仏教に関する「金」の記述 (1)

『中国の仏教美術』水野清一 平凡社 昭和43
「北魏石仏の系譜」-平城時代―からの引用

P67

 北魏の建国は西暦386年であり、天興元年(398)
なって平城の都が今日の山西省大同にはじめられた。
これで南京に都した南朝との対立がはじまるわけで
あるが、南朝の宋が東晋のゆずりをうけたのは永初
元年、西暦
420年であり、北魏の中国北部統一も、
太延五年
(439)の北涼討滅までかかっているから、名
実ともに南北朝の対立がはじまったのは、まさに西
暦四三九年からである。それで、ここまで四二年間
を北魏史の第一期とする。つまり創業時代である。
この時期の仏像は、一片もつたわっていない。石仏
史でいうと、まったく空白の時代である。


 多少とも石仏の資料がみつかるのは、太武帝統一
以後の太平真君年間
(440-450)からである。しかし、
その後、間もなく太武帝は、司徒崔浩を信頼して廃
仏を断行する。廃仏は七年間つづき、太武帝の崩御
でおわりをつげ、第四代文成帝の興安元年
(452)十二
月、復仏の詔によって仏教は復興し、造像は以前に
もましてさかんになった。まず興安初年
(452)の帝身
に擬した石仏、
興光元年(454)の五級大寺における太祖
以下五帝のための丈六金銅仏五躯
、ついで和平初年
(460)にはじまる武州塞の大石仏五所、つまり雲岡石
窟の開始(魏書、釈老志)、かくて空前の石仏時代
を現出するのであるが、これは同時に北魏史の最盛
期である。これを第二期とする。


 第二期は太和十八年(494)の洛陽遷都でおわり、雲
岡石窟の造営にかわって、竜門石窟の造営がはじま
る。けれども、竜門石窟の規模は、とうてい雲岡石
窟におよばない。もはや鮮卑族に力がなく、帝室に
も力がない。かれらは経済的基盤をなくし、部族的
な統合をうしなって、漢人に寄食するばかりになっ
た。したがって積極的な建設の力にとぼしく、洛陽
の経営だけで手にあまるものがあった。これが北魏
の洛陽時代であり、第三期である。その末年、第八
代孝明帝のときから内外ともに紛争をきわめ、つい
に西の宇文泰、東の東西魏に分裂するにいたった。
これが五三四年である。

画像:
雲岡石窟
9窟前室の西北隅。
画面右手の北壁上部に明かり窓があり、下部の拱門で主室に通じる。
P135
『中国「世界遺産」の旅』第二巻 中原とシルクロード
鶴間和幸
(株)講談社 2005

『中国の仏教美術』水野清一 平凡社 昭和43P18

孫皓の金像


 これに関連しておもいあわされるのは呉の孫皓(264-280)である。
はなしは僧佑の『出三蔵記集』巻一三康僧会伝にみえる。衛兵が後
宮の園中で「一立金像」をえたという。たかさ数尺。これを孫皓に
献上した。皓はもとより乱暴な天子であったから、これを厠中にお
き、たまたま四月八日には灌仏と号して尿をかけ、群臣とともに大
笑したという。ところが夕がたになると陰嚢がはれあがり、いたみ
にたえずわめきさわいだ。太史がうらなって大神のたたりだという
ので、諸廟にいのらせたが、苦痛はますますつのるばかり。たまた
ま綵女の言をきいて像を殿中にむかえ、香湯にて数十回あらい、焼
香懺悔するとやっと平癒した。これはもとより一種の感応伝説で、
そのまま信ずることはできぬし、成立した時代もわからないが、立
金像というのはおもしろい。それにここでも四月八日の灌仏がかた
られているので、それが初期仏教の祭儀として重要なものであった
ことが察せられる。中国ではふるい時代に灌とか、「か」(さんず
いに果
と書く)とかの一連の語でよばれる降神儀礼があった。それが
どうつたわったかわからないけれども、とにかく漢代まではつたわ
って、そしてそういう固有の観念がやはり灌仏の儀礼をうけいれや
すくし、また同時に仏像そのものに仏をみ、また仏の威霊をみとめ
るようになったものとおもう。塔の仏像であるから仏伝の像である、
灌浴するから、あるいは錦綵をきせるからはだかの像であった、い
わば誕生の釈迦像であったというのは、すこしうがちすぎている。
やはりどちらもふつうの仏像、おそらく釈迦像であったろう。

『中国の仏教美術』水野清一 平凡社 昭和43年 P17


 笮融の浮屠祠のことは陳寿(279)『三国志』巻四
九劉繇伝
にみえている。献帝の初年、徐州の牧、陶謙の
もとにいた笮融は広陵、下邳、彭城の税運を監督してい
たが、専横にもその税をよこどりし富裕なるままに一寺
を建立した。その年時は大谷勝真氏の研究によると中平
六年
(189)から初平四年(193)までの間にあるという。


