明治以来の日本のどこが間違っていたのか

−九度目の、しかし新鮮な訪中で得たもの−

       20071016日  AALAユースネット長野顧問 毛 利 正 道     

 

第1 万人杭から見る

 1 AALAユースネット長野の4回目の「世代をつなぐ旅」は、今年9月に12名で中国東北部に行き、多くの人びとと交流してきた。初日は黒龍江省社会科学院で、研究者から、同省内での炭鉱強制労働の聴き取り調査内容、その炭鉱で死亡した人をまとめて入れてある「万人杭」もあるとのお話をうかがった。戦後62年を経た現在も、国・省あげて被害事実の調査を継続していることを重く受け止めた。調査研究をまとめた中国語の本もいただいた。

  

その研究者みずからが聞き取った、当時14歳の張さんの証言

−「映画館で映画を見ている500人くらいの人が突然入ってきた日本軍に捕らえられた。金持ちは金を払い釈放されたが、多くの人たちは他の人たちも合わせ千人いちどに汽車でハルビンの炭鉱まで送られ、一日12時間働かされた。逃げても捕虜と分かるように眉を落とされた。外部との連絡を断たれ、食事は鶏の卵くらいのマントウを1日に2個と大根が少し入った汁だけ。しかし、泥でつくった器であったため汁を入れるとおわんが壊れて中の汁が飲めない。生きるためにその辺の泥水を飲んだ。服の代わりにセメント袋をかぶっていたし、住んでるところもゴザの上で布団もない。逃げたくても外は、有刺鉄線が張りめぐられていて、憲兵が見張っていた。病気になると食事をもらえない。病人がでても治療することができず亡くなると万人抗へ捨てる。 1944年6月伝染病がはやった時、罹った人みんなが廃坑のなかの池に生き埋めにされて殺された。自分は、廃抗の水の浅いところに置かれたので、知られないように逃げた。−

 

 2 翌日、長春の「偽満州国皇帝宮」の売店で買った「万人杭を知る―― 日本が中国を侵略した史跡」をめくって更に驚いた。中国の学者が「多くの日本友人の方々にこの歴史を知ってもらうために」日本語に訳して2005年7月に出版された本だ。そこには、中国各地32ヶ所の万人杭について、日本の残虐行為とこれに伴う形で存在している万人杭(死者を、多数異常な方法で埋めてある場所)が、具体的事実・証言とともに掲げられている。

 3 1894年の旅順市民皆殺し事件が冒頭、7頁にわたって詳しく7枚の図写真とともに述べられていた。日本の「中央新聞」が、当時1894年12月27日に、「死体のほかに支那人が見つからない。ここの支那人がほとんど絶滅した」と報じたことも掲載され、女性・子どもを含む2万人の市民が、ほとんど殺害されたとある。

 4 その本の2番目の万人抗は、1932年の平頂山村民皆殺事件であり、7頁にわたって詳述されている。更に3・4番目と続く。あまりのむごさに、読み進むことができなくなった。炭鉱10ヶ所、鉄鉱4ヶ所、軍事工事現場6ヶ所、発電所2ヶ所などが並ぶ。

 5 日本政府と大手企業は、中国から日本国内の135事業所に4万人の中国人を強制連行して強制労働させ、7千人の命を奪い、生き残った人々やその家族の人生を破壊した。私も弁護団の一員である中国人強制労働事件である。私自身、かなり前からこれとは別に、中国国内で数十万人の中国人が強制連行・強制労働され、多くの死者を生んだことは知ってはいたものの、中国全土にわたる強制労働・万人杭の具体的事実は、黒龍江省社会科学院での研究者の説明と、この書物によって始めて知ることになった。2年前に、旅順市民皆殺し事件を知った時以上の驚きであった。

 6 2年前に北京大学の学生と交流した時に、高校の教科書を見せられ、旅順市民皆殺し事件が写真入りで載っていることを知り、これが中国国民の常識なのだと驚いた。「反戦をライフワークに」と思っていた私が56年間全く知らなかった事実を、中国では高校生から皆知っていることに。

   今日は、撫順の遼寧石油化工大学で日本語を学ぶチャーミングな学生と3時間以上夢中で歓談するなかで(これが実に楽しかった。2人の女学生の肩を抱きながら撮った写真は宝物。重すぎる過去を克服していくエネルギーが湧いたのです)、彼らは、高校ではなくすでに中学生の段階で、旅順市民皆殺し事件・平頂山事件など多くの「万人杭」事件について学んでいることが分かった。「万人杭」が多い、中国東北部の教科書だからかも知れないが。

 7 その学生、私が話し合った女性2名男性1名、3名とも「いつまでも過去にこだわることはない。でも、過去を知ることは大切だ。互いに知ったうえで、仲良く交流したい」と話していた。この態度は、中国政府だけでなく、中国民衆のものになっていると実感した(むろん、2年前の訪中時の体験などをみれば、戦争をよく知る世代は、心の中ではまだ日本人を許していない。「謝罪と賠償を」と述べる人々も決して少なくない)。

