画題:狩野休栄
「隅田川長流図巻」
宝暦(1751-64)〜明和(1764-72)年間前半
紙本著色 巻物
(両国橋)
大英博物館蔵
平山郁夫、
『秘蔵日本美術大観2大英博物館U』、
講談社、1992
白隠の晩年のころの江戸、両国橋風景。
恒常的に豊かな時代だったように見える
中村博二の提起した四つの疑問点を、合理的に解決すべき仮説は次の通りとなろう。
尚、注記については、あとで仮説の説明の部で細かく説明することとする。
正受は白隠が原村に帰ったのち、翌年の夏、宗覚を派遣して白隠の様子を観察させた。(注1、注2)
はたして正受の予想通り、白隠は強度の神経衰弱にかかっていた。世間では、この状態を神経衰弱と称するが、すでに読者はテレサのケーススタディーを済ませておられるから、その実体をご理解いただけよう。それは、神秘体験Aの領域から外れた心性の他の領域の探究過程にすぎない。ただし、本人は自分がその過程にあることを少しも自覚しないのである。
この際、宗覚は白隠にたいしてなんらの指示も与えず、引き続き連絡をとりあうことだけを約束させた。そして、白隠はその約束通り、宗覚と手紙で連絡をとり、事後経過の報告を続けた。勿論、この報告は逐一正受に伝わった。
その後半年経つあいだに、白隠の症状はますます悪化した。(注3)
これを知った正受は、宝永7年春(多分2月)、宗覚を派遣して、白隠を飯山に連れて来させた。(注4)
正受は白隠に開口一番次のように語った。(注5)
まず、禅病は病気ではないこと、それは神秘体験Aに到達した人間が事後かならず通るトンネルのようなものだ、と噛んで含めるように理屈を教え、内観の法を教え込んだ。
(注6、注7)
これで白隠は一息つくことができた。
白隠は、いったん、肩の荷を降ろしたのだが、ではいったいあれは何だったのか、考え続けた。
飯山の町を考え続けながら歩いていたとき、町の人に箒で打たれた。
この瞬間に、白隠には一切の謎が解けたのだ。(注8)
これが宝永7年4月末のことであった。
白隠は正受に自分の見解を話した。辻褄は両者のあいだでぴったり符合した。正受は自分の後継者がここに誕生したことを認めた。(注9、注10)
一方、白隠は職業僧であり、正受は僧侶ではなかった。私人であった。したがって、白隠は僧侶として、あらためて位のある職業僧より受戒することを望んだ。
正受は松本の恵光禅院を紹介し、白隠の僧侶としての新たな出発を祝った。(注11)
松本から帰ってきた白隠は正受に受戒を報告し、別れを告げた。
正受は白隠に飯山の正受菴を継ぐように希望した。白隠はこれを断った。原宿の松蔭寺を守らなければならないからだった。
正受は、白隠にたいしてあらためて、悟りの内容とそこにいたった経緯について一切の秘密を保つよう要求した。白隠はこれを了承した。ここに両者間の秘密協定が成立した。
(注12)
別れ際、正受は二里の山道を送ってきた。白隠は地面に平伏して感謝のこころを伝えた。(注13)
宗覚は正受の命令で、白隠を原村まで送りとどけた。このとき、宗覚は満31歳、白隠は25歳であった。
したがい、宗覚が原宿近辺に都合三回現われたわけである。
その後、白隠は正受にも宗覚にも会わなかった。会う必要がもうなくなっていたからだ。もちろん、正受も印可を授けたいじょう、これ以上白隠と会う必要を感じなかった。これ以上なにを話せというのか、と正受は開き直ったにちがいない。
これが一切のいきさつなのだが、しかし人間というものは秘密を守りきることが難しい。いや、秘密だからこそ、かえってポツリポツリ話してみたくなる。ところが、白隠は根は正直そのもの、篤実そのものの人間なのであるから、正受老人との協定は守らねばならない。だからそれを守った。結果として、白隠が弟子に話した物語は筋がまったく通らないことになってしまった。
このように考えれば、大方の筋は通ることになる。
かりにこれらの推定が間違いだったとしても、こう仮定したほうが、正受、白隠の遺した書き物は、はるかにうまく説明されると思われるのだが、いかがだろう。