大いに浮屠祠をおこす。銅をもって人をつくり、
黄金もて身にぬり、衣(き)するに錦采をもっ
てす。銅槃をたれること九重、したに重楼、閣
道をつくる。三千人をいれるべし。ことごとく
課して仏経をよましむ。界(さかい)のうち、
および旁(となり)の郡の人をして仏をこのむ
ものあらば道をうけるをゆるし、その他の役を
復(ほく)し、もってこれを招致した。これに
より遠近前後していたるもの五千余人。戸ごと
に仏を浴し、多く酒飯をもうけ、席を道にしき、
数十里をふる。民人のきたりみるもの、および
食につくもの万人にちかく、費(ついえ)は巨
億をもってはかる。


 右は袁宏の『献帝春秋』によったものとおもう。范曄
の『後漢書』巻一〇三陶謙伝
にも似たような記事がある。
銅槃九重は相輪のこと。重楼は層塔のこと、閣道は廻廊
のことで、層塔を中心にし廻廊をめぐらした寺である。
そしてそのなかに塗金の仏像をつくり、錦綵をきせた
である。


 楚王英の浮屠祠、桓帝の浮屠祠は厳密にいって画像で
あるか、彫像であるかわからない。ここのは、はっきり
彫像であり塗金の銅像である。だから魏の張晏が「仏徒
金人をまつるなり」(漢書 巻五五、索隠所引)とい
って、休屠金人の解釈としたのもこの時代の反映といえ
よう。それにしても金銅像のうえに錦綵をきせるという
のは、どうしたわけであろうか。これはわれわれがふつ
うみるように彫刻とはみないで、一種の偶人としてみた
からである。墓などにいれる「ひとがた」の意味である。
のちの時代には、仏の形像によりいまはなき仏をしのぶ
というのであるけれども、ここでは形像そのものが仏で
あり、また仏の霊威を分有するとするのである。中国人
の初期の仏像信仰をものがたっている。仏像の霊験はい
つの世にもとかれるけれども、この時代にとくにつよい
のもこういう関係からであろう。

仏教伝来以来、諸文献に現われる「金」に関する記述を取り出して整理してみよう。

筆者の浅学のせいで、限られた材料しか拾いだせていない。諸兄のご指摘をお待ちしたい。

画像:
255
如来立像
北魏 太平真君4(443)
銅造鍍金 高53.5cm
東京都、文化庁
『世界美術大全集』三国・南北朝 東洋編3
曽布川 寛、 岡田 健
小学館 2000

画像:
Reliquary in the Shape of a Stupa (Relic Mound), ca.
4th–5th century
Pakistan (ancient region of Gandhara); ancient region of
Gandhara, Pakistan
Bronze; H. 22 3/4 in. (57.8 cm); W. 7 1/2 in. (19.1 cm)
Gift of Mr. and Mrs. Donald J. Bruckmann, 1985
(1985.387a, b)

The
Metropolitan Museum

http://www.metmuseum.org/works_of_art/collection_database/
asian_art/Reliquary_in_the_Shape_of_a_Stupa_Relic_Mound/View
Object.aspx?depNm=asian_art&Title=Reliquary_in_the_Shape_of_a_
Stupa_Relic_Mound_&pID=0&kWd=&OID=60005903&vW=0&Pg=6
&St=5&StOd=1&vT=2

画像:
http://www.museeguimet.fr/Buddha-debout

Buddha debout / Province du Shaanxi,
Yungang, grotte 26
陜西省雲崗第26洞
Dynastie des Wei du Nord (386-534)
Calcaire gris rosé
H : 129 cm
Don Weill
EO 2730

フランス国立ギメ東洋美術館

 だから、北魏史をわかつと、


 第一期(398-439) 平城遷都より統一にいたる四二
    年(道武帝、明元帝、太武帝)

 第二期(439-494) 統一より遷都にいたる五五年
   (太武帝、文成帝、献文帝、孝文帝)

 第三期(494-534) 遷都より分裂にいたる四一年
   (孝文帝、宣武帝、孝明帝、孝荘帝、節閔帝、
    孝武帝)


の三期になるが、ここでとりあつかうのは北魏の平
城時代、つまり第一期と第二期である。ただ第一期
に関するかぎり、なんの資料ものこっていない。し
たがって、事実は第二期だけをとりあつかうことに
なるのも、またやむをえないしだいである。

『中国仏教史』鎌田茂雄 岩波書店1979 P158


 
仏像の鋳造 後漢末(190)、笮融が徐州地方に建てた仏寺と
その金銅像とが中国最古のものといわれる。楚王英の浮屠祠や、
桓帝の浮屠祠が厳密にいって画像であるのに対して、笮融の浮屠
祠は彫像であり塗金の銅像である。(『三国志』呉志巻四十九、
劉繇伝
)。三国呉の孫皓は金像を献上させた(『出三蔵記集』巻
十三、康僧会伝
)。なお康僧会は建初寺を建立した。後漢末から
三国にはかなりの仏像・仏寺が造られた。現存する金銅仏の最古
のものは建武四年
(338)に造られた。


 金人とか金像と記録されたものは金銅仏であった。初めの仏像
は神仙像的であった。初期の仏教教学が老荘の教義を借りて表現
した格義仏教と同じである。その後、五胡十六国時代から塑像が、
続いて石像が造られた。