神経衰弱にかかっていた白隠が、酒を飲める状態にあったかどうかはさておき、その後彼は白河の白幽仙人に会いにいったことになっている。その部分を夜船閑話から取り出してみよう。


 白幽仙人
 この話を聞いたので、宝永七年正月中旬に密(ひそ)かに旅支度をして東美濃(美濃の霊松院)を出発し、黒谷を越えて真っ直ぐに白河村に来た。荷物を茶店に下して白幽先生の隠棲している場所を尋ねた。村人が遥か彼方の渓流を指して教えてくれた。そこで渓流の水音を聞きながら遥か遠く山奥に進んだ。ちょうど一里ばかり行くと、渓流がとだえ、樵夫(きこり)のかよう道もなくなってしまった。そのとき一人の老人にあったので道を聞くと、遥か彼方の雲かすみの間を指すので、そこを見ると、黄色と白の一寸四方余りのものがみえる。それが山にたちこめた靄(もや)の動くにつれて、見えたり隠れたりしているが、これが白幽先生が住んでいる洞窟の入口に垂れ下げた蘆(あし)でつくったすだれであるとのことだった。……
(鎌田茂雄 日本の禅語録十九『白隠』講談社)

白  幽  真  人

(注4)
(宝永7年春、宗覚、白隠と静岡で再会し、彼を
飯山に連れ帰る)

 翌宝永7年春、白隠は鏡水・紹岩外二名と共
に静岡の宝台寺へ行って、澄水の碧巌会に参加している。会中は禁酒なので、路上の酒屋で酒を飲んだ後、以後の禁酒を誓い合っている。この会中に宗覚が約束をたがえずに飯山からやって来た。白隠は早速「五位変尽の訣」を伝えるように願うと、宗覚は言う。
(五位変尽の話が出てくるが、省略する。)
 翌日ひまの時に、白隠が宗覚にその意を告げたところ、一字も宗旨に違うところがなかった。しかし白隠は相変らず不安動揺が続き、遂に病魔に犯される。医師にも相談するが、病名不明である。結局これは禅病と称する奇病であるとされた。これについては『夜船閑話』上巻に詳細に書かれている。「今更飯山も恥ずかしく」思い、「仏神に祈念するも霊験なく」、紹介する人があって洛東白河山中の岩窟に住む白幽真人を訪ね、「内観修養の訣(奥義)」を教わって松蔭寺に帰り、これを実行して全快した。
(中村博二『正受老人とその周辺』信濃教育会

 読者はこの箇所を読まれると、描写があまりにも神韻縹渺としていることに気がつかれることであろう。このような捉えどころのない描写は、中国の故事を語る場合には適しているが、日本の国でどこそこを訪問したときの報告には通常使われない描写法ではなかろうか。日本の場合には、誰でもどこへでも尋ねて行くことができるから、通常は簡単に場所の名前のみを記載するものだ。多少多めに見ても、この時代の描写としては、ただ簡単に「白河所在の石川丈山の詩仙堂の近く」くらいに書くのが妥当だ。

 このような捉えどころのない描写がなされた場合、われわれは、そこになにかある、と本能的に嗅ぎとるものではなかろうか。特別に背景を隠蔽したい意志とか、具体的に場所が特定できないようにする隠蔽工作の意図が読みとれる、とか思わなければならない。

 白隠はなんらかの事情があって、このような意図的な神韻縹渺表現を使わねばならなかったのだ、と考えざるをえない。

画題:池大雅
      『東林訪問図屏風』(部分)
   
1750年代頃 
      紙本淡彩

   島根 別火家
   吉沢 忠
      『原色日本の美術第十八巻 
                     南画と写生画』
      小学館
1969


        「虎渓三笑」という故事を描く。
         描かれているのは、
      山中で晴耕雨読の隠棲生活をおくる
      慧遠という人物。

池大雅は爪でこの絵を描いた。(指頭画)

日本の南画はもともと中国は元の時代の南宗画。
国では、大土地所有者であった士大夫階級が、
晴耕雨読の隠遁生活を理想として南宗画を描いた。


日本では、安定した政治体制のもとで
経済活動が充実した江戸時代中期に、
いわば繁栄後の頽廃ムードのなかで、
職業画家によって導入された。

白隠も、
     当時の知識人があこがれる隠遁生活を
     夢見たのである。

      現代人の夢見る「田舎生活」にも似ていて、
      実際には「することのない」
      退屈な隠遁生活のはずなのだが。