にもかかわらず、私は(筆者は)この本の邦訳が1970年に日本で
出版されたとき以来、この本を愛読していることを告白しなければ
ならない。西欧人が新約聖書を愛読するように、わたしもこの『宗
教的経験の諸相』を愛読する。この本だけが私の心を慰めてくれる
からだ。一時期、わたしは
Bの境地に陥り、ほぼ一年間もこの絶望
的な境地でもがき苦しみつづけた。私の心はひどく傷ついた。私の
相談相手は誰もいなかった。このように傷ついた私の心を慰めてく
れるのは、世界にたった一冊、『宗教的経験の諸相』があるだけだ。
それはまるで私にとっての、西洋人にたいする新約聖書のようなも
のである。ジェイムズが百年前に著述した一冊の本だけが、私の心
をやさしく理解してくれる、そう考えている。

 人間にとって大切なことは、「わたしは一人ではない」という観
念が得られることだ。仮にこの本が、安易な妥協に満ち溢れた結論
を提供することがなくても、
B onlyの絶望的な境地を描きだしてく
れるだけでよい。それによって私の心は慰められる。そういう意味
の、常備薬的な効能がこの本にはある。だから私にとって、この本
は、まるで「キリストの再来」という感じがする。苦しんだ人の魂
の記録である。なくてはならぬ一冊の本である。そういうわけで、
『宗教的経験の諸相』に永遠の栄光があるようにわたしは祈ってい
る。

 ではジェイムズの結論は? と諸君は聞かれることだろ
う。

 第十八講で( P268)でジェイムズは述べる、「しかし
理性はついにとうてい信仰を生み出すことはできないし、
信仰を保証することもできない」。だが、ジェイムズはこ
の言葉とは裏腹に、一生涯いかなる信仰にも陥らなかった。

 諸君はすでに気がついておられることだろう、と筆者は
想像する。そう、この本『宗教的経験の諸相』はいかなる
結論をも提供してはいない。もともと
B onlyの世界に対処
法だとか、結論などというものは存在しないのだ。そんな
に簡単で安易な結論があれば、超秀才であったルターが
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年間も考えつづけるはずがないではないか。

 ここまで書いてきた筆者だが、私はこれ以上
筆を進める必要がないように思う。
筆したい。
いまさらひとのあらさがしをしたって意味がな
い。また、わかりきったことを分析する必要性
をあまり感じない。

 宗教とは畢竟「信じること」であり、「信じ
る」ためにはいつかはかならず自己を放棄しな
ければならない
( P290)。「考える」人間、
つまり「哲学する」人間は、普通は自己放棄を
しない。信じることができるくらいなら、初め
から考えない。

 また、自己放棄をした人間を観察する機会に
私たちはめぐまれている。自己放棄をした人間
からは「主体性」の全部あるいは一部が抜け落
ちている。いったん折れた心は元の状態に戻る
ことがない。

 つまり、信心は私たちの心に不可逆反応、元
に戻れない自分、を提供するものなのだ。

 こういう観点からして、ジェイムズは、精神
治療も回心も禁欲主義も、検討はしたが放棄し
た。薬も一度は試用したが、結局はやめた。

痛 ま し い 結 論

 私たちは前章で、神秘体験Bに襲われた人間の絶望感を深く
観察させてもらった。ジェイムズが語る「恐怖の塊」の中身は、
虎の突撃」のエピソードで表現されるように「血を凍らせ心
臓をしびれさせる」類のものであった。

 ここに、「助け給え、助け給え、という宗教的問題の真の
核心
がある」とジェイムズは語った。
(上巻 P246)

すなわち、「(現世の)地獄から救われる」ことが宗教の目
的だと判断し、あらゆる手だてを彼は彼自身の魂のために講じ
たのである。精査した領域は次の四つである。

              精神治療
              回心
              禁欲主義
              薬物による回心

 これらの領域の探査結果を彼は詳細に報告するのだが、結果
として彼はこれらの方法のどれ一つをも採用しなかった。採用
しなかった理由をジェイムズ自身がのべているくだりを引用し
て簡単にすませよう。

 つまり、ジェイムズは、A経験がない
のに哲学者のふりをして、従って、哲学
や宗教の常識的なカテゴリーを無視して
宗教と哲学を論ずるにいたった。

 なにが彼にとってのmotivationであっ
たのか?

 彼は、「救い」をもとめたのである。
Bの世界ときっぱり絶縁して、「安寧の
世界」、「健全な心」にもどりたかった。
そのために、ありとあらゆる方法を精査
した。

さあ、私たちはこれから、ジェイムズが「救われる」ことを目標と
して精査した実例を調査することとしよう。これから私たちが調査す
る領域は、私たちが一般に哲学とか宗教とか称しているオーソドック
スな哲学や宗教の領域の枠外、いわば「いかもの」とか「いかさま」
の領域なのであるから、深く踏み込む必要はない。大雑把に、要点を
把握する程度で決着はつく。また、これらの「いかもの」をどれだけ
研究しようと、「いかもの」から遡って、キリストや仏陀やムハンマ
ドの精神に到達することもできないのだ。