屋号を生かしたまちづくり
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 下諏訪総合文化センターにて 展示の様子

11月3、4日開催の三角八丁の様子はこちらから
 
お舟祭の時に屋号の札を出しました
 
このような感じです
各屋ごとに作成されていて
軒先にそれぞれの屋号を展示しています
 
 
道の両側に出されています
 江戸時代、五街道の一つに数えられていた中山道、総行程129里(約516Km)のほぼ中間に位置し、下諏訪宿〜和田宿間は険しい山道が5里18町(約21Km)あり、平均1里32町(7.3Km)に比べ極めて長丁場であった。宿場は諏訪明神境内に接し、甲州道中とも交わるという要の地にあり、69の宿場の中で、唯一温泉のある宿場ということもあって、大変利用者が多く賑わいを見せていた。
 宿場は多くの旅籠、伝馬など輸送にたずさわる仕事のほかにも、身の回り品、食べ物、道具などなど色々な商いも盛んであり、こうした家々が軒を連ねて街並みを作っていた。
「木曽路名所図鑑」の挿絵にみえる下ノ諏訪宿繁華の様子
下諏訪町誌下巻より
 
 江戸時代、平民は苗字が許されていなかったので、繁華の中でてきぱきと商売を行うには、必然的に呼びやすい呼称が必要となり、それが屋号(家号)となった。
 屋号は、商売を始めるに当たって当主が地名や家系、あるいは商売にふさわしい呼び名をつけて公表しそれが定着したもの、商う商品名や仕事名がそのまま屋号になったもの、公的な呼び名がそのまま使われた場合、よそから移り住んで、以前から使っていた呼び名をそのまま使った場合など色々あるが、その地域では固有名詞として、誰にもわかり、その屋号を通してその家で暮らす人たちの顔も浮かぶという地域の共同体意識を作り出す上で重要な役割を担っていた。また、宿場町という性格上、全国から集まる旅人を通して、「○○の旅籠は…」「△△屋の●●は…」と屋号が広まって商売繁盛にもつながった。
 
 
明治22、3年頃の横町木の下 綿の湯周辺
下諏訪町誌下巻口絵より