「中越沖地震」

                             平成十九年七月二十日
 「中越沖地震」が発生して各メディアが一斉に報道を開始し、日本ではほとんどの人がニュースはもちろんだが、小倉智昭、草野仁、みの・もんた、そして古舘伊知郎などのホストを通じて報道の詳細を知ることになるのだ。 私もそういった日本人の一人だが、やはり私も被災地の人の「生き死に」にどうしても関心が向かう。そして報道が個々のケースに踏み込んで行くに従って、その実態が次第に明らかとなって、被災者の人たちの心情に自分の思いが寄っていくのを感じる。

 しかし今回の地震では、私の深いところに沸いた心配が「東京電力柏崎刈羽原発」の被害状況だった。心配というのは当たっていない。心配ではなくて一種背筋の凍るような思いが静かに襲ってくるのだ。

「原発は大丈夫だろうか?」「大丈夫のはずはない!」そういう思いだ。私は物理学の専門家でもないし建築の専門家でもないが、自然災害に対する防御策に関して、私は人間の知恵が自然の力を上回っているとは考えていない。こういう事柄を考えるに当たって、人間は確固たる哲学を身につけている必要があると考えているのだ。それは自然に対する畏敬の念を人はどれだけ持ちうるだろうか?ということだ。

 人々の生活に電力は欠かせない資源となり、その獲得のためには原子力の利用も視野に入れなければならない。そしてその安全性の為には、万全には万全の備えを持たなければならないが、人間には「欲」があるのだ。

その「欲」は例えば電力会社について云えば、なるべく費用を少なくして利益を上げなければならないという経済の至上原理がある。安全性の為に無限に経費はかけられない。この経済の指向する原理の根底には企業としての要求、つまり人間の「欲」が常に存在する。
この場合、人間が原子力の有する危険を回避するために、どれだけ人間の叡知によってひとは「欲」を抑制することができるかが重要な鍵となるのではないだろうか。「分かるけれども、安全対策上そんな経費はかけられない」とする経済原理(企業側の言い分)に対して、どこまで安全対策を万全なものにできるか。

 もう一つ問題がある。それは自然の驚異や自然の力に対して、どれだけ日本人は謙虚に「畏敬の念」を持ちうるか、という人間の哲学上の領域の問題がある。電力という利便性を獲得するためには「ここまでの対策はするが、そこから先に更に大きな自然の驚異が発生することは、今のところ考えにくい」。こういう意見を持ついわゆる専門家たちに、学問或いは自然そのものに対する基本的な哲学があるかどうかはきわめて重要な問題だ。

 原発建設に関する基礎研究に何十人の専門家が招集されようとも、それが原子物理学・地質学・気象学・海洋学・建築学・医学の権威者であっても、一人一人の専門家の根底にある人間としての哲学がどのようなものであるかが重要なのだ。学問よりも金銭に関心があるような研究者は論外としても、だ。

 さて、話を「中越沖地震」に戻そう。「中越沖地震」の報道が電波に乗り始めてしばらくは「東京電力柏崎刈羽原発」の状況は「不明」ということだった。私はチャンネルをあちこち回してみたが、結果はどの局でも原発の被害状況は「不明」だったのだ。この原因は明白で、東京電力が「状況を調査中」という理由で、発表を遅れに遅らせたのだ(この遅れに関しては、後ほど総理官邸から異例の「発表の遅れは問題である。」というの指摘がなされたのだが)。日本人は人が死のうかという状況の時に、その人がどれほど死にそうなのか、その死にそうになった原因はどの辺りから始まっているのか、その原因となるものの名前は何というのか。そういうことに時間をたっぷりとかけるのだ。日本人は責任の所在をできるだけ人間以外のものに、できるだけ抽象的なものに、そして責任が人間にある場合には、できるだけ複数の人間に、その責任を転嫁する才能が身に付いてしまっているのだ。自力の消防能力がありもしないのに「大変だぞ!どうする?」に時間をかけて消防への出動要請を遅らせる。
全体状況の把握能力と時間感覚の欠如。もしくは現場責任者の「対策実施権」が与えられていないことによる、上層部への連絡と、その連絡システムのお粗末から来るいたずらな時間浪費。(これには大勢の一般市民の命が懸かっているにも拘わらず、だ。)われわれの常識を超える、理解しえないこうしたことが本当に起こるのだ。
 
