天皇制と対アジア侵略の淵源―吉田松陰にも触れつつ

                 松本憲法連続学習会 第6回      08729 毛 利 正 道(弁護士)

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第1      問題意識

 

71年間間断なく続いた、領土拡張欲求による海外での軍事力行使(=侵略戦争)

 

1874(m7)「台湾征伐」   豊臣秀吉以来、初の海外侵攻

    台湾に漂流した琉球民が原住民に殺害されたことを口実に、3658名を派兵して占領し一部族を殲滅した。そこには、「この地を我が領土と為し」(副島種臣対清国全権大使の発言)との領土拡張欲求があった。

1875(m8)江華島事件  海軍軍艦が、韓国海岸で露骨に挑発。これに韓国側が砲撃したのに対し、上陸して城内に押し入って報復攻撃を行い、民家を焼き払った。

1894.723日本軍が韓国王宮を軍事占領して、国王に対し清国軍を追い出すことを日本に求めさせた

1894.7.2518954(m27-28)日清戦争 

韓国を支配し中国にも侵出することを目指した日本の侵略戦争

18949 朝鮮の「牙山(アサン)に乱入し、無辜の朝鮮人3,000余人を虐殺」(当時の新聞)

189411 旅順市民皆殺事件 侵攻していった日本軍に抵抗した中国人がいたことに対し、報復として(死体処理班36名を残し)女性子ども含む市民18,000人以上を皆殺しにした。その周囲でも同様な虐殺事件多数の模様。

18954(m28)講和条約 朝鮮の(中国からの)独立・「更に南方に侵出するための飛石」としての台湾などを得る・中国東北部での権益拡張

18955-1915台湾植民地戦争(20年間)

台湾住民の抵抗を排除する戦争-17,000名以上の住民を殺害

189511 三浦駐韓公使らの画策により、親日派兵士と多数の日本人壮士らが王城内に侵入して、日本に対して批判的であった韓国の王妃閔妃を殺害。親日派が政権を奪取したクーデターとなった。

1900(m33)義和団鎮圧戦争

        中国民衆の反帝愛国の蜂起に対し、日本軍を主力とする8カ国連合軍が中国に侵入し、蛮行と略奪を働いた。1901の議定書で、日本は中国に1,970名の軍隊を駐留する権利を得た。これが、1937日中戦争開始の遠因となる

1904-1905(m37-38)日露戦争

        南樺太を奪い、韓国保護権・中国東北部への各種利権獲得 

1905(m37)韓国との「第2次保護協約」 

この後の軍・民衆による抗日闘争に対し、1913年までに17,779人殺害(=韓国植民地戦争)

1910(m43)韓国併合条約  1876日韓修好条規・1905とともに、軍事脅迫の下で

  (以上、全71年間の前半のみ)

 

イラク派兵差止名古屋訴訟における原告準備書面(7)毛利作成 06928 より

      http://www.haheisashidome.jp/shiryou/06zyunbisyomen7.pdf

1   そこでは、国家神道・靖国神社・軍人勅諭・教育勅語・大日本帝国憲法などを柱とする国民精神総動員態勢をとり、国民の心を戦争に駆り立てていった。しかし、日本の3世代・71年間にわたる侵略戦争の歴史は、それだけで語り尽くせるものであろうか。

2  日本は、1894年からの日清戦争と、その直後、1895年からの台湾植民地戦争(日清戦争後の下関条約で日本の領土とはなったが、地元台湾では日本の植民地にされることに抵抗する住民の実力闘争が、ほぼ20年間続けられた)初期の頃、すなわち、上記国民精神を総動員するための施策がいまだ実施され始めて間もない時期に、以下の如き、残虐な一般住人を含む虐殺事件を引き起こしている。

  (1) 日清戦争の緒戦ともいうべき朝鮮の牙山における戦闘について、1894年9月9日付「東京日日新聞」の「清軍の懸賞」と題する記事によると

      「日本兵が先に牙山(アサン)に乱入し、無辜の朝鮮人三千余人を虐殺せり。その惨酷、黙過するに忍びず。」

       とあるとのことである(甲H号証「Webサイト・教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま」「新しい歴史教科書を斬る」のうち、その7)。

   (2) 同年11月21日に旅順を占領した後の、日本軍による旅順市民皆殺し事件については、既に、甲A1号証の2で述べてあるが、その一端は上記甲H号証にもある。文字どおり女性・老人・子どもに対する虐殺をなしたのである。現在の中国の定説では、約2万人の市民が殺害されたとされている。

