これにひきかえ、「病める魂」のほうは、例をあげるのも、説明するのも難しい。一例をあげようにも、当の本人は死んでしまっているケースが少なくないし、かりに死ななかったとしても、その経験は「思い出したくない」、「説明したくない」、「逆戻りは御免だ」……の内容であるから、報告された症例の数が限定されている。

  すでに筆者は、玉城康四郎、林武、テレサ、白隠、ルターの「病める魂」の諸例を解説してきたわけだが、これらの解説にしても、その経験に内在するもっともデリケートで隠微な陰影を欠いている。

 それは、経験に先立つスタートポイントの、いわば「きっかけ」とか、「そもそもの初め」とか、ざらついた言葉を使うと「動機」とか、もっともありうべき言葉を使うと「なんだかわからないが、そのときに感じた心の雰囲気」ということになろう。本人にとってその核心、コアがはたして何なのか、これがわからないままに事態は着実に進行する。

「 健 全 な 心 」 と 「 病 め る 魂 」

 私たちは、まずウイリアム・ジェームズの『心理学』に描かれている心の状態、「流れる意識」から出発し、いわば表計算のスプレッド・シートのように平らな平面を流れる「意識」、あるいは「考え」と表現される日常的な心の挙動の上に、どのような神秘体験が生じるのかを観察してきた。



 ウイリアム・ジェームズが、『宗教的経験の諸相』のなかで「健全な心」と表現した神秘体験は、一個人の心をある瞬間に、輝く光へと昇華させるようにも見えるし、すべての意識を束ね、纏め、統合するかのように、天空の別世界に巻き上げる性質のもののようにも見えるから、私たちはこの現象を、あるいは喜ばしい「竜巻」と表現することができるかもしれない。竜巻は、突然に思いがけなく始まるもの、巻き込まれた人にとっては受身の状態で始まるもの、その状態が永遠に続くものではなく、一定時間たったのちに平常状態に、つまり凪の状態にもどるものであり、竜巻に巻き上げられた人ならば、多分その体験を一生の間忘れることはまずなかろう。

 だが、昔のギリシャ人が考えだした神話にもあるとおり、心というのは「パンドラの箱」に似ている。パンドラの箱には開けてはいけない掟があるのだが、掟にそむいて(つい人間は、開けるなと命令されると逆に開けたくなるもので)開けてしまうと、この(心という)箱からは魑魅魍魎が湧き出してくる。湧き出した魑魅魍魎は決して元の箱にはもどってくれない。柔和で穏やかであった世界は一瞬にして危うい、暗い、理屈がつかない、理不尽な世界に転じてしまう。

 こういういわば「ダイナマイト」を抱えながら私たちが日常生活を送っている現状を、私たちは最近のある新興宗教の活動状況によって見せつけられたばかりである。

 このような現実を見せつけられると、私たちは、たとえ現実にそれが、明日とかあさってとかいうごく近い未来に私たちの心に生じることはないにしても、私たちの心の動き方、求心力、極限に到達する場所、そこで認識される、あるいは感じられる感覚、そこから導き出される結論らしきもの、その後に働く遠心力、などについてあらかじめ整理された知識を蓄えておくほうがよさそうだ、ということにはならないであろうか。

 このような観点から、神秘体験Aの部では「量子力学モデル」と題して、ジェームズの唱える「健全な心」という心の状態につき雛形をつくったわけである。

 「健全な心」というのは、経験した本人が喜ばしい感覚を享受する、という意味で、人間にとってはいわば望ましいタイプの神秘体験であるから、例をあげるのも、説明するのも、比較的容易であった。それはテレサの使った言葉を使用すると、暖かい、恵みの多い、神から与えられた「恩寵」であって、人にやさしいのである。人にやさしいばかりでなく、理解あるいは想像するのもやさしいのである。

画題:Arnold Böcklin (1827-1901)
          "Selbstbildnis mit Fiedelndem"
      (骸骨のいる自画像)

         1885
         Staatliche Museen Preussisches Kultur
     Besitz -Nationalgalerie, Berlin

         井上靖/高階秀爾、
      カンヴァス世界の名画
13
     『ムンクとルドン』
        −世紀末の幻想−

         中央公論社、1975

         ハンス・H・ホフシュテッター
   「彼は仕事からふと耳をそばだてて、
      もうひとつの世界<墓の彼方から>、
      そのきわにおいて

    芸術家が霊感を受ける
      世界からやってくる音、
      芸術家の耳へと舞い降りてくる
      あのくさぐさの
音色を聴きとる。
      画の全体が
      この耳を澄ますこと、
      あの絶妙な音色の強烈な力
      によって生きて
いる」
                 
(種村季弘訳)

 このような瞬間は、体験できる人もあるし、体験しない人もいる。むしろどちらかというと、一生体験しない人の数のほうが圧倒的に多いと言わざるをえない。なにごとも多数決で決することが普通になっている現代では、つまり、物事の評価基準を多数の人の評価の平均値で決することが普通となっている現代では、このようにまれにしか起らない心の状態は、多数決の原則からはずれた、少人数のグループに生じる(かもしれない)特異現象であり、これを普遍的なものと認めることはおろか、その現象の真実性をも疑いと猜疑の目で見つめがちである。