TOPへ


農村とコモンズ 
地域における有機的な関係  

 
農業の衰退と共に地域はどう変わったのでしょうか?効率を求め機械化を導入する前の農村では、農作業を共同で行う結いなどの仕組みがありました。また、水路や道路、共有地(入会地)の管理を共同で行う仕組みも必要でした。管理に伴う作業は現在でも残っていますが、その意義は薄れ、作業だけが残っている例も少なくありません。そうした共同作業は、人々の有機的な関係を維持する上で大切なものだったのではないでしょうか。
 暮らしに必要な道普請やセギ普請、そして自給するために共同で行った農作業などは、地域にとっては、祭りと同じ効果をもたらしていたように思います。自立していく上で当然必要な仕事だったのですが、作業を通して生まれた人々の信頼関係や絆は精神的な面で集落を支えていたように思います。そういった共同作業は、農業の衰退と共に減少しています。それが地域の力を衰退させ、自立する力を失なわせているように思えてなりません。
国が目指した農業の産業化やそれに伴う大規模化の方向は、機械化を進めました。効率化が進むにつれて農作業を共同で行う仕組みは消えたのです。また、補助金や助成金による農業土木事業によって普請を行なう必要も減ってきました。気がついてみると、自分達で維持管理していくという自立的な精神は薄れ、公共事業にすがる依存型の精神が当たり前になっていました。農村に元気を取り戻すためには、経済成長と共に手放した共同作業を再び取り戻し、地域に有機的な人間関係を再構築することが必要ではないでしょうか。
(2006/1.12)
未来への提言(コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命)を読んで(その1)

 2005年3月15日に答申されました長野県中長期ビジョン、「未来への提言」をご存知でしょうか。長野県のホームページで公開されていますので読んだ方も多いことと思います。この文章の最後にはこう記されてます。「コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命」は、これまでの常識である中央政府による画一的なコントロールを打破し、地域からの再生をめざし、意欲ある住民により地域の将来を描き出すものである。「コモンズ」は、地域や、そこに暮らす人々に光を当て、地域が自立するための、現代における「コモンセンス」である。(コモンセンス=常識)私たちが最終的にめざすべきものは、「信州革命」である。
 私は、これを読んで感動を覚えました。それは、小さな地域からでも社会を変えることができると確信できたからです。この文章は、60ページにも及ぶ文書仕立てになっています。そこで、いくつかの点に絞り、簡単に紹介をしてみたいと思います。
 まずは、耳慣れない言葉「コモンズ」とは何でしょうか。本文の中では次のように説明しています。「コモンズ」とは、ゆたかな社会に必要な「大切なもの」をそこに暮らす人々が、自らの思いをもとに生みだし、育み、あるいは管理、維持していく仕組みをいう。また、こうも書かれています。その地域にとって、「コモンズ」が具体的に何を意味するのかが、あらかじめ与えられるのではなく、「これもコモンズだ」と人々が運動に参加し、自分たちにとっての「コモンズ」とは何かを見つけ出していくことから、「ルネッサンス」が「はじまる」のである。とあります。つまり「コモンズ」とは、自分たちで自由に創ることのできる身近な地域に必要な仕組みのことです。その気にさえなれば、顔の見える小さな社会の仕組み「コモンズ」を自分たちで創り、それによって、自分たちにとって「大切なもの」を守り、育んでいけることになります。
 それでは、「大切なもの」とはいったい何なのでしょうか。本文の中では「社会的共通資本」というこれまた耳慣れない言葉が使われています。社会的共通資本を自然環境、社会基盤、そして制度資本の3つに分けて説明しています。自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、土壌などとし、社会基盤は、道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなどとしています。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度を広い意味での資本として捕らえたものです。また、都市や農村も、さまざまな社会的共通資本からつくられているものとして位置づけられています。私が注目したのは、制度自体を資本として捕らえる制度資本の考え方です。私たちが暮らす社会において、仕組み(制度)は重要なものであり、財産であるというこの考え方は、これから益々重要視されていくだろうと思っています。この「社会的共通資本」と地域の文化や歴史そして、伝統的な叡智や技術など生活様式や普段の暮らしなどを含めて「大切なもの」としています。