   (3) 1895年4月の下関条約で清国から台湾を獲得した日本は、直ちに台湾に出兵して、植民地化に抵抗する住民を鎮圧し始めた。女性60名を差し出させて強姦のうえ殺害するとの蛮行の他、1896年6月には、雲林において虐殺事件があった。台湾警察の正史である「台湾総督府警察沿革誌」Uに、

        付近55村で3899戸が焼失、「土民殺戮の数の如きは、つまびらかにすべからざりき」

      と記載されている(甲H号証のうち、その13・14並びに後掲甲I号証)。

(4)例えば「万世一系の天皇のためにいざという時には死ね」と教えた教育勅語が出された1890年から、わずか4〜6年後に、日本軍によるこのような一般住民に対する虐殺事件が、朝鮮でも、中国本土でも、台湾でもなされているのである。なにゆえに、このようなことができるのか。

 

3 その原因らしきこととして、参考になる言説を紹介する。

   (1) 台湾日本総合研究所長=許介鱗氏による「日本『武士道』の謎を暴く」(甲I号証)によると、日本の武士道精神とは、主君のために何のためらいもなく命を捨てて身を捧げる覚悟を根本とするものであるとし、中国・台湾での数々の残虐事件を挙げている。曰く、「武士道が台湾で威を振るう」。一理あるが、当時の日本の人口4000万人のうち、元士族であった者は50万人ほどに過ぎず、かつ、農民を含む全国民からの徴兵によって日本兵が組織されていたのであるから、残虐事件の全てを説明することは困難とも思える。

   (2) 多木浩二氏による岩波新書「戦争論」は、明治5年(1872年)に施かれた徴兵制につき、他の諸国では民主的な社会制度のある程度の発達と並行して国民皆兵制度が生まれているが、日本では、一切の民主的な条件もないところで専制的な権力によって決められた、と述べる。そして、次のように述べている(49―50頁、甲J号証)。

       ――― 「日本の兵士と農民」のなかで、歴史家E・H・ノーマンは繰り返し徴兵制が専制的に決定された過程についてふれているが、この本の執筆の時期(1943年)からいって、日本軍がアジア(特に南京)において犯していた蛮行を知らないはずはなかった。それらの蛮行は自由思想の欠如と無関係ではないとノーマンは考えたのだ ―――

       要するに、人権も、人権意識も全く不存在の兵士による軍隊であったために、そのような蛮行ができたのだ、と多木は言いたいのであろう。そしてそれは少なくとも一定の真実は反映しているのではないか。

  (3) これをいのちの重みという角度からみると、明治時代の直前にあたる江戸時代後期でも、生まれてきた子ども10人のうち、16才まで生き延びるのは5〜6人(半分程度)であったという(甲K号証「Webサイト・書評 人口から読む日本の歴史)。現代と同じようにいのちの重みを受け止めることはおそらく不可能だったのではないか。

  (4) これに加えて、「天皇が君臨する神国」思想の問題もある。吉野誠著「東アジア史のなかの日本と朝鮮」(明石書店)によると、江戸初・中期の17〜18世紀において、既に、山鹿素行・賀茂真淵・本居宣長・林子平・平田篤胤らによって、「日本は、建国以来皇統が連綿と続いている特別な国であり、日本こそが世界の中心である」として、朝鮮など近隣地域への領土拡張が公然と語られていた(198頁以下・甲L号証)。

      1853年のペリー来航後、吉田松陰が国体論によって理念化された朝鮮侵略論を、後に明治政府を支える面々に説いたことが始まりではなかったのである。

      その意味では、少なくとも江戸時代から「日本は特別な国」との意識が、ある程度は国民のなかに形成されて来ていた可能性がある。

      大濱徹也著「日本人と戦争」(刀木書房)46頁以下(甲M号証)によると、日清戦争に従軍した日本兵は、中国人が異臭ただよう不潔な生活をしていると感じ、家畜でも殺す気持ちで中国人を次々に殺していったとの体験談がいくつも述べられている。胸のうちに「特別な国」意識があったからこそ、人間である中国人を、「不潔に感じた」程度で、同じ人間と感じ取れなくなったのであろうか。

