書  き

画像:

2006.12.15撮影
Ananda Temple, Bagan, Myanmarにて。

注:Anandaとは誰か?
      釈尊のお世話をした待者、阿難がAnanda

くわしくは
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa28.html
を参照のこと。

河野信次郎
『金澤箔の沿革と現況』
河野金属箔粉株式会社、
昭和41年(1966)
を参照のこと。

 私は「ご縁」があったのだろう。石川県金沢市の箔屋の息子として生
まれた。

 長男ではなかったから家督を継ぐ必要もなく、自分の好きなように人
生を歩んだのだが、その初めの段階では「箔屋」がついてまわった。と
いうよりも、一代で財をなした父親の意向にそって動いたのである。

 父親信次郎は、明治25年京都で生まれた。その当時は誰でもそうだっ
たのだが、家庭は貧しく、教育は尋常小学校、いまでいえば小学校四年
生までの貧弱な教育を受けたにとどまる。このために私の父は、学力不
足による劣等感に悩まされ続けた。

 父親は、尋常小学校を卒業すると同時に丁稚奉公に行った。行った先
はまず菓子屋。そしてその次が、箔屋だったらしい。

 箔屋というのは、あとで述べるが江戸時代の初めは江戸と京都の二箇
所に金座があり、金箔をつくるのも江戸と京都に限定されていた。そこ
で父親は京都の児玉さんという金箔屋で丁稚に入り、そこで金箔の製造
法を身につけた。

 江戸時代の文献に京都の児玉某が金箔としては記録破りの「七寸角」
を製造した旨書かれている。その児玉家なのか、別の児玉家が京都にあ
ったのかわからないが、箔屋というのは狭い世界だから「その児玉家」
だったのだろう。当時としては超名門の箔屋で修行したことになる。

 学力不足で劣等感に悩まされていた私の父信次郎(のぶじろう、と読
む)は、児玉家の秀才の息子さんを羨ましがった。この児玉信次郎さん
(同じく信次郎と書くのだが、しんじろうと読む)は大秀才であって、
湯川秀樹博士の親友であり、後に住友化学の副社長になった。この児玉
家の秀才が京都大学工学部工業化学科の教授をされていた関係で、私の
父親は、自分の息子にも、誰でもよいから京都大学工学部工業化学科に
入学してほしい、と願ったのである。

 私は、男のなかでは末っ子であり、ラストバッターだっただから、父
親の願いを無視することはできない。私は父親の願い通り、京都大学工
学部工業化学科に入学したのである。

 こういうことで、こういう因縁に突き動かされて、現在は箔業とはま
ったく関係を持たないにもかかわらず、京都大学美術研究会
OB会で「金
箔と仏像」という講演をすることになった。

 このwebsiteはその講演をベースとしている。

 日本には、金箔に関する系統だった研究書がほとんどない。研究発表
を纏めた本もない。だから、この機会に金箔に関する文献を網羅するこ
とに主眼をおき、ついでに日本の文化財の保存方法につき私見を述べさ
せていただくことにした。


 筆者はこの
websiteの内容につき、はじめから不完全な纏め方であると
自認している。間違いや欠陥が沢山あるに違いない。そのような箇所を
見つけられた方にはぜひご指摘をたまわりたい。


 「ご縁」によりたまたま纏めることになったこの内容が、日本の箔業
と文化財の保存に役立つならば、まことに嬉しい。