 そして翌日になって初めて「東京電力柏崎刈羽原発」の、建物内部ではない敷地内の建物の外側や庭がテレビに映し出された。これも日本にしかない「報道陣を平気でシャットアウト」する、非民主性の現れだ。先にも述べたように私はこのような原子力発電に関してはずぶの素人だが、敷地内の芝生がいたるところで巨大なモグラが走ったように盛り上がり、コンクリートの各所にひび割れが発生しているのをを見て、「これは本当にヤバイ」と直感した。ヤバイとは大変下品なコトバだが、この場合はむしろ良く当てはまる。

 そして夜になって東京電力の記者会見だ。これこそ誰の目から見ても「ヤバイ・ヤバイ、隠せ隠せ」の大合唱の様相だったのだ。だが「そうではないだろう!」と私は云いたい。東京電力はこの場合率先して、ということは聞かれる前々にどんなに小さな情報も、自分から先に発表しなければない。そうじゃないのか!

 本当の情報を開示すれば東京電力は責めに攻められ、操業停止あるいわ操業廃止に追い込まれれるか、莫大な費用をかけた改修を約束させられる。それでは会社の儲けが吹っ飛んでしまう。そしてその責任は取締役など上層部の責任問題に発展しかねない。だからヤバイのではないのか?

 電力・鉄道などは、企業でありながら公共性が高いからして、一般企業には一寸考えられないほど、税制面などでも優遇処置がとられているのだ。

 さて、この件すなわち原子力発電に関する、私にはもう一つ重要な論点がある。それは原子力利用そのものに関してだ。人類が最初に原子力を利用したのは、云わずと知れた広島・長崎に投下された原子爆弾だったのだ。これは我が日本国に投下されたのだが、今の日本人の原子爆弾に対する評価を、はからずも露呈したのが先日の久間防衛大臣の解任劇だったのだ。「落とされてしまったこの事実はしょうがない」だ。しかし現在の日本人はこの大臣を罷免する権利が本当にあるのか。あるとすればそれは今なお被爆に苦しんでいる人たちだけではないのか。

 私はこの件、すなわち今の日本人の原爆に関する意識について、もう一つ重大な告発をしなければならない。それは現在の日本に蔓延している、ということは常識化している「原爆の最大の罪は、その大量殺戮性にある」という誤った認識だ。しかし本当はそうではなくて、原爆の最大の罪は「一人の人間から、一瞬にして人間の尊厳を奪い取ってしまうほどの、それほどの悲惨さを人間の体にもたらす。いわば神の領域を犯ほどの凶悪性をこの爆弾が持っている!」というのが正しい。これが核兵器の第一級の罪悪性だ。大量殺戮能力はその次ぎに位する。

 広島・長崎では、原爆を落としてから僅か一ヶ月そこそこで米軍が進駐してきたのだ。そして彼らが真っ先に広島・長崎で行ったことは、徹底的にその悲惨さを証明する写真やらすべてのものを捨てさせたわけだ。そして実験台にされた人間(放射能の被爆により苦しみもだえている人間)の肉体の徹底的な調査・研究だ。それから残留放射能の地域に及ぼす影響の調査。

 アメリカという国家が犯した罪を数え上げたらきりがないが、その最大のものは、私に言わせればそれはベトナム戦争でもイラク戦争でもない、原子爆弾を日本に投下し、しかもその人間に及ぼす影響の悲惨さを「タブー」としたことなのだ。ここにも「ヤバイ」という人間の根底に或る弱さが存在する。

 私は中学生の時に静岡で「巡回展」としてやってきた「広島の原爆展」というものを見た。もう殆どの具体的な記憶は残っていないが、その展覧会には写真というものが殆どなかったと記憶する。そして私の心に今でも焼き付いて離れないのが、一般の人が描いた数多くの「絵」だった。そしてそれに添えられた説明だったのだ。絵の下に説明文があったのか、誰か人が話して説明したのか、そこのところの記憶はぼやけているが、いずれにせよ、その「絵」と説明で言い知れない不気味さが私の心に突き刺さったのだった。そしてその部分は今でも鮮明に残っている。
広島の爆心地付近で死んだ人は、殆ど死骸のような「物質」を何も残さない、蒸発したような「蒸発痕」のようなもの。コンクリートの壁に印画紙のように陰として焼き付いている人の形。そしてその陰を作った人間は蒸発したように跡形もなくなっている。そしてそこに、かろうじて生きている人間の、肉体的悲惨さは目を覆うばかりであり、人間の皮膚という皮膚がぜんぶズルムケとなり、顔は顔としての原形を完全に破壊され、人間としての形と尊厳を全的に奪われている。人間はみな生きて動いている化け物のように体中の皮膚を失い漂いながら、コトバにならない小さな声を発している。そういう情景がその展覧会にはあちこちに見られたのだった。私にはその時の印象を、ここでこうして書けるほに脳裏に刻まれていることになる。