 今まで、おかしいと思いながらも、どうせ変わらないだろうからとあきら諦めていた従来の「常識」を、良識・良心に基づいた真の「常識」に転換していく運動が「コモンズ」からはじまる「信州ルネッサンス革命」だと思います。
(2005年5月環境会議通信に投稿した文章に加筆)
未来への提言(コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命)を読んで(その2)

 「未来への提言」を中心になって取りまとめられた、宇沢弘文さんの著書、「社会的共通資本」(岩波新書)の冒頭には、『20世紀は資本主義と社会主義の世紀であるといわれている。資本主義と社会主義という二つの経済体制の対立、相克が、世界の平和をおびやかし、数多くの悲惨な結果を生み出してきた。この20世紀の世紀末は、19世紀の世紀末と比較されるような混乱と、混迷のさなかにある。この混乱と混迷を超えて、新しい21世紀への展望を開こうとするとき、もっとも中心的な役割を果たすのが、制度主義の考え方である。』とあります。この、「制度主義」の考え方を具現化しようという試みが「コモンズ」からはじまる「信州ルネッサンス革命」だと思います。
 提言書では、資本主義と社会主義の限界として、次のように記されています。『資本主義の考え方は、すべての稀少資源を私有化して、分権的市場経済制度のもとで、資源配分と所得配分を決めるという制度を想定している。これに対して、社会主義の考え方は、すべての稀少資源を公有化し、政府が中央集権的な経済計画を策定して、資源配分と所得配分を決めようというものである。いずれの考え方も、一つの国あるいは社会のもっている歴史的条件を軽視し、その文化や社会の特質をおろそかにして、自然環境に対して充分な考慮を払ってこなかったという共通点を有しており、20世紀において経済、社会、政治、文化、そして軍事上のさまざまな問題をもたらしてきた。』とあり、問題の原因は、資本主義、社会主義を問わず、社会的共通資本の維持、管理を適切に行ってこなかったからだと指摘しています。
 私たちは、経済を最優先する考え方のもとで、世界規模での競争(グローバル化)を進めてきました。拡大し、成長し続けることが生き残るための方法であり、幸せへの道であると信じて頑張ってきたわけです。その結果、様々な問題に直面することになりました。物質的には確かに恵まれましたが、犯罪は増え、自殺者も増大し、虐待や犯罪に巻き込まれるなど子供たちの生活環境は悪化する一方です。そんな今の社会に対して、多くの人々が限界と疲労を感じているのではないでしょうか。資本主義には重大な欠陥があります。それは、第3世界(発展途上国と呼ばれている国々)と自然環境の2つを犠牲にしなくては成り立たないということです。日本に住む私たちは、先進国という勝ち組みですが、その影には、第3世界という負け組みにされてしまった国に生まれ、犠牲となっている多くの人々がいることを忘れてはならないと思います。私は、先進国のことを搾取する国、第3世界のことを搾取される国と呼んだ方がより適切だと思っています。同じように、勝ち組みといわれている人たちを搾取する人に、負け組みを搾取されている人に言い換えるとわかりやすいのではないでしょうか。
 最近、資本主義という社会形態のもとで手に入れた「豊かさ」に対して疑問を感じ、本当の「豊かさ」を求めて自らの暮らしや生き方を見直そうとする人たちが増えて来ています。このことは、世の中がすでに大きく変り始めている証だと思います。私たちは、資本主義という「常識」に対しても、良識・良心にもとづいた真の「常識」へ転換するために勇気をもつ必要があるのではないでしょうか。
(2005年6月環境会議通信に投稿した文章に加筆)
未来への提言(コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命)を読んで(その3)

 御柱祭は山出しが終わり、里曳きへと続きます。この祭りは、地区単位での結束を確かめる儀式の様にも感じ取れます。同じ柱をひ曳く仲間同士でも、地区と地区との間にはライバル意識のような微妙な感情が働きます。その昔、これらの各地区には分校があり、しっかりとした自治組織が存在していました。御柱の幟旗は、昔の村単位です。日本がここまで経済発展を遂げられたのは、教育制度と自治組織制度が非常に高い水準で各村々にまで行き届いていたからではないでしょうか。御柱祭で、それらの大切さを改めて感じました。
