(注2)
(宝永6年6月、白隠、宗覚と会う)

 中村博二は、『白隠年譜』の意訳として次のように述べている。



 白隠は、正受菴を退散して翌宝永六年夏、静岡の菩提樹院で頂門が『正宗讃』を提唱するのを聴いている。白隠が、頂門は無難の法嗣であるとしていることは先に述べた。ここへ宗覚も飯山から来て留錫していた。散会の時、白隠は宗覚に次のように頼んでいる。
「老人も高齢なので再会は期し難い。どうか、貴兄が五位変尽の訣を老人から得て私に伝えて下さい」。
 宗覚は承諾して別れた。この頃白隠は知見・言句は甚だ明らかであるが、平生受用底で力がなく、動静矛盾して去就すべて脱洒でないことを自覚して、出でては動中の工夫を試み、入りては静処に禅定をこらし、ほとんど寝食を廃している。
        (中村博二『正受老人とその周辺』信濃教育会)



 白隠は、この時期はまだ、神秘体験Aの体験の後で突然襲ってきた虚脱感、倦怠感に苛まれていた程度であり、これではならじと懸命に坐禅に集中しようとしていた。

 宗覚は、このような状況を正受に報告しただけであったようだ。

 だが、この後休息に状態は悪化する。心気逆上、肺臓の痛み、両脚の冷え、耳鳴り、内臓諸器官の機能低下、不安神経症状、心神の疲労困憊状態、幻覚、発汗、催涙状態、が常態となってしまう。

 白隠はこの旨、宗覚に手紙で知らせたと思われる。

神 経 衰 弱 の 開 始

 前節で筆者はひとつの仮定を作った。

 白隠が23歳から25歳にいたる期間、すなわち彼の人格形成にとってもっとも大切であった3年間、彼を指導したのは信濃(現在の長野県)在住の正受であり、彼一人であった、という仮定である。

 では、このように仮定した場合、白隠ならびに正受の記述との照合関係はどうなるのか、いささか長くなるが、これから詳述することにしよう。

 まず、前節の仮定文のなかで(注)と記してある順番で調べていくこととしよう。

(注1)
(宝永511月、白隠が原宿に帰る)

 正受老人は、その後で、次の偈を作ったと考えられる。


  松城の小松氏の臘八の韻に和す

冷坐
(りやうざ)六年毛骨寒し。
星を見て了悟す太(はなは)だ端無し。
痴頑会()せず真解を生ず。
伶利(れいり)吹嘘して熱瞞するに耐へたり。


  松城の小松氏の臘八の詩に和す

冷たい坐禅六年は髪まで骨まで寒かった。
暁の星を見て真理を悟ることは甚だいはれが無い。
(おろか)で頑(かたく)なな者はこれが会得できず
に、却ってやがて真の解釈を生ずる。

小利巧な僧は理解したと吹聴(ふいちょう)して人を
甚しく瞞して平気で
ゐる。
(市川豊太、日本の禅語録十五『無難・正受』講談社)


 正受はまだ怒っていた。

 暁に鐘の音を聴いて真理を悟った、などと言う小利巧な僧は、そう話していることが、人を騙していることになるのに、気がつかぬものなのだ。

 このような見性を経験しても、それでもなんだかおかしいと思い、ひたすら自己に忠実に追究する頑なな男のほうが、その頑なさのゆえに、結局は真実に到達するものなのだ。

 白隠は生意気に、神秘体験Aをもってして、これが真理だと抜かしやがった。だから、彼を崖下に突き落としてやった。馬鹿は殺す、これが俺の主義なのだ。

……と読めばよい。

画題: 円山応挙
      『難福図巻』
1768 
      紙本著色

   滋賀 円満院
   吉沢 忠
      『原色日本の美術第十八巻 
                     南画と写生画』
      小学館
1969

 猛火に包まれて逃げまどう群集。
 このような事態では、
 人間は冷静な判断力を失う。

 方向感覚が失われることはもちろん、
 価値の感覚も失われることが多い。
 なにしろ、
 価値そのものが
「消えている」のだから。