と述べ、その場所は底が見えない深淵であると断定し、ゆえに(心眼で見ることのできる)聖霊(神秘体験A)だけが信じることのできる「絶対」であると信じた。彼は旧約聖書の創世記に記載されている「しかし地は見えず、形なく、闇が深淵の面にあった」(創世記1-2)を根拠として採用し、聖書に書いてある以上、これで間違いはない、と確信したのである。そこでこのような信念と確信にもとづいて、理屈のつきにくい理論で自分の心を整理して、三位一体論を「正しい」と判定した。

B は 「死」 を 提 供 し な い

 このような経験を、それが近づいてきたときに、その気配を感じたときに、怖くて逃げてしまう人もいる。


  眼ヲヒラケバ ドギツイ暗黒

  天使モ悪魔モ見当ラヌ
  人間バカリウヨウヨノ
  底ノナイ 腥グサイ ゾットスル空莫


をかいま見た北杜夫は、クロールプロマジンへと逃げ道を求めた。 



 アウグスティヌスもそこを覗いてみた人物なのだが、


 たしかにその地は見えず、形がなかったのである。それはその面(おもて)には光のない、どういうものであるかは知られない巨大な深淵であった。それはなんの形態もなかったからである。そのゆえに、闇が深淵の面にあったと記すように命ぜられたが、それは光が欠けていた以外のなんであろうか。
 (『告白』12-3、服部英次郎訳、
            岩波文庫)

 しかし、キリスト教徒でもない筆者にあえて言わせていただければ、旧約聖書が絶対の真理であるというならば、なにもキリストはこの世に出現することの必要性も必然性もなかった。キリストは旧約聖書の旧弊な世界を抜け出したからこそキリストなのであろう。実際、テレサは自らの経験にもとづき、アウグスティヌスのイメージとはまったくことなるキリスト像をキリスト教信者に提供したのである。テレサの魅力を大衆は確実に感じとった。それはアウグスティヌスの描く強圧的なキリストではなく、どん底に落ちる人間をも理解するキリストであった。

 キリストは反って、「深淵があるが、深淵に飛び込みなさい。あなたが考えるように、恐怖するように、そのことによってあなたが死んでしまうおそれはありません。逆にあなたはその行為によって、あなた自身の存在の本質が理解できるようになります」と説いているように感じられる。

 実際問題として、深淵に飛び込んで死んでしまった人間はひとりもいなかった。ルターでさえ、「ほんの半時間、いやほんの10分の1時間でも続いていたら、人間は完全に死んでしまい、彼の骨はことごとく灰になってしまうほどのもの」と表現するが、「いくたびも耐えしのんだ」結果は、ちっとも彼自身死んではいない。

画題:元々の画像は次でした。透明感のある
   美しい画像ですので原本をご参照下さい。

         Wassily Kandinsky (1866-1944)
         Russische Schoene in Landschaft
          /
風景の中のロシアの美女
     1905
         Staedtische Galerie im Lenbachhaus,
         München

         井上靖/高階秀爾、
         カンヴァス世界の名画14
      『カンディンスキーと表現主義』

         中央公論社、1975

代替写真:著作権の関係でKandinsky の画像が
       使えませんので申し訳ありませんが、

              Jackson Hall (Feb. '98)の写真です。
       世界で最も急峻であるといわれる
       スキー場。目もくらむようなスロープ。