では、白隠はなにを苦しんでいたのだろうか。

 白隠は、その苦しみを一切書き物に残さなかった。

 それでは、白隠の心の中を全的に、客観的に、理解することはできないではないか、と読者は思われるだろう。だが、われわれは、それそのものではないかも知れないが、それに近い近似値は推定することはできる。

 後年彼がなんども墨で黒々と筆太に書き上げたものがそれである。すなわち、

              「南無地獄大菩薩」

である。

 彼が幼少のころ怖がっていた地獄に、今回は夢ではなく、現実に捕まってしまった。
 生き地獄に嵌ってしまったのだ。

 それは蟻地獄に似て、もがけばもがくほどズルズルとひきずりこまれる。
  底はあるようで、じつは無い。

 消え失せる魂に肉体が悲鳴を発する。
 陽は陰り、生命は危殆(きたい)に瀕している。

 暗い。
 脱出口がどこにあるのかわからない。

 もがきつづけるうちに、健康が急速に失われていくのが自分でもわかる。

 彼は地獄の只中に居て、自分を救うべき大菩薩を懸命に求めていた、と理解してよい。


 神経衰弱とは、あらためて森田正馬に示唆されるまでもなく、その只中にいると、居ても立っても居られない状況である。ただその本質はなかなかに自分では見究めることができない。ここが最後の難関なのだ。

禅 病 の 悪 化

(注3)
(宝永六年後半、白隠禅病に悩む)

 鎌田茂雄、日本の禅語録19『白隠』講談社より引用しよう。


 禅病に悩む
 私が初めて参禅学道する日に、誓って勇猛精進の心を奮起させ、不退転の求道心を起し、精錬刻苦すること二、三年、ある一夜忽然(こつぜん)として悟りを開いた。今まで多くの疑惑がその根底から氷解し、長い間生きかわり死にかわりする輪廻の業因も水面の泡が消えさるようのなくなった。自分が思うには、道というものは遠くにあるのではない。修学さえすればおのずと自分の近くにあることが分った。古人が参学に二、三十年費やしたとは、何と奇怪の事ではないか。自分はたった二、三年で悟りを開き、悦んで手の舞い足の踏むを知らざること数ヶ月であった。

 ここまでは、高田の英巌寺で起きた輝かしい瞬間(神秘体験A)の説明である。


 しかるにその後、日常を反省してみると、動静の二境がまったく調和しないのだ。去就の二辺も洒脱で自由になりきれぬ。これではならぬと思って、大いに修行に励み、今一度身命を投げうって大死一番しようと志し、歯を食いしばり、両眼を見開いて坐禅をし、寝食を忘れて修行に没頭した。こうしてまだ一ヶ月にもまらないのに、心気が逆上し、肺臓が痛み、両脚が氷雪につけたように冷えきり、両耳は谷川の響のように耳鳴りし、肝胆が疲れ弱まり、立ち居ふるまいがびくびくし、心神は疲労困憊(こんぱい)し、寝ても醒めても種々の幻覚がみえ、両腋の下にはたえず汗をかい、両眼にはいつも涙がたまるような状態となった。


  読者はすでに気がついてあられるだろうが、玉城康四郎は、二回にわたる大爆発ののち、それがもたらす影響は
23日で消えてしまい、元の木阿弥に戻ってしまった、と報告している。また、林武が、炎の大円柱を実見したのち約半年後、強烈な神経衰弱に罹り、高い所から飛び下りたい衝動にかられた経験も前述したとおりである。テレサにいたっては、その衝動を堪えつづけた結果、幻覚まで生じた事態は、まさしくこの白隠のケースにぴったり符合している。

 このような事態が生じた場合、それでもなおかつ自分でその原因を追究解明し、これを処理しようとする健気な人たちもいる。それは自分が自らの内面を追究した結果生じた事態なのだから。もちろん、他人に責任を負わせることはできない相談だし、かといって、自分の身のまわりにその苦しみを理解する人間も、まず見当らない。

 理解してくれる人がいない事実が彼の苦しみを倍加する。

 人はこのとき、のたうちまわるものらしい。すくなくとも、種々の書物、主として古典と称されている本は、その事実をわれわれに教えてくれる。

画題:文清『維摩居士図』1457年 
      紙本墨画

   奈良 大和文華館
   田中一松ほか
      『原色日本の美術大
11巻 水墨画』
      小学館 
1970

         維摩(ゆいま)は
      大乗経典にでてくる架空の人物。
      インドの毘耶離(びやり)城の長者として
      在家のまま菩薩の業を行なったとされる。
      あるとき疾病に苦しんで、
      釈尊の弟子たちに、
      一切衆生の病苦するをもって
      自分もまた病み、
      一切衆生の病おわるとき
      自分の病もまた滅する
      といった。
      このときの苦悩する姿。