますが、よくも「ダメな先生は辞めていただく」などと高圧的に云えたものだと思う。

昔或る友人からこんな話を聞いたことがある。彼の小学校の先生がクラス全員に実習の課題を出したというのだ。最初の課題は「クラス全員で サツマイモを植えろ」というものだった。次の課題はバザーの時にクラス全員に売店で何かを売らせることだったり、そのあと「鶏小屋を作れ」だったり、「大きな紙に全員で日本史の年表を書き写す」ことだったりしたそうだが、彼は年表書きは得意だったけれどあとはダメだったという。けれども農家の子どもは「サツマイモ」のところで得意の腕を発揮し、商店の子どもは「バザー」で腕を発揮したということだった。これはその先生が生徒に「何か自分の得意分野がある」ことを教える素晴らしい知恵だった、と彼は評価していたが、私もそれには全く同感だったのを憶えている。

「ダメ先生」は確かにいます。私もこの言葉を不用意によく使ったりするのですが、そんな私に、この友人の話は「良い先生」という漠然とした概念に、みごと明確に具体的なイメージを与えてくれ、それと同時に、ものごとには「具体的なイメージ」を持つことが如何に大切かをはっきりと教えてくれた。

こういう視点から見ると、「世界史の勉強なんか捨てちゃえ」だの「受験勉強を重視しろ」という今の教育のあり方そのものが、この友人が育った時代の教育からは、明らかに退化していると云えないだろうか? 「ダメな先生」に「辞めていただく」教育委員や文部科学省の担当官や文部科学大臣。その教育委員や行政の担当官、それに文部科学大臣や総理大臣には「ダメな」人物はいないと決めてかかってはいないだろうか?

物事は順にいっているもので、「ダメな先生」がいるっていうことは、それにリンクしてる学校も、教育委員会も、監督官庁も、その責任者である大臣も総理も、すべてが「ダメ化」しているっていうことじゃないだろうか?