  (5) このように見てくると、人権意識の希薄さと、「日本は特別の国」との意識がベースとなって、日清戦争当時から残虐行為をなし得たということであろうか。

 4 少なくとも、人権も人権意識もほとんどなかった日本人が、徴兵制の下、大量に戦争に動員された、そこに残虐行為の原因の少なくとも重要な一つがあることは否定できないと思われる。

 

あらためて問題意識

1 豊臣秀吉の朝鮮侵略(15921598)以外、日本国が他国を侵略したことがなかったのに、明治時代になるや否や1894年(明治7年)以来、次々に侵略行動をとったのはなぜか。

2 その際、早い段階から次々に残虐行為をなしえたのはなぜか

3 明治初年以来の天皇制国家権力のみで説明できるものか、それともそれまでの歴史の中にこれを推し進める萌芽があったのか

4 後者があるとすると、神国思想ではないか。この視点から検討してみる。

 

 

第2 天皇制に対する国民意識などの変遷

 

1−1 古事記(712)・日本書紀(722)の記載

 ・天照大神の子孫神武天皇(BC711585)が紀元前660年に即位し、以後その子孫である天皇が代々日本を統治している

 ・15代応神天皇の母神功皇后(170269)が朝鮮を攻略し、南部地域に「任那日本府」を設置して200年間支配した。

 ・「日本」が「神の国」、その王が「天皇」と表現されている

12 客観的事実

(1)      天皇の語が文献上初めて見つかったのは、(飛鳥池遺跡にて)677年=40代天武天皇の代。701年大宝律令以後、天皇(=唯一至高の存在であることを誇示する語)が存在したことは事実。

(2)      少なくとも、日本書紀にある神武天皇以来8代までの天皇は、実在しなかった(「欠史八代」)。考古学上、紀元200年代に、ヤマト王権が成立したことが明らかになっている。

(3)      15代応神天皇(日本書紀201310)以降は、125代明仁天皇まで血筋は繋がっている(ただし、直系でない天皇も多い)と、「皇室典範に関する有識者会議」(2006年)提出資料ではされている。

        天皇系図 アップは少しお待ち下さい。

(4)      日本という語は、朝鮮の文献「三国史記」の、698年の記録に出てくる。この時期から使用されてきた。

(5)      日本が朝鮮に侵攻したことも、任那日本府をおいたことも、それが事実であることを証明するものはない。ただし、朝鮮南部を支配したいとの志向は日本側が有していた(吉野誠「東アジアの中の日本と朝鮮」明石書店62頁)。

(6)      大宝律令では、唐を「隣国」と位置づけるとともに、新羅は「蕃国」とされている。日本政府は、唐に対しては天皇の語を使えなかったが、新羅に対しては「天皇」の語を用い、また、使わせている。

(7)      7・8世紀の大和朝廷が、権力を確立するために「日本は天照大神の子孫である天皇が納める神の国」思想を強調したことは疑いない。現代に残る証拠のなかで、代表的なものが、古事記・日本書紀。

特に、朝鮮では、676年に新羅が半島全部の支配を確立した(統一新羅時代)が、天武天皇以降この新羅に対抗するべく、神国思想を創作した。

 

2 中世における天皇・神の国

(1)日本は、929年以降どこの国とも正式国交を持たない「鎖国」時代に入ったが、他方で、宋・高麗・日本の間で、商人による「東アジア交易圏」が隆盛した。

(2)1274年・1279年に元寇。いずれも直接には台風によって元軍が水没したが、高麗が果敢に元に対して長期間戦ったことによって、日本としては防御態勢を取れ、1日ないし1週間戦って上陸させなかったことが水没に直結した。

    さらに、クビライは3度目の日本攻略を構想したがアジア各地の反元闘争のためにそれを実施できないまま、1294年に死亡し、日本遠征計画が潰えた。

(3)北畠親房「神皇正統記」13391343

著述の目的は、南朝である後醍醐天皇が正統であることを論証することにあった。

「日本の天皇は神によって定められた存在であり今まで絶えることなく続いてきた、これは日本のみのことで、外国にその類なし」 

天地ある限り、皇位は永久に継承されてゆくであろう(「古語拾遺」における「天壌無窮の神勅」)。

(4)この元寇に勝利したことにより、それが、神風によってなされたとして、神国思想が深化していき、他国に対する優越観=ナショナリズムが強く主張されるようになった。

   ただし、この「従来の通説」に対し、中世の神国思想は、「仏が日本に垂迹して神になった、仏はインドでは釈迦になった(本地垂迹説)」とするもので、仏教との融和共存が図られ、むしろ仏の前で世界は平等とするインターナショナルな世界への指向性があったとの説も出ている(佐藤弘夫「神国日本」ちくま新書)。