 今回は、「大切なもの」(社会的共通資本)の一つとして、教育について考えてみたいと思います。私は、教育こそ最優先に考えるべき課題ではないかと思っています。人々がどのように考え行動するかによって社会は大きく変ります。提言書では、学校教育現場の荒廃は、教育制度という私たちにとって最も大事な社会的共通資本を、官僚的に管理したり、市場的基準を無批判に適用して競争原理を導入するなど、粗末に取り扱ってきた結果として起こってきたものである。と指摘しています。学校教育の現状をみるに、教師の職業規範と誇りを取り戻すことが緊急の課題である。として次のように記しています。
 『現状の教育制度においては、教師自らが「したい」と思う教育を行うことは容易ではない。官僚的な支配のもとで、きわめて中央集権的なかたちで教育内容の決定が行われているからである。いわば「させられる」教育である。教師に対する徹底的な管理は、教師の心を壊し、思考を途絶えさせることとなる。それゆえ教師は、何を教えるかを抜きにして、単に教えることのプロになろうとすることで、精神的防衛をはかろうとする傾向すらみられる。』とあります。教育の問題は学校や教師に責任があるのではないかと思っていた人も多いと思いますが、実は、制度そのものに欠陥があったことに気付かされます。提言書では、さらに教育の質を高めるためには、として『教師の志を大切にし、教師を信じ、教師を支えることが必要である。もちろん、このことは、教師が、それぞれの専門分野について常に最も新しい知見をもち、教師としての職業的な倫理を貫くことが前提条件である。教師の意欲と判断力を尊重し、教師が自由に、生き生きと行動することによって、子どもたちとの人間関係をゆたかにすることができる。そのことによって、子どもたち一人ひとりの発達をうながすことにもつながる。教師のあるべき姿は、子どもたちと向き合うことによって子どもたちの可能性を信じ、その可能性に驚き、その資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させていくことにある。子どもたちは、こうした教師により自分たちが変わることができることを知り、自信をもてるようになる。子どもたちが教育を通じて自分の可能性を引き出してくれた社会に対して、自分から貢献したいと思えるようになるのである。教師が自らの言葉で自らの人間観、社会観にもとづいて子どもたちに語りかけるとき、子どもたちは対話のなかから、この社会へ参加する喜びを感じる。誇りをもって生き生きと行動する教師こそが、社会的共通資本としての教育に最も重要な要素の一つであることを再認識することが必要である。』とあります。
 知識を習得する意外に、社会性を身につけ、人格を高めることも教育の大切な役割です。子どもたちが本来持っている多様な個性を大切にし、個人の価値を互いに認め合うような教育環境が求められるのではないでしょうか。世界にたった一つしかない自分だけの個性を互いにみが磨き合う社会では、誰もが輝けるはずです。スマップの歌ではありませんが、ナンバーワンよりオンリーワンの時代です。
 人材を育て蓄積していくことは、地域にとって大変重要です。良き人材は、新たな人材を導くことになるからです。教育には時間がかかります。しかし、教育の場は学校だけではありません。また、学びが必要なのは子どもに限ったことではないはずです。その気になれば、一生涯いたるところに学習の機会はあるはずです。少し前の社会では当たり前だった、地域全体で人材を育む体制づくりを、コモンズの視点からもう一度見直して見ようではありませんか。
(2005年7月環境会議通信に投稿した文章に加筆)
未来への提言(コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命)を読んで(その4)

 未来への提言では、都市や農村といった人々が生活を営む場も一つの社会的共通資本として捉えています。その都市と農村の記述について、今回と次回2回に渉り紹介してみたいと思います。
 まず今回は、都市についての記述です。『日本の都市は、中央政府主導のもとで、土地と建物と通過路としての街路とイベントから成る都市「擬似都市」になりつつある。真の都市は、人々が生活を営むなかで、時間の経過とともに徐々に形成されるものであって、決して、都市計画や都市再開発計画にもとづいて一気につくりあげられた土地と建物と通路から成り立つものではない。都市に対して、都市計画のブループリント(青写真・計画図)による一方的な押し付けをしないで、都市の持つ自然の成長力を生かしながら、都市を形成すべきだという考え方が、都市形成にさいして最も大切である。』と指摘しています。
