日本民主法律家協会発行「法と民主主義」2009年5月号

特集 平和的生存権 その深化を問う

 

生存権と太くつながっている  毛 利 正 道 (弁護士)

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原告としての受けとめ

 

隔世の感 イラク訴訟3判決の前後

 全国5800名の原告と800名の弁護士による一連のイラク派兵差止訴訟で、2007年3月から2009年2月にかけてのわずか2年間に、平和的生存権の法的権利性=裁判規範性を認める3つの地裁高裁判決が出た。3つめの判決では、国がこれを否定する判例として挙げてきた百里基地上告審判決について、この論点での先例としての価値がないとまで断じた。まさに平和的生存権が憲法上の権利である、との見解が公認されたとの実感である。私が、2004年に山梨訴訟の代理人になったときにも、2005年に名古屋訴訟の原告になったときにも、「平和的生存権は理念にすぎない」との分厚い壁が頭を支配していた。まさに隔世の感! イラク派兵を違憲と断じた高裁判決とともに、イラク訴訟の大きな成果である。

 

非戦を守るための二重の権利

 平和的生存権に裁判規範性があるということは、憲法が非戦を貫くために二重のしばりをかけたことを意味する。政府に対し9条によって非戦を貫くことを求めるとともに、かりに政府が9条を破るときには国民が平和的生存権を駆使して国が戦争の方向に進むことを阻止するであろう、政府はそのことを覚悟せよと日本国憲法が定めたのである。これは、国民から見ると、非戦を貫くために憲法によって二重の権利を付与されたことになる。政府が戦争の方向に行くことを、政府を変え或いは政策を変えさせるための選挙運動と日常の平和運動によって阻む権利と、裁判を提起遂行することによって阻む権利である(前者は、有権者としての権利行使であるとともに、平和的生存権を社会運動に生かす場面でもある)。

これまでは、憲法によって平和が守られているという受け身的感覚もあったが、そうではなく平和は国民が戦ってこそ守られる、そのための「武器」を憲法が国民に与えたのだ。7,000を超える9条の会が次々に立ち上がる場面を背にしつつ、全国全都道府県の6,600名を超える原告・弁護団が戦い抜くなかで、少なくない国民が国民はこの二重の権利を持っているのだということを実感するに至った。あの名古屋高裁の3名の裁判官も、自らの平和的生存権を行使することによってイラク派兵を違憲と断じたのだ。

 

早い時点で権利行使できるか

名古屋高裁判決は、平和的生存権を「局面に応じて自由権的、社会権的または参政権的な態様をもって表れる複合的な権利」であって、「戦争の準備行為等」によって個人の生命・自由が侵害の危機や恐怖にさらされる場合にも提訴できる、とする。権利をこの3種に分類する手法は、深瀬忠一教授が、戦時という極限状況に至らない「日常的状況における保護」として掲げる詳細な分類と同一でもある。さらに判決は「現時点において、控訴人の具体的権利としての平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」とする。これは、例えばイラクで派遣自衛官が相当数殺害されるなどの事態が起きたときには、単なる一国民でしかない原告の請求を裁判所が認容することもあり得ると読める。

このように見ると、名古屋高裁判決は、多くの国民にとって戦争がかなり遠くにあるように見える時期であっても、戦争に向かうことを阻むために平和的生存権を駆使して提訴できると判示していると読める。平和的生存権を活用して社会運動を大いに発展させることができることは、より当然である。戦争への道を断ち切らせるうえで重要な判示である。

 

生存権とのつながり

 

「いのちを守る権利」としての共通項

 憲法前文は、全世界の国民が「安全と生存を保持」することを大目標に掲げ、そのために「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」した。そして、13条で個人の尊厳に続き「生命に対する国民の権利」を定め、9条の他に、25条において政府に対して施策を要求できる権利としての生存権を規定し、さらに11条・12条・97条・98条などによって繰り返しこの諸権利の不可侵性を謳い決してこれを失うことがないように国民の不断の努力を求めている。この規定を素直に読めば、憲法は、戦争によっていのちが奪われることを禁止しているだけでなく、戦争でない状況においても国民が理不尽にいのちが奪われることを禁止している、と読める。

 その点では、私は、国民の力で、一切の戦争を禁止する憲法を64年間保持し続けたことによって、「いついかなるときにも人の命を奪ってはならない」との国民意識を定着させ、そのことがここ日本で「犯罪による死者」を戦争直後から現在までの間に3分の一から4分の一にまで激減させる力になったと評価している。しかし、他方で、歴代政権の弱肉強食格差貧困孤立分断「自己責任」社会助長政策により、10年間で30万人を超える自殺者を生むに至った。これは、イラク戦争による死者と並ぶ規模であり、まさに戦争状態ともいえる。その点では、日本国民はいまだ13条・25条などの憲法の諸規定を生かし切っていない。日本が戦争に向かうことを阻むとともに、日常の戦争状態を解消するためにも、「恐怖と欠乏から免れて、平和のうちに生きる権利」を生かす戦いに立ち上がるときである。

 