(5) 中世以降においては、武士が政治権力を握ったことにより現天皇の絶対性は大きく揺らいだが、にもかかわらずなぜ天皇制は続いたか。

それは、武家権力の存在を認めこれに対応して、個々の天皇は国家の機関に過ぎず従って幼少天皇も存在し、また、天皇の首のすげ替えもありうる弱い存在とされるも、「日本国は神の子孫としての皇統に属する天皇が代々治める神の国」との宗教的色彩は民衆レベルにおいても強められ、武家権力の側も支配を安定させるためにこれを利用するとの基本的関係が幕末まで続いたためである(参照 佐藤弘夫「神国日本」ちくま新書)。

 

3 室町・戦国時代における神国思想

(1)漢民族による明王朝1368創建直後から、30数カ国と冊封関係を結んだが、日本も1402年に結んだ。その直後1404年に日本武家政権と朝鮮との間に、600年ぶりに国交が成立し、以後日本の中央・地方の政権が朝鮮王朝と人士の交流・交易を続けた。

(2)この3国間の平和的関係を突き崩した15921598秀吉の朝鮮侵略

  @1590年に全国統一を遂げた直後に、16万の軍隊をもって侵攻を開始し、一時は明国内にまで侵入したが、明国軍と朝鮮軍・義兵の抵抗に遭い、秀吉死去を契機に撤退して終えた。これによって国交が断絶した。

  A秀吉は、明を征服して天皇を北京に移して東アジアに天皇中心の神国を築くとの構想を発表しており、朝鮮はそのための通り道=基地であった(歴史教育者協議会「天皇のいまむかし」学習の友社)。より直接的には、全国統一のために戦った部下に対し新たな領地を分け与えるために朝鮮を手に入れる必要があった。

  B信長も朝鮮中国への侵略構想を語っており、秀吉の侵略にも全国から多くの大名が参加しているのであり、秀吉1人の個人的資質に還元することはできない(前掲・吉野著)。

(3)信長・秀吉・家康ともに神になろうとした(き代敏雄「神国論の系譜」法蔵館)

  @信長は、安土山内に総見寺を建造し、誕生日を聖日とし、そこに参詣させて、「予みずからが神体である」と宣言した。

  A秀吉は、みずからを「日輪の子」であり、「生まれながらにして世界に君臨すべき運命にあった」と述べており、京都方広寺に大仏・大仏殿を造り、死後、その大仏殿の隣の「豊国社」に、天皇の宣命により「豊国大明神」として祀られた。

  B家康も、遺言により久能山に神として祀られ、天皇の宣命によって「東照大権現」の神号が下され、翌年日光東照宮に移された。

(4)戦国時代の民衆意識(藤木久志「飢餓と戦争の戦国を行く」朝日新聞社より)

  @11501600450年に、少なくとも飢饉169件・疫病182件があったが、「一度の戦争は7度の飢饉よりはるかに恐ろしい」と語り伝えられていた。ほぼこの500年間に152回改元があったが、そのうち飢饉・戦争を理由とするものは96回(63%)に及ぶ。

  A14671477京都を主戦場にした応仁の乱では、東西両軍30万人が戦争に参加したが、かれらに糧食を与えることが不可能であったため、市中での略奪が公認されていた。

  B16世紀末九州の薩摩・豊後の戦争を見聞した宣教師フロイス「日本史」によると、

   「実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致し、彼らに異常なばかりの残虐行為をした」「捕虜にした人びとを家畜のように売り飛ばした」「渡来するポルトガル人らが多数の日本人をドレイとして買って外国へ連行している」「豊後はこの上もなく悲惨な状態におかれており、戦争・略奪・焼討ち・疫病などですでに7千人以上のいのちを奪った」。また、ドレイとして売られた女性は、「マニラのスペイン人の家庭に多数の日本人女性ドレイがおり、性的ドレイとしても扱われていた」との文献もある。

  C「大阪夏の陣図屏風」には、若い女性が徳川軍によって拉致され、襲われ、泣きわめき泣き崩れている姿が多数描かれており、その旨明記された文献もある。

  Dこれらの事実は、明治中期に朝鮮・中国・台湾で日本兵が大規模残虐行為をなし得たひとつの根拠事実かも知れない。(毛利)

