「世界史の単位」

2006年10月28日

高校の世界史の授業の「必須科目漏れ」が問題になってニュースがかまびすしい。要するに大学受験の要望がやたらに強まっている情勢におもねて、学校側が文部省の指導要領を曲げて「世界史の授業をやめちゃった。」ということだ。

そしてその傾向が全国の高校に広がっていることが次第に分かってきた。先ずは「朝日新聞」。
私のところは長野県なので「12版」だが、26日、(27日)、28日と一面のトップで「必修漏れ高校」の数と、その数の都道府県への広がりを報じている。そして、「今や特色ある高校作りのため「必須科目」は全体の4割になり、その4割も受験競争の犠牲になっている。」そういう論調だ。そして不正が広がっている県の数と学校数がヘッドラインに踊り、こういった傾向を是認している校長の責任を問い、「わずかに4割になった必須科目を守れ!」という単位論で記事は埋められている。こういう論評の仕方はテレビもラジオも右へ倣えしたように同じで、「この必須科目の単位をどうして取り戻すのか」という論調になっていて、「まったく学生たちにとっては迷惑な話だ」とまでいっている。

私は「ニュース」がこの問題を取り上げた迄は良いと思っている。問題は取り上げかただ。しかしここが日本のジャーナリズムの一番ダメなところなのだが、どのニュースや評論を見ても「この単位をどうするのだ」という単位論だけが騒がれていはしないか?
テレビもまあ、「ニュース・バラエティー」ぐらいまでならともかくとしても、ニュース解説ももちろん、特集番組や、新聞の一面の取り上げ方は、あれはいったい何なんだ!と云いたい。

忘れちゃいけませんよ! ここで一番大切なのは「世界史」という教科の重要性でなければならない。可哀想に「世界史」という知識の重要性はすっかり忘れ去られた様相で、国民の意識を何処へ向けさせたら良いかという、ジャーナリズムの最も重要な視点が欠けていはしませんか? と私は言いたい。

そもそも日本の高校の教科書とその授業の内容を見ると、お寒いほどに必要最小限のことしか教えてはいないという気がするのです。高校で習った「世界史」の知識を引っさげて私は外国でも暮らしてみたけれど、私の世界史の知識は(これは高校以外では習っていないが)留学生仲間と話しているような場面では、まことに「お寒い」思いをせざるを得なかった記憶がはっきりとある。
いえ、云われなくても解っていますよ、私の情けないほどの記憶力の悪さ。でも、それを考慮に入れたとしても、外国人と面と向かったような場合、その人の国の歴史についてはまことにお寒い知識しか持っていないのが、日本人全般の傾向ではないかと私は思っているのです。

我々の高校の教科書の薄さ、まあ2センチ以上の厚みのある教科書は見たことはありませんが、これは何を物語っているかといえば、高校生活で身に付けて欲しい知識の「最低限度」を物語っているのではないかと思うのです。
大学の受験は、ま、何とか受かって大学も無事に卒業した私だったが、外国に行ってみたらば「世界史の知識」では、やはりお粗末だったという現実があるのです。

「国際化」だなんて簡単に云うけれども、世界に出ていって並み居る外国人と力比べをしなければならないような時に、相手をどれほど知っているかということが問われてくるのです。そういう視点に立てば高校時代に「世界史」を知っておくということの重大性が解るはずです。

それを、何だと云うのだ。やれ「今から補習で間に合うか?」だの「補習には最低何時間必要だ」だの、「今ごろになって補習とは迷惑だ、受験生に気の毒だ!」こんなことを論じて何になると云うのでしょうか?

この問題の中心にあるべきものは、単位が足りないから卒業できないとう論点ではなくて、「世界史を知らない日本人を世に送り出しても良いのか!」でなければならない、というのが私の結論です。だから総理大臣や文部大臣、それに教育委員長や学校長に簡単な「世界史」の問題を解答してもらい、それを公表して日本人の「世界史認識度」を世に問うた方が、まだしも問題点を浮き彫りにできはしないかと思うのです。皆さんはいかがでしょうか?

敢えて私は云いたい。「もうこれ以上私のような「世界史音痴」をつくらないで欲しい。それが将来の日本の為なのだ、と。