 8 平頂山虐殺現場で、無数の人骨を見た時、写真では決して知ることができない「圧倒されるもの」を感じた。中国人を多数「死なせて来た」切り込み隊長=軍曹を父に持つ私の、非戦への思いがますます固くなる。決して、二度と戦争をおこさせてはならない、体を張っても阻まなければと思う。

 

第2 確立する大東亜共栄圏でもマルタ生体実験を続けようとしていた

 1 確かに、731部隊については20年以上前の森村誠一氏の著作以来、事実を知る多くの機会があった。しかし、今回、初めて現場に立ちその迫力すさまじいものがあった。

   ひとつは、一つ一つの施設・建物が極めて堅固にできており、終戦間際に秘密隠蔽のために爆破しようとしてもビクともしないものだったということだ。大東亜共栄圏を確立してからも数十年使えるものだ。

 2 そして、他方で3000人以上の中国人を実験材料にして実行していたものは、細菌兵器という戦争で使うための武器を製造したり人間の殺し方を生実験していただけでなく、医学・薬学界でモルモットを用いて実験していることを、生きた人間を用いて行っていたという事実だ。「人間の真空における状態」「人間の異なる気圧下での状況」「水分だけを与えた生存時間」「凍傷研究」「熱湯によるやけど研究」「健康な人体を用いての難度の高い外科手術の学習」「頭蓋骨切開後、脳の各部位の機能を研究」「切断手術の実験」「狂犬病の感染と観察」等々。

 3 これらを生体を用いて実験するということは、例えば「人間の真空における状態」とは、人間を狭い部屋に入れて、空気をどんどん抜いていき、人間がどのような状態になるかを死亡するまで見届けるということである。モルモットではなく、直接生きた人体を用いるのだから、「科学的」には、極めて高い有用な結果が得られる。このようにし続ければ、「医学」は格段に超ハイスピードで「進歩」する。しかし、そこでは、マルタ=生きた中国人が、次々に供せられる体制が必要だ。

 4 戦争が終わり、日本中心の大東亜共栄圏を確立しても、レジスタンスは決してなくならない。被抑圧民衆にとって、抵抗者やおそらく障害者などを「マルタ」として供給し続ける体制、それは悪魔以外の何者でもない。

   ここに見られる人間を人間と思わない思考は、真に克服されたのだろうか。

 

第3 それは、人の道に反することをし続けたことではないか

 1 近代日本の1931年9月18日の「満州事変」以後の15年間について、明らかな侵略戦争であると認識している方々のなかにも、それ以前の、例えば日清日露戦争などは、日本が欧米列強に支配されないためにやむを得なかったものと受け取っている人も少なくないのではないか。「互いに帝国主義の時代だったのだから」という見方もそれに近い。

 2 しかし、有史以来近世(江戸時代)までの歴史のなかで、こと日常の暮らしのなかでは、人間が同じ人間を殺害することは許されないこととする「人の道」がほぼ確立していた。

   こと戦争のときには、弁舌さわやかなまやかしの論理によって、その「人の道」が解錠される。そうしなければ、権力者が戦争という手段によって権力を維持拡大することができないからである。

   確かに、戦争によって相手を殺す側にとっては、その論理が有効である。

   しかし、他方の殺される側にとってはどうか。日常の殺人によって殺されることと、戦争で殺されることとは、殺害され周囲の者も人生をも破壊されるという実質において何ら変わりはない。

 3 すなわち、殺された側からすれば、戦争で殺されたのだから日常の生活のなかで殺害された場合よりも悲しみ・苦しみ・憎しみが小さいなどということはない。

 4 日本は、朝鮮半島・台湾・「偽満州国」・そして中国全土・インドシナを植民地にするために戦争し続けたばかりでなく、植民地にしたあとも、民衆の抵抗・レジスタンスに対してすさまじい武力弾圧=殺人を繰り返した。いずれの段階でも、日本国の意思によっておびただしい人間が殺害され、周囲の人々の人生が破壊されたのだ。

 5 「手紙」という最近の優れた日本映画のなかで、服役している殺人犯が、被害者宅に長年にわたり数十通を超える謝罪の手紙を出し続け、訪ねていった殺人犯の弟に、遺族がその手紙を示しつつ、「(許せはしないが)・・・もういいです」と語る場面がある。できる限りの謝罪と慰謝の措置を措り、被害を受けた人々から「もういいです」と言ってもらえるまで加害者は誠意を示さなければならない。それが人の道であり、戦争によって生まれた被害に対する人の道でもあるのではないか。

 6 その点では、明治はじめ以来の日本の対外進出は、進出を受けた国の人々にとっては、明らかに人の道に反することだったのであり、例え、日本の独立を守るためであったとしても(実際には日本が欧米によって植民地にされる具体的危険があったとは必ずしも言えないが)、そのことによって免罪されるものではない。