 

4 江戸時代における天皇・神国

(1)朝鮮とは、1607年に500名の使節団が、秀吉侵略によって日本に拉致された多数の人びとを取り戻す名目で訪日し、そこで徳川幕府との間で国交が回復した。この時を含め、原則として将軍の代替わり毎に計12300500名規模の朝鮮使節団が訪日し、京都から江戸間では陸路を通り、民衆とも交流し文化芸術の交流も行われた。ただし、日本側では民衆に対し参勤交代と同じく「将軍へのお目見えのために朝鮮からやってくる下位の存在」として朝鮮を植え付ける役割を果たしたこと、そして朝鮮側では日本に対する警戒心から日本勢が朝鮮に入ることは認めなかったことに、留意のこと。

(2)江戸時代に入ってまもなく、次々と天皇神国日本優位論が展開された。

  @「四海広しといえども、本朝に比すべき水土あらず」とする儒学者山鹿素行(1685没)に続き、神道家増穂残口、さらに国学者=賀茂真淵(1769没)・本居宣長(1801没)・林子平(1793没)・平田篤胤(1843没)・会沢正志齋(1863没)・中島広足らが、「日本は天照大神以来の皇統を継ぎ神国思想を体現している天皇が支配する万国の祖国本国」であり、天皇は万国の君師として世界に臨むべきと主張した(中島は、「日本は神国であるのに対し、外国は、先祖も正しからぬ獣類同様の人種」とまで述べる)。

  Aなぜこのような主張がなされたのか。徳川中期にいたり、幕府諸藩の財政窮乏・武士層の経済的困難・百姓一揆の激化・農村離村の増大など、幕藩体制の諸矛盾が一気に露呈するなかで、主に天皇の絶対性を強調することによって庶民に「ただひたすらに対して服従のまことを尽くすこと」に狙いがあった(朴ジュンサン「天皇制国家形成と朝鮮植民地支配」人間の科学社)。

(3)民衆にとっての天皇

  @天皇や高位の皇族が死去すると、全国で数日間「町中鳴り物」が禁じられたり、大赦などが実施された。医師神主から大工職人・商人に至るまで朝廷から生業保証書が発行された。多くの国民が次々に行った伊勢神宮(天照大神を祭神とする天皇家の神社)と京都詣で。年号の改変も国民には天皇の名によって知らされた。農民が義勇軍を結成して天皇のために戦う天皇劇=浄瑠璃「持統天皇歌軍法」(近松文左衛門)などの天皇と庶民を繋ぐ文化芸術の展開。天皇に解決を求める百姓一揆の発生。(以上、深谷克己「近世の国家・社会と天皇」校倉書房)。天皇は、江戸時代から「天子様=生神様」と呼ばれていた(後記 松本開智学校での「生神様」状況)。さらに、キリシタン禁圧のために、秀吉も江戸幕府も「日本は神国」と理由付けをした。

  Aこれらから見て、民衆にとって天皇は、権力支配者でも絶対神でもなかったが、世俗を超越した権威的宗教的存在とみられていたのではないか。

5 幕末期における天皇・神国論

(1)      ペリー来航(1853)以降、米英仏露が開港を迫ってきたことは事実だが、日本が植民地にされる具体的危険があったのか。

@   従来の長い論争の中で、その危険が大きく言われてきたが、その重要な根拠となっていたイギリス公使発言に対し、実はイギリス軍司令官もイギリス本国外務省も領土占領意見でなく、逆にロシアに東アジア地域相互不可侵を提案していたほどであった。幕府が諸外国との等距離外交を旨として、条約によっても外国人の居留地以外での商行為や奥深い陸地10里以上への進入を禁止するなど外交交渉で奮闘していたこともあり、植民地にされる具体的危険はなかった(井上勝生「幕末・維新」岩波新書)。

A   しかし、外国事情に疎かった当時の支配層・民衆のなかには、その危険を過大視し「救国」のために立ち上がった者も少なくなかった。朝廷では、孝明天皇が万世一系神国優位論から攘夷を強力に主張していたが、長州藩下級武士の吉田松陰は救国のためになにが必要かを松下村塾に集まった伊藤博文・山形有朋ら、後に明治政府を支える80名の塾生に説いた。その教えは、他方で支配者は民のためにこそあり民の富を安定させることが重要でありそのためには貧民救済や医療福祉教育をなす事を政治が第1になすべきとも言っている。