 アメリカは今でも自国内では「原爆展」の開催を許可していないという。アメリカは国家としては原爆のほんとうの悲惨さを認識しているからこそ、それを自国民に伝えられないでいるとしか考えられない。

 日本では1999年、小渕内閣の時に東海村のJCOでいわゆる「メルトダウン」の事故が発生したが、あなたはあの時に被爆した三人の日本人の姿を何かで見ただろうか。
この模様の一部を写真で伝えたのは週刊現代だったか、グラビアのモノクロページに数点を掲載して顰蹙を買ったが、その他の報道各紙誌は申し合わせでもした如く、被爆者の実態を報道せずに隠ぺいし、何も具体的な報道をしなかったのだ。この隠ぺい体質は全メディア、全国民にまで今や行き渡っているからして、「放射線被爆による人間の体が如何なる状況になるのか(原子爆弾による被爆は、とうていこの事故の比ではない)。その被害たるや、人間の尊厳を完全に奪い取るほどにむごたらしいものである。」という明白な事実から、完全に日本人の目を逸らしてしまっている。

 その東海村で発生したメルトダウン事故で、三人の被爆者のうち二名が死亡。駆けつけた消防士も二次被害として中性子を被爆している。東京大学付属病院に搬送された三人(うち二名は搬送先の病院で長い間苦しんだ末に死亡)には十数名の医師と看護師が付きっきりで、医師も生命を維持するあらゆる方途を断たれ、それでも看護婦たちは輸血や透析、そして皮膚の脱落が全身に広がるのを防止する方法もなく、仕方なく全身から滲み出る体液を、ガーゼでただぬぐう以外に手の施しようがなかったのだ。この様子は現在でもインターネットで「東海村JCO事故被爆者、大内氏の闘病情報」という東京大学付属病院の報告書で辿ることができる。そして主たる被爆者三名のうち一名は被爆から83日後に、もう一名は211日後に、ほとんどなす術もなく死亡した。

 長々と書いたが、日本人はもっと放射性物質を扱う原子力発電と、その放射性物質の取り扱いにソゴが生じたときに如何なる力が人間に及ぶかということを知る必要がある。そして日本人が求める「豊かさ」のために何をどう使ったら良いのか、何を使ってはならないのかを、今まで日本人は考えなさ過ぎたのだ。

 東海村の臨界事故の時に、東京にあるアメリカン・スクールは休校となり、特に東京在住のドイツ人は大使館からの指示ですべての外出をひかえたという。世界唯一の被爆国の日本人が、あろうことかウラン溶液をステンレスのバケツに入れてそれを素手で扱い、被爆国でも何でもないドイツ人が「臨界」の恐ろしさを熟知して東海村とは100キロ以上も離れた東京で自宅待機を徹底する。この逆転現象を日本人はもっと真剣に問い直す必要がありはしないか? もちろんこの事故に対する対応のちぐはぐさを批判するものもいる。しかし、情報が隠ぺいされず素早く報道されたからと云っても、日本人の核に対する認識の低さは最悪の事態を回避する力を持たない。

 アメリカのスリーマイル島原発の事故、ロシアのチェルノブイリ原発の事故。そういうのもを見ている欧米の国々は、原子力発電の在り方そのものを再検討し始めている。電力の需要の伸びを考えれば原子力に勝るものは現在は見えていない。それでも方向として原子力発電の廃止に動き出している国々がある。

 ま、私の本当の気持ちを言ってしまえば「このままでは、日本にはいずれ必ず原子力利用で取り返しのつかない大規模な事故が発生する」ということだ。日本の電力会社や政府や行政にまで見られる、国民をなめきった隠ぺい体質、この目に見える日本人の愚かさは、もうどうしようもないところまで来ているのか?「バカは死ななきゃ直らない」のか「バカは死んでも直らない」のか?

 大勢の人が死んでからやっと「じゃあ、そろそろ太陽光発電にでも切り替えるか?」。「死んだ方々には誠にお気の毒だったが、太陽光発電に切り替えて良かったね。」とでもいうのだろうか。