生存権にとっての平和的生存権の価値

1 戦争になれば、生命を守る権利が直接奪われる。海外であれば自衛隊員とその外国住民のいのちが、日本国近辺であれば日本や周囲の国々の人びとのいのちが。まさに「現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤無しには存立し得ない」(名古屋高裁判決)ことの典型である。ひとつのいのちが奪われるときには、その人を知る多くの人びとの人生を破壊されるし、その人の周りに(いのちは助かったものの)心身が深く傷つく多くの人びとが残される。ひとつの戦争が起こるといとも容易に数億人の人生が破壊されるのである。

2 それだけでなく、戦争になれば(或いは現在のように戦争の方向に進めば)、軍事により多額の税金が投入されるため、生存権保障財政が大きく削られ、国民の生存権が「間接的に」奪われる。現在の日本の軍事費は国家歳出の6%であるが、大規模戦争直前であった1930年では国家歳出の29%が軍事費であった。これと同水準に軍事費を増やすと、国民生活への歳出が18兆円も減らされることになる。現在全額で21兆円の社会保障費がどこまで削られることか。大増税による国民からの収奪も伴うこと必定。

3 戦争になると、政府が殺人を公認奨励するため、戦地だけでなく国内での暴力・殺人事件が増加し、多くの国民の生存権が奪われる。これは、1900年からの70年間にわたる110の国々の犯罪データを調査分析した結果である(米国デーン・アーチャー教授ら著「暴力と殺人の国際比較」日本評論社)。

 

平和的生存権にとっての生存権の価値

1 国民生活・雇用が破壊されて生きにくくなると、普段は敬遠される軍隊が魅力的な就職口となる。現に金融経済危機となった2008年秋以降、自衛隊への求職者が急増している。

2 日常の国民生活を守る戦いが旺盛に展開されるならば、雇用や社会保障に手厚い財政構造にせざるをえない。そうすれば、軍事に回せる予算が制限されざるをえないため、政府が容易には戦争を起こせなくなる。

3 生存権を否定する弱肉強食格差貧困社会では、人が人を平気で蹴落とす風潮を助長する。それが、戦争で平気で殺戮できる兵士や戦争を支える人びとを生む基盤になる。

逆に、生存権を保障する社会では、私が見たフィンランドのように、ひとと人が互いに連帯し繋がり支え合っている。そのような社会で育った者に、戦争で無造作に殺戮ができるものであろうか。私がコスタリカ現地で見聞した教育の指針は、子どもに遊びと愛と自己実現の場を与えれば自己肯定感ある子どもに育ち、隣人への思いやりの心も育つ、さすれば、他国の人びとへの思いやりの心も育つというものであった。

 

太く繋がる二つの権利 

 

 平和的生存権と生存権とを結びつける私の発想の原点は、戦時であるイラクとインド洋から帰還した自衛官の「平時」での自殺率(人口10万人に占める自殺者数)がなんと108、常態でも一般より多い自衛官全体の自殺率38のさらに3倍近い高率となっている、自殺に追い込まれる自衛官を救うには戦時と平時両者を繋ぐ観点が必要ではないか、というところにあった。その視点を私なりに整理して、「平和的生存権と生存権が繋がる日 イラク派兵違憲判決から」(合同出版)を出版した。ただし、平和的生存権が理念にとどまり、生存権が朝日・堀木など一連の生存権裁判における最高裁判決が展開する大幅自由裁量論にとどまっていては、この二つの権利のつながり=相互作用性を俎上に挙げても効果に乏しいことにもなりかねない。

 ところが、3つのイラク訴訟判決によって平和的生存権が内実ある権利であることが公認された。他

方、すさまじい「派遣切り」に端を発した年越し派遣村の取組・実態が正月じゅう克明に報道されたこと

によって「生存権を保障せよ」との国民意識が急速に高まり、これに押されて生活保護行政分野の改訂

通達もいくつか出された(一連の原爆症認定訴訟で16連勝したことも大きいであろう)。米国憲法にど

ちらもなく、日本国憲法にどちらも存在している生存権と平和的生存権。両者の関連性をより深める意

義がいまあるのではないか。

 

世界を変えるスローガン

 例えば、「軍事費を削って暮らしに回せ」のスローガンは、軍事費を削ることによって戦争への道に歯

止めをかけるとともに、社会保障費民生費を増やすことによって生存権を充実させるというものであり、

しかもこの両者を求めることによって相乗効果を狙っている。憲法の花開く社会をめざすうえで理論的

にも極めて有効なものと思われる。今、あらためてその価値を見直す好機である。これは、訪ねたフィン

ランドの研究者の発言にもあったことだが、世界では毎年100兆円以上もの軍事費が使われ、アメリカ

一国だけでその40%以上である。未曾有の世界金融経済危機で、「発展途上国」により大きな打撃が

生じている今、「日本でも世界でも、軍事費を削って生存権保障に回せ」との声をより大きくしていく必要

がある。それが、世界の武力紛争をなくしていく道でもある。

海賊対処法案に対してもこういう視点からのアプローチも強めたい。

 

理不尽な殺戮を一切廃絶せよ

 あらためて言いたい。平時・「非常時」を問わず、理不尽に人間の存在を抹殺する一切のものをなくす

ために立ち上がる。それが、私が「平和的生存権と生存権が繋がる日・・・」を出版して世に問うたかった

ことである。そして、私にできるひとつの実践として「すわこ文化村」を立ち上げた(検索サイトで「すわこ

文化村」と引いてみてください)。