 続いて、望ましい都市とはとして、ジェーン・ジェイコブスが、1961年に出した「アメリカの大都市の死と生」の中で取り上げた、住みやすく人間的な魅力を備えた都市に共通した四つの特徴を引用し、次のように記しています。『第一の原則は、都市の街路は必ずせまくて、折れ曲がっていて、一ブロックの長さが短い方が望ましいというものである。自動車の通行を中心とした、幾何学的な道路が縦横に張りめぐらされたものではなく、人々の生活の必要から自然発生的に形成された街路が望ましいことが強調されている。第二の原則は、都市の各地区には、古い建物ができるだけ多く残っていることが望ましいというものである。「新しいアイディアは古い建物から生まれるが、新しい建物から新しいアイディアは生まれない」というのはジェイコブスの有名な言葉である。第三の原則は、都市の多様性に関するものである。都市の各地区は必ず二つあるいはそれ以上の働きをするようになっていなければならないというものである。これは商業地区、住宅地区、文教地区などのゾーニングを否定するものである。アメリカの都市では、ゾーニングして一つの機能しか果たさない地区ができると、夜や週末には、まったく人通りがなくなってしまい、非常に危険なものとなってしまうということを根拠としている。第四の原則は、都市の各地区の人口密度が充分高くなるように計画したほうが望ましいということである。もっともこの原則は、人口密度が低くて困っているアメリカの多くの都市についてあてはまることで、過密に苦しんでいる日本の都市の場合、必ずしもそのまま適用できないかもしれない。』とあります。
 さらに、「コモンズ」から創る美しいまちとして『自動車中心の都市計画が人間的なまちを破壊し、人が片隅に追いやられ、経済的な効率や市場原理が美しいまちの風景を損なっているところも多い。かつて近代化の象徴であった電線や電柱に囲まれ、看板が乱立し、コンクリートで固められた殺風景なまちなみは、人々の心に真のやすらぎを与えてはくれない。格調高い建築物が立ち並び、立派な大通りがのびていれば、住む人にとって快適なまちであり、来訪者にとっては魅力的なまちであるかというとそうでもない。黄昏時にそこに暮らす人たちや旅行者が、通りや公園を散策し、穏やかな会話が交わされる光景は、まちの生活のゆたかさを感じさせる。人間的な魅力を備えたまちは、まず何よりも歩くということを前提につくられることが大切である。』とあります。
 最後に、注目したいのは以下の土地利用に関する記述です。『ヨーロッパにおいては、土地の利用の自由、すなわち、建築の自由の思想は終焉を迎え、「計画なければ開発なし」の原則が既に確立している。土地の所有権にもとづく利用の自由は、義務を伴う権利として、むしろ計画の枠内での自由として捉えられるに至っている。こうした原則にのっとり、誰もが美しいと感じるまちづくりが進められている。しかし日本では、社会的共通資本である土地に対し、絶対的土地所有権の思想の下に、利潤追求が建築技術と結びつき、無制限ともいうべき土地の利用が行われ、無秩序な開発により「美」の破壊が進んできた。これを抑制し、防止するためには、資本主義あるいは社会主義といった伝統的な枠組みを超えた土地利用のあり方を探っていくべきであろう。そのひとつのあり方が、市民的な規制、つまりは、「コモンズ」による土地の管理である。』とあります。
 現在は、都市部ほど少子化が進み、地方都市では高齢化率が問題となっています。快適で住みやすいはずの都市が、次第に暮らしにくい場所となりつつあるようです。その反面、環境が良く子育てがしやすい周辺農村地帯の農地が宅地化されて、人口流出が加速しています。いわゆる人口のドーナッツ化現象です。本来、都市には都市の役割と良さがあり、農村にもその役割と良さがあるはずです。どちらも大切なもであり、人々が生活を営む場としてそれぞれに魅力的な場であるべきです。都市と農村がバランス良く機能している社会こそ望ましい社会ではないでしょうか。現在の少し行き過ぎてしまった都市のあり方を見つめ直し、人間らしく暮らせる魅力的で美しい街への再生が望まれます。
(2005年8月環境会議通信に投稿した文章に加筆)
未来への提言(コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命)を読んで(その5)

 農を営む農家の一人として農村の将来には大変関心があります。今まで4回に渉り「未来への提言」コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命を紹介してきました。その最後として農村についての記述に触れてみたいと思います。元来、コモンズとは、農を営み集落を形成する上で必要不可欠だった仕組みではないでしょうか。人々が互いに助け合いながら暮らす共同体として、ごく普通に機能していた社会の制度だと思います。農村社会の移り変わりと共にコモンズの役割も変わり、次第にその機能が薄れ現在に至っているように思います。
