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縄文小屋(穴倉)
 
 八ヶ岳山麓では、冬の間、穴倉と呼ばれる共同小屋をつくり、その中で藁細工を行いました。近所の人たちが穴倉にこもり、一年間使う草鞋(わらじ)や雪靴、蓑(みの)などを作ったのです。
 父から聞いた話によると、穴倉の中では、暖をとるために焚き火をしたそうですが、その煙が目にしみて、子どもなどは、なれるまでつらかったそうです。時には、自家製のドブロクを持ち寄り、一杯やりながら作業を行うこともあり、それも楽しみの一つだったそうです。
 老人から子どもまで、年代の違う人々が集い話をしながら作業することで、集落に伝わる知恵や技術の伝承が自然に行われたのだと思います。

 この穴倉を縄文風にして復元しました。骨組みは、落葉松の間伐材を使い、屋根には葦を使いました。葦は、八ヶ岳山麓から諏訪湖に注ぐ上川に繁茂しているものを刈り取ってきて使いました。採光窓は、障子の代わりに硝子を使い、出入口には、のれんを垂らしました。(縄文風らしからぬが・・・)昔と同じように、中で焚き火が出来るよう囲炉裏もつくりました。床は、わらやむしろなどを敷かず土間のままです。

参考までに、八ヶ岳山麓で使われていた伝統的な穴倉についての記述です。

『諏訪地方、ことに八ヶ岳山麓の集落に、主として冬季間に限って出現するいわゆる穴倉と呼ばれているわら細工小屋(古くはわら細工以外に婦女子の糸紡小屋としても利用され、今もまれにはそれにも利用されている)について考えてみよう。この穴倉というのは、屋敷の一部に二坪内外の広さで深さ二〜三尺の穴を掘り、その上に三本の丸太で南向きに小屋組みをつくり、その東西の両面は土とわらとを交互に重ねて屋根を葺いたものである。南側には二本の小障子をはめて出入口兼採光窓とする。わずか一日工程でつくるきわめて素朴な一見天地根元造りそのままのような建物で、従来、歴史家のあいだで珍重されてきたものである。そしてこれを、たんに経済的文化的方面から取るにたりない農村集落に残存された古代建築型の一つと見てしまえば、明らかにそれは純文化現象として取り扱われるべきものであろう。しかしこれを、山麓高原、とくに準内陸に位置をしめた農村集落の、しかも冬季の繊維加工の季節的工場と観ると状況は一変する。この地域の、しかも繊維加工業の性質からは、寒気に対する保温、乾燥に対する保湿(ことに繊維工業においては適当な湿度がその要件となる)をはじめ、季節的・一時的な建物として経済上からも、この地域の農村集落にとってきわめて合理的な建物としてそれを賞賛しないわけにはいかないだろう。こうしてこの原始的で素朴な建物も、この地域の研究にとってはまことに貴重な地表現象の一つとして肯定せざるを得ないのである。』
(三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 第1巻 地域個性と地域力の探求)

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