玉城康四郎こそ軍隊への応召という事態でその時期はおくれたが、林武、アヴィラのテレサ、白隠の三名は、神秘体験Aに到達するのとほとんど同時にネガティブの世界にはいってゆく。神秘体験Aが、体験者が語るごとく、そんなに良いものなら、そしてそれが絶対という名に値するものなら、それがすべてを救う神というものなら、彼らにはすでに十全にそれらが与えられており、これ以上のものは願ってもかなわぬ状態であるはずなのに、彼らはまるきり反対方向に向かって走り出す。まるで、心のなかにはまだなにかある、と信じている人間のように、あるいは神秘体験Aに到達後の虚脱感に耐え切れないかのように、あるいはキリストとはそのような単細胞ではないと信じ切って、ひたすら彼の跡を追いかけるマグダラのマリアのように。


 世界最高峰であるチョゴランマを登頂しようと企てる人が、ありとあらゆる有限の資力を使い果たし、これまた有限の肉体の力、筋力と持久力とを費いはたして、頂上に到達し、その結果感じる境地はいかがであろうか。一度、田部井夫人に聞いてみたいことなのだが、彼女に聞いてみるまでもない。推定がつく。


 頂上からの眺めは人工衛星からの眺めにも似て神秘的であり、神々しい美しさに満ちあふれている。そこにおいては私の道はとぎれている。これ以上に登るべき高みはない。したがって私は山を下らなければならない。およそ地球でこれ以上に高い場所はないのであるから、私の征服欲は充たされた。私がすべてのものを擲って求めたもの――それは精神的なものだが――は入手した。


 きっとこのとき、登頂のまさにその瞬間に、彼女の心には空洞ができるのであろう。うつろな感覚、虚脱感、征服による満足感にもかかわらず、まだ探し求めたい心が自分の心のなかに空洞を造ってしまう。


 田部井夫人はしたがって、引きつづきサンチャゴの近郊にあるアコンカグアを狙う。あるいはアラスカのマッキンレーを狙うこととなる。

 

 心の探検においても、頂上をきわめたあとには虚脱感が彼を襲う。だが、山岳登山家とはことなり、心の探検にはアコンカグアもマッキンレーも存在しない。次の探検目標地は心のいまだ開拓されていないところのただひとつに絞られる。いわば深海探検に移るのであろう。


 彼らはまるでものに憑かれたように更なる探検に乗り出す。

暗 い 領 域 の 探 検

 一言でいえば、ネガティブの世界。目
に映るものは、暗く沈み、うなだれ、生
命感が欠落して、現実味がない。色彩で
いえば、黄色と青色。それも混ざり合う
のではなく、暗く対比している。周囲は
すべて死に絶えて、私ひとりが辛うじて
生命あるものとして感じられるが、その
私の命も風前のともしびのように感じら
れる。



 このような途方にくれた、やるせない、
生命の抜けた抜け殻にも似た光景を、そ
れは私だと感じる心、これが神秘体験B
へのスタート時点での心象風景というこ
とになりそうである。



 このような心の状態は、一生涯「鬱」
病者でありつづけた北杜夫、ペシミステ
ィックな人生観を説きつづけた芥川龍之
介に限られることはない。



 一見信じられないような事態だが、あ
の明るい瞬間である神秘体験A(健全な
心)を経験した人たちが、その頂上点か
ら解き放たれたまさしくその瞬間から、
北、芥川とまったく同じように、暗い領
域に突入してゆくのである。

 筆者はこの第二部「神秘体験B」で、玉城康四郎、林武、アヴィラのテレサ、白隠の四例を、神秘体験Aを体験した後の心の探検家として詳述した。

 これをジェームズの表現するように、「病める心」、あるいは「病める魂」、と呼ばせたいならば、そう呼んでもかまわない。だが、本人はこれらの諸例で観察できると思うのだが、この探検領域を「病的」だとはちっとも思っていない。心がひたすらに求めるものをひたすら追うことを、何人といえど、これを異常であるとか、病的であるとか、クレージーだとか、まるでひとごとみたいに表現できるものであろうか。

 彼らは、時折は、躊躇しながらも、怖気づくことはあっても、まるでなにかそこに求心力が働いているかのように、ひたすら精神力を集中させてそこに向かっていく。

画題:Frederick McCubbin "The Lost Child"
          1886

          National Gallery of Victoria, Melbourne
          "Great Australian Paintings"
          Lansdowne Press Pty Ltd, 1971

      行く末が見定められず
      途方にくれた
      やるせない
      ひとりぽっちの女の子
      思わず泣き出してしまう。