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理想の暮らし
理想の暮らし 
  ALIVE2005年5、6月号掲載  
                 長野県 小林桂子

 いよいよ暖かくなり、私にとって働く季節がやってくる。今年の冬は、去年の夏痛めた肩のリハビリで終わってしまったような気がする。健康第一、それに尽きると思う。

 私の冬の生活は、「ただただ暮らす」だけだ。食事を作る、薪を運ぶ、ヤギに餌をやる、そうじをする、そんなで一日が終わっている日が多い。若い頃は、何かをやらなくちゃという焦りが常にあったような気がする。だけど、今は、何をするでもなく、日常の生活をするだけで、ただ時間が過ぎていくことに充実感を覚える。こういう時間がもてることがとても有り難いと思えるし、本来生きるということは、それだけで充分のはずだ。

 なぜ、働かなくてはならないのか。当然、働くことは必要だが、稼ぎとなると最低限でいいんじゃないかと思う。勤労ということが美化され過ぎているのじゃないかと思う。

 私が子供の頃、高度経済成長期で、何でも機械化されつつあった。自分が大人になる頃は、機械が働くから、きっとあまり働かなくても楽に暮らせるだろうと、子供心に夢を見ていたことを、今頃思い出した。

 現在、これだけ機械化、IT化が進み、超便利になった。そしてお陰でのんびりと楽しく快適で人間らしい生活ができるようになったと、実感している日本人はどの位いるのだろうか?(少なくても、我家はそれに該当しているので感謝しているが…)

 1961年農業基本法ができ、自給型の農業から産業型の農業に移行した。この頃から食と農に対する価値観が変わってしまったらしい。また、米国の余剰小麦を学校給食に使い、同時に、肉、乳、卵、油をふんだんに摂取する栄養学が正道に掲げられ、伝統的な日本食文化が衰退し、今では摂取過剰で健康被害がでている。なのに今頃になって、米国はマグガバン・レポートの中で、「1960年代の日本型食生活が理想の食事だ」と評価している。何てこった…である。

 1960年頃には、日本人一人あたり、今の二倍の量の米を食べていたそうだ。宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」の中に「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ…」とあるが、私も四合は無理だけど、二合以上は食べなくちゃと思っている。

 先日、用事から帰ると、茅葺きの小屋から煙がユラユラ出ている。お昼なのでドラム缶風呂にしてはまだ早いし、何だろうと覗くと、夫が「釜でご飯を炊いている」と言う。以前、「私が子供の頃は、ヌカヘッツイというのがあって、それでご飯を炊いていたから、ご飯が大好きになった」と言ったのを思い出して、炊いてくれたのだ。彼の実家にあったこの古いカマドはとっても重宝だ。でも、一升のご飯を二人で食べるのかぇ?と内心思ったけれど、あまりにもおいしかったので、エゴマ味噌をつけたおにぎりにして、夜の集会に持って行った。そして翌日になってもおいしさは変わらなかった。

 環境のことを考えて、我村でも、捨てている食用廃油をバイオディーゼル燃料として再利用しようという計画がある。それはいいと勉強会に参加した。しかし、ある講演会で講師の方が、昔は、油は貴重で、天ぷらはご馳走、ハレの日にしか食べられなかった。今、日本は、遺伝子組換えの大豆、菜種、コーンを大量に輸入して、サラダ油として大量に使い、その廃油を燃料にしようという動きがあるが、根本的な考え方が違うのではないかと投げかけた。

 確かに、我家でどれだけの廃油が出るかというと、ほとんどない。揚げ油は、炒めものに優先的に使っていけば、ほとんど捨てる分はなくなる。もっとも、私はコダワリの菜種油を購入しているので、勿体無いというのが本音かもしれないけれど。


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