話は変わるが、人生とは、譬えていえば船のようなものだと比喩を述べることは正しいことであろうか。
それはたえず揺れ、動き続ける。アップダウンの連続であるばかりか、右にも左にも揺れ続ける。
人間とは、将来が見えない動物であり、将来の見通しもなく揺れ動く船に乗っている囚人のようなものだ。
どんなに頑張りと努力を続けてもこの本質は変わらない。疲れ果てた時にふと船底の下を覗くと、それは深海、落ちれば地獄である。
私自身のことを反省してみると、私自身は揺れ動く船の上で、船酔いにかからぬよう、舷側から転げ落ちぬよう、必死になって足を踏ん張っていたというのが実情である。
こういうタイプの(私を含めて)人たちにとっては光輝まばゆい神が顕現することを期待するよりも、地獄の閻魔が現出することを期待する確率のほうが高い。
事実、夢のなかで、怖いものに追いかけられて、逃げても逃げても逃げ切れない経験をされたことのない人がいるといえるのであろうか。
それが大多数の人々の現実であるとしたら、ひょっとすると、ルターの原罪経験の方が一般人には理解に簡単であるかもしれない。
こういう考え方の筋道に立って、ルターは神の認識に到達した。したがって、アウグスティヌスとルターの信念はその根底において決定的に異なっていることが了解されよう。
アウグスティヌス
喜悦の感情をもって神を見た。
これはありがたき神からの恩寵であり、
天国の門が私に向って開かれたことを意味する。
これを聖霊と名づける。
したがって、三位一体論が成立し、
教会を、その恩寵をまだ入手していない人たちに対して、
秘蹟を通じて授ける授与機関として位置づける。
ルター
恐怖と戦慄、怖気をふるわせる地獄のありさまで
そこには神は全く居ないことが確認できる。
これがすなわち私たち人間の実態であり、
それを知らしめてくれるのは、神の采配としか考えられない。
したがって、私たち人間は永遠に地獄に繋がれた奴隷である。
天国への道、
それははっきりしている。
神への信仰だ。それのみである。
それは同時に聖書への絶対的な帰依ということになる。
このような思想の違いが、それぞれの人間の受けた内的体験の内容の差であることも理解できよう。
とはいっても、人間というものは、自己の魂を調査するといってもなかなかにこれを実行することは難しい。いつどの時代にあってもそれは難しい。大半の人は、アウグスティヌスの述べる聖なる恩寵には達しないものだし、ルターの主張する原罪経験にも達することがない。
だから、アウグスティヌスが喜悦の瞬間を述べても、ルターが恐怖と戦慄の瞬間を述べても、その正確な理解は不可能である。
画題:「地獄草紙」断簡 盗コ地獄、
鎌倉時代、
シアトル シアトル美術館蔵
『在外日本の至宝 第二巻
「絵巻物」』
毎日新聞社、昭和55年
人間を痛めつける地獄の鬼。
これこそ現実であり、
神が神の采配により
われわれに見せてくれたのだ。
したがって、
ここに描かれる「死神」こそ
絶対唯一の神なのだ、
とルターは断定した。
このような「開き直り」の論理は
日本の宗教界には見当らない。