(2)      国体論に裏打ちされた松陰(1859年処刑)の海外侵略推進論

@   「幽囚録」1854

・このまま衰退すれば、日本の滅亡明らかだろう。

・しかし、この皇国は四方に君臨し、皇統は天地とともに永遠である。

・今急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸候同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢献させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。

   A「アメリカ・ロシアとの和親条約締結後の困難な事態を打開するひとつの方法として、取り易き朝鮮・満州・支那を切り随え、交易にてロシアに失うところはまた土地にて鮮満にて償うべし」(「兄 杉梅太郎宛書簡」1855

B   日本は万世一系の天皇が支配する「天下は一人の天下」であって、王権が交代している中国に比し神聖な国。その日本が朝鮮を征伐した神功皇后や秀吉は、「神州の光輝」。両名のいまだ遂げざりしところを遂げるべし(「講孟余話」)

C   わが国が世界の中で尊いわけは、君臣一体・忠孝一致というわが国だけの特色にある。すなわち、皇室は万世一系であり、君主は人民を養い、祖業を継がれ。臣民は君主に忠義を尽くし、もって父の志を継いでいる。(「野山獄文稿」)  「忠孝一体」の理論的根拠

D   ただし、松陰の名誉のために言うと、これらの言説は松陰が20歳代のものであり、更に、その最終29歳における1859年「対策一道」では、「軍艦を備えた後に、朝鮮・満州・清国・ジャカルタ・喜望峰・オーストリアなどに領事館を設け軍隊を置き、貿易を図り、のちに米国に行って和親条約を結ぶべし」と述べられており、「ここでは平和的な航海通商による海外への飛躍である。松陰における皇国の海外雄飛の方法に転換が生じている。松陰は、これによってアメリカの軍事力による威圧的な開国要求を批判しうる立場に立った」との説あり(高橋文博「吉田松陰」清水書院)。仮にそのとおりだとしても、この転換を塾生が理解し得たかは?

 

6 明治維新(1868)後の神国=「万世一系天皇」思想の浸透

(1)      概要

1868(m1)・明治天皇 王政復古の大号令

       ・5箇条のご誓文とともに下した真筆による布告 「億兆安撫の宸翰」

「列祖ノ御偉業ヲ継承シ、一身ノ艱難辛苦ヲ問ハス、親ラ四方ヲ経営シ、汝億兆ヲ安撫シ、遂ニ万里ノ波涛ヲ開拓シ、国威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富岳ノ安キニ置ンコトヲ欲ス。」

趣旨「日本は、武力をもって四方の諸国を征服する」(大宮一朗 訳)

・神仏分離令「天皇を現人神とする」国家神道の始まり  本地垂迹説の否定

1869(m2)木戸孝允が、武力による朝鮮侵略論を主張

1870(m3)大教宣布詔書 天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国家方針を示した

1872(m5)徴兵制

187285 天皇の6大巡幸含む90数回の全国巡幸 430名という巡幸人数もあり。

1879(m12)「天皇のために死ぬ臣民を祭神とする」靖国神社発足(名称変更により)

1882(m15)軍人勅諭「天皇の軍隊、上官の命令は天皇の命令」

1885(m18)福沢諭吉「脱亜論」「日本が西洋に占領されないようにするには、西洋と同様のやり方で中国・朝鮮に接し処分すべき」

1890(m23)・教育勅語「日本は古来より天皇の国、いざとなったら天皇のために死ね」忠孝一体

          御真影・祝祭日での儀式とあわせ、学校にて万世一系天皇論を徹底する役割

・山県有朋首相「外交政略論」「主権線を守るには利益線を守るべき。朝鮮が、日本の利益線である」

1907(m40)「帝国国防方針」

     ・「満州・韓国・南方の利権を益々拡張する」「将来の敵と想定−露米独仏」 

    大規模軍備増強方針

    これ以降、全国くまなく軍人OB組織「帝国在郷軍人会」作り本格化

 

 (2)1880年松本開智学校での巡幸状況(前記「天皇制国家形成と〜」)

    彼らは固くも「天使様は生神様」という古き信仰を守っていた。彼らは天使様を拝めれば目がつぶれるという信仰を守っていた。行列が行きすぎると、多くの民衆が道に出てきて、いまほど車に踏み散らされた砂利を泥中から争って拾い始めた。それを持っていれば、家内安全五穀豊穣とおもわれていた。