 “農村として”の記述の冒頭には、『農の営みは、自然環境をはじめとする多様な社会的共通資本を持続的に維持しながら、人類が生存するために最も大切な食料を生産し、農村という社会的な場を中心として、自然と人間との調和した関わり方を可能にし、文化の基礎をつくり出してきた。』とあります。このような機能を持つ農の営みや、社会的共通資本としての役割を持った農村に対して日本の農政は、農家の大規模経営化を進めてきました。農業は、労働生産性を高めるために効率化を目指し、工業や他国の農業とも競争できる産業と成るはずでした。しかし結果は官僚が考えた通りにはなりませんでした。自然の制約を大きく受ける農業や林業を24時間休むことなく稼動できる他の産業と収益面だけを比較して競争させることにはもともと無理があります。また、急峻な地形条件を持つ日本の国土において、いくら農地の大規模化を進めてみても、見渡す限り広大な農地が広がるような国々とは競争にならないことぐらい初めからわかっていたはずです。本文では、『このような政策には自ら限界があることが最近明確になりつつあり、農業における経営形態のあり方、農村における社会的、文化的諸条件をどのように改変したらよいかについて大きな潮流が形成されつつある。』と記されています。さらに、“農の営みとコモンズの思想”として、『農業部門における生産活動に関して、独立した生産、経営単位としてとらえられるべきものは、一戸一戸の農家ではなく、一つ一つのコモンズとしての農村でなければならない。コモンズとしての農村とは、生産、加工、販売、研究開発など広い意味における農業活動を統合し、計画的に実行する一つの社会的組織をいう。』とあります。このようなコモンズとしての農村によって一つの工場や企業と対等な立場に立って市場経済的な競争を行うことが可能となる、としています。
 日本の農政は、戦後食料自給の道を棄て工業化を進めてきました。今では国外から様々な食品を餌の如く買い集めなくては生活できない国となってしまいました。しかし、ここに来て食に関する視点が少しずつ変わり始めています。食の安全性や食文化に対する関心が高まり、食農教育推進を国が進めていることもあってか最近では食料自給率を上げるための政策が真剣に問われるようになって来ました。お隣り中国に目を向けると、急速な経済発展を続ける裏で食料とエネルギーを輸入に頼る国へと変わり始めています。今まで日本が進んできた道と同じ道を歩み始めたようです。自国のことだと気付かなかったことも、隣りの国のこととなると色々問題点が見えるものです。その一つに流通に関することがあります。全世界で食のグローバル化を進めた場合、地球はいったいどうなるのでしょうか。食料格差は益々進み、飢える人々が増えることになりそうです。国内に視点を移して考えてみると物流を大都市に集中させる現在の仕組みには大きな問題がありそうです。高速道路や航空便など交通網の整備によって地方で消費される農作物や生鮮食品の中には一度中央を経由してから運ばれてくるものが多数あります。たとえ少しぐらい割高になったとしても流通段階における環境負荷が少なく安全性が目で確かめられる近い範囲内で物を消費する仕組みが必要です。これからは地域単位(コモンズ単位)で行う顔の見える小さな流通方式が見直されてくるのではないかと思います。人々の生活スタイルが変わった現在においては、大都市だけではなく農村部周辺の地方都市そして農村部自体りっぱな農作物の消費地となっています。遠くから運ばれてきた品物には、物流・保冷・梱包など様々な形で環境負荷がかかっているのだという認識をみんなが共有し地域の農家を地域で支える、そんな仕組みを創り、食の安全と地域の食文化を取り戻していく必要があります。自国の食料自給率を上げるためにも、まずはコモンズ単位で食に関する様々な取り組みを始めてみようではありませんか。
 これまで“未来への提言”コモンズからはじまる信州ルネッサンス革命の中から、“ゆたかな社会を実現するための仕組みコモンズ”という視点で「社会的共通資本とコモンズ」「資本主義と社会主義の限界」「教育」「都市」そして「農村」と5回に渉って紹介してきました。提言書ではその外にも自然環境・産業・医療・福祉・地方分権・中央官僚制度からの自律・長寿型文明など多岐にわたり提言を行っています。暑かった夏も終り、稔りの秋を向えるこの時期に一度ゆっくりとご覧になることをお勧めしたいと思います。76ページに及ぶ提言書の最後にある用語解説では、信州革命の「革命」を「新しきこと」と説明しています。『従来の考え方や既成の制度にとらわれることなく「新しきこと」を目指し、実行に移していくことを意味している。』とあります。今私たちに求められていることは、コモンズという仕組みを使って、たとえ小さなことでも身近な地域から行動を起こすことだと思います。それは新たな市民運動となり、信州から日本を変える新しきこととして歴史に刻まれて行くことになるでしょう。
(2005年9月環境会議通信に投稿した文章に加筆)
TOPへ  このサイトの著作権は、まいん農園にあります。