これでは、プラトン、アウグスティヌス、谷口雅春、西田幾多郎等々とまったく変わらないではないかとお考えになるだろうが、まったくその通りである。神秘体験Aというものは、唯心論や、合理主義の根拠そのものなのである。
ただカントが先人の唯心論者と異なるところは、神秘体験Aを出発点として形而上学を構成することは不可能であることを見抜いたことである。つまり、哲学の基本問題である「人間はどこから来て、どこへ去るのか」という疑問の原点とか、「はたして神は存在するのか」という神の存在証明の問題とか、「宇宙とはなにか」という外界の存在理由とか、従来の西洋の哲学者や神学者が口角に泡をとばし、神秘体験Aを基礎として論理的に構成しようと努力していた事柄を、それは「懐手(ふところで)式推理法」だと看破したことにあったのである。
たとえば玉城康四郎、林武、テレサ、白隠は神秘体験Aに到達したときに光を見、生命を直視する経験をしたが、その経験は、宇宙の成立原因を解明する類のものではなく、「神」を実感することはするが、それは言葉に言い表せるものではなく、もちろん未経験者にたいして神の存在証明を主張できる性質のものでもなく、かつ人間がどこから来てどこへ去るかを説明できるものでもない。ただ、生命の本質を直視する体験であるから、生命の永遠なること、つまり「不死性」を主張するくらいのことはできるのではないか……、とカントは言っているのである。これには筆者も賛成したい。
にもかかわらず、カントの終始一貫した見解は、神秘体験A(純粋理性)だけが人間の認識できる唯一の到達点であり、この視点に立つならば、「善」は人間に「存在する特質」ではなく、「要請される特質」であるということだった。(『実践理性批判』)
このように考えれば、カントは神秘体験Aを体験し、これを絶対唯一の価値と断定する典型的なAタイプの人間であり、それを体験した人間が必ずそれを自分の言葉で表現したいと願望する一般的なパターンにしたがって、あたかもプラトンがそれを「イデア」と表現したように、彼も彼独特の用語を使いたいと思い、「それ」(神秘体験A)を「純粋理性」と表現したにすぎないことがわかる。
すなわち、西田幾多郎が「純粋経験」と表現した「あれ」を、「純粋理性」と表現したにすぎない。したがって『純粋理性批判』とは、「神秘体験A(だけ)の特性を吟味する」の意味にほかならない。
このように考え、筆者の用語を使えば、上の文章を次のようにリライトすることができる。
(384)画題:アーサー・ヒューズ(1832-1915)
『オフィーリア』1852
油彩・カンヴァス
マンチェスター市立美術館
『ラファエル前派』The
Pre-Raphaelites
アンドレア・ローズ
谷田博幸訳
西村書店 1994
彼女もまた花の冠を
柳の小枝に懸けようとするのか?
柳ははたして
彼女の努力に応えるのか?