M ü s t a i r
2009/06/23
画像:Michelin Suisse National 729,
画像:Nr.15476 Verlag Kahl Engelberger, 6362 Stansstad
イタリアのメラノ(Merano)から西方にまっすぐ進み、山間の国境を越えたところにMüstairの小さな街があり、町の手前に聖ヨハネ女子修道院がある。
画像:教会内部北面
©Exquisite Fotografien
von Kunst und Architektur
– G. Peda,
D-94034 Passau
画像出典:
Die Flucht nach Ägypten (Nordwand 32)
Louise Gnädinger / Bernhard Moosbrugger
“MÜSTAIR”
Pendo verlag, Zürich 1994
画題:
Middle Apse 88
Engel mit Buch, das Evangelistensymbol für
Matthäus
聖書を手に持つ天使、マタイ福音書のシンボル。
素晴らしく気品のある天使ですね。
では皆様ご機嫌よう。
人物の目鼻立ちとか、人物・動物
の描写がきわめて写実的ですっきり
としていて端正です。後世のロマネ
スクの崩れた描写はここには見あた
りません。空間構成もバランスがと
れていて見事です。カロリンガ王朝
の絵画など欧州にはほとんど残って
いませんから、皆Müstairまで見物に
来るのですが、その価値はあります。
傑作というべきでしょう。さすがに
世界遺産です。
中国の現在の観音像の崩れた形態
と比較するに、法隆寺の九面観音を
もってするようなものです。オーソ
ドックスな芸術品の香りが強く漂っ
てきます。
ユダヤ王ヘロデの迫害を逃れてエジプトへ逃れる聖母マリアと聖ヨセフと幼児のキリストを描く「エジプトへの逃避」という画題ですが、これではよく読み取れませんから拡大して見ましょう。
種々曲折というのは例えば、1499年2月11日オーストリア王マクシミリアン1世がこの修道院に放火し、この修道院は完全に破壊されたが、これはスバビア戦争(Swabian War)によるものであり、ドイツではスイス戦争Schweizerkrieg ["Swiss War"]と呼ばれるスイス独立戦争の一環であった。
スイスは1291年8月1日、ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原始3州が盟約者同盟 (Eidgenossenschaft) を結成して独立戦争を開始し、この戦争は間歇的に1648年、ヴェストファーレン条約によって正式に神聖ローマ帝国からの独立を達成するまで続いた。
その間、Müstairの谷とイタリアへ下るUmbrail Pass(標高2501 m)の所有権を巡って、スイス連邦軍とハプスブルグ家との間で戦われたのがスバビア戦争である。
カール大帝は西暦773年ロンバルディア平原に進軍し、翌年774年ローマ教皇と計ってランゴバルド軍を首都パヴィアで破り、自らランゴバルド王の王冠を被った。
カール大帝はこの戴冠のあと、Umbrail峠を越えて帰ったのだが、山岳行路の安全祈願のために西暦775年Mustairに修道院を建てた。
その後、種々曲折があったが、これが現在に至る修道院の由来なのである。
ここに、
F = ピピン三世の死亡時におけるフランク
王国
その後、カール大帝が征服した地域は
L = ロンバルディア
B = ババリア
S = サキソン
薄い灰色の地域は直接の支配領域ではなく朝貢国である。
Müstairはもともとのフランク王国に属していたが、ロンバルディア地方とババリア地方との接点という戦略的な立地であった。
画像:
The Convent of St. John the Baptist - MüstairVerlag Schnell & Steiner
GmbH, Regensburg
P4
カール大帝はフランク王国の国王(カロリング王朝)であったが、彼の在位中にロンバルディア地方とババリア地方とサクソン地方を併合し、ローマなき後の欧州統一を実現した。EUの統合はカール大帝に次いで二回目の欧州統一なのである。時期は、西暦800年前後。日本でいえば、平安京初期の頃である。
彼が治めた領土は右図である。
Müstairはミュスタイアと読むのだろうか。uにウムラウトがついているから、ひとまずドイツ語読みしておこう。
1983年に指定された世界遺産である。
この教会だけで西暦800年当時の壁画を約100枚拝観することができます。
このような古い西欧壁画は他の地域では見ることが出来ません。
皆様に是非訪問されるようお勧めいたします。
更に一枚。
画像:スバビア戦争ハードの戦い
教会内の壁画