 (3)神武天皇を祀る社寺建立にみられる万世一系思想による国民精神造りの一例

   @神武天皇陵  小さな塚(盛土)があったところに、幕末に孝明天皇の命令により建設され、途中で大増設がなされ、現在は、周囲100b・高さ55bとなっていて、宮内庁が管理している。

   A橿原神宮   陵の近隣に1890年に創建された大規模神社 建国神話・八紘一宇などの神国観を国民に広めるうえで大きな役割を果たした。

 (4)万世一系思想の確立

    ・帝国憲法第1条「大日本帝国は、万世一系の天皇これを統治す」

    ・2条「皇位は皇男子孫(典範で、まず直系と規定)これを継承す」

    ・3条「天皇は神聖にして侵すべからず」

    ・11・13条「天皇は、軍隊を統帥し戦争を宣言する」

    これらから言えることは、「日本国は天照大神以来神である天皇が子々孫々(直系を大原則にして)統治してきており、現人神である現在の天皇が絶対的存在である」ということであるが、過去には実在しない天皇や傍系の天皇も多数おり、他方で直系でも天皇にならない場合も多数あった。また、天皇個人を絶対的存在とすることは、中世以来の神国思想を大きく超えるものであった。すなわち、「万世一系の天皇論」自体、虚構であるにも拘わらずそれが「国体」であるとして、明治国家体制強化のため国民に押しつけられたのである。

     (このような曖昧なものであったためか、天皇機関説事件後の1937年に「国体の本義」が公表されるまで「国体」についての国家としての定義づけはなされなかった)

 (51882軍人勅諭の重大な影響力再認識   ましてや1890教育勅語をや!

    「武士が藩主に仕える以上に、兵士は天皇の命令を受けた上官の命令に無条件絶対に服従しなければならない」「天皇への義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」。軍隊では、毎日これを姿勢を正し大声を上げて奉読した。

 (6)明治維新後の征韓論の特質

    日本には資本主義発展の不可欠な資源(鉄・石炭・羊毛・綿花・食料)が乏しいため、急速に資本主義生産力を向上させるために海外侵略を通じて資本蓄積を図ることが目論まれた。また、士族の不満を一掃させるために朝鮮征服論が有効であった(朴得俊「日本帝国主義の朝鮮侵略史」明石書店)。

 

第3 問題意識への一応の答え

 1 100回近い巡幸、神武天皇陵・橿原神宮の建立、 「億兆安撫の宸翰」、万世一系天皇論の確立、軍人勅諭、そして明治政府を支えた政治家・官僚の多くが吉田松陰に師事していたことなど、明治中期までの絶対主義的天皇体制確立にむけての大がかりな国民精神総動員態勢をつぶさにみると、そのすさまじさに震撼する思いである。

     そして、その態勢は単に国内における専制支配だけでなく、「万世一系の天皇を頂く日本民族の他民族に対する絶対的優位性」を国民に注入するものであったことに特別の留意が必要である。その点で、明治国家の中枢を占めた者に、明治初年から相次いだ侵略行動の責任があるというべきである。

 2 しかし、中世以来国民の中に宗教色彩濃い天皇がかなり浸透していたこと、とりわけ、明治天皇巡幸を迎えた国民の天皇を神様と信じ切っている様子までみると、国民の中にこの感情が相当行き渡っていたからこそ、明治初年からの矢継ぎ早の上記諸施策が受け入れられていったということも事実であろう。

     そして、国民の中に人権感覚やいのちを大切に思う気持ちがよく育っていなかったことも、残虐行為をなし得た下地であったと思われる。

 3 昭和天皇の重体時、特に崩御時に連日無数の国民が皇居前広場に次々に集まったこと、そして、8月15日に靖国神社に26万人が集まった事実、歴代保守政権が学校における「日の丸・君が代」の定着にかける執念、現憲法の象徴天皇制は天皇の宗教的利用を否定し得ないところがあること、などをみると、(平成天皇になって以来宗教的色彩が弱まっているようにも見えること、国旗と定められた日の丸を祝日に掲げる家庭が極少数であることなど、反対状況もあるものの)天皇イデオロギーを政治的に利用する動きへの警戒が今後も必要であろう(9条はその歯止めとしても重要である)。

4 そのためには、明治初年以来3世代71年間にわたる根深い侵略主義の国内外における実相を多くの国民と共有することが不可欠である。