1. フランスの養育院の患者
 『宗教的経験の諸相』上 P225

「私は、この病院で、精神的にも肉体的にもひどく悩んでいます。熱病
と不眠(ここに閉じ込められてからというもの、私は眠れなくなってし
まい、ちょっと休んだかと思うと、悪夢にすぐ安眠を破られるのです。
そして、夢魔や恐ろしい幻影や稲妻や雷鳴などのために驚いて目をさま
し飛び起きてしまうからです)のほかに、恐怖、ひどい恐怖が、私をお
さえつけ、息をつくまもなく私を
んで、けっして放してくれません。
こんな報いをうけなければならぬ理由がどこにあるのでしょう! こん
なひどいむごい仕打ちを受けねばならぬ、一体どんなことを私はやった
というのでしょうか? どんなふうに、この恐怖は私を打ちひしいでし
まうのでしょうか? 私を私の生活から抜け出させてくれる者がいたら、
どんなに感謝することでしょう! 食べて、飲んで、一晩中まんじりと
もしないでいて、間断なく苦しむ――それが、私が母から受け継いだ結
構な遺産なのです! このような力の濫用は、私にはとても理解できな
いことです。なにごとにも限度というものがあります。中庸というもの
があります。しかし神は中庸も限度もご存じないのです。私はあえて、
神、といいます。なぜでしょう? 私がこれまでに知ったことはすべて、
悪魔の仕業でした。つまり、私は悪魔を恐れるのと同じように神をも恐
れているのです。ですから私は、自殺のことしか考えずに、そのくせ、
自殺を決行するだけの勇気もなければ、またその手段もここにはない

で、ずるずる暮らしているのです。この手紙をお読みになるにつれて、
あなたには私が精神病であることがすぐお分りになるでしょう。文体も
思想も実に支離滅裂です。――自分でもそれが分ります。しかし、私は
気が狂うか白痴(ばか)になるかするしかないのです。そして、こんな
状態で、いったい私は誰に憐れみを乞えばよいのでしょうか? 私を棒
縛りにしてしまう目に見えない敵に対して、私は無防備なのです。たと
いいまの敵の姿を見とどけたところで、あるいは、かつて見て覚えてい
るとしても、私はその敵に対してこれ以上に武装に身を固めることはで
きないでしょう。ああ、早く殺してくれ、こん畜生! 死、死、それだ
けが願いだ!
 しかし、もうよしましょう。私は長々ととりとめもなく
たわ言を申しました。そう、たわ言です、だって私には考える力も思想
も残されていないので、たわ言のほか何も書けないからです。おお神よ!
生まれるということは、何という不幸でしょう! 確かに夕方から朝ま
での命しかない、茸(きのこ)のような運命をもって生まれるのは。大
学で哲学を勉強していた時に、私は厭世主義者たちといっしょに人生の
辛さをいろいろと反省しましたが、あの頃の私は、どんなに真実でまと
もであったことでしょう。
ほんとうに、そうです。人生には喜びよりも
苦しみのほうが多いのです――人生とは墓場まで続く一つの永い苦悶で
す。考えてもみて下さい。とても口では言えないこの恐怖と結びついた
私のこのおそろしい悲惨な状態が、なお五十年も、百年も、もっとそれ
以上、どれだけの年月のあいだ続くかしれないと思うと、私は実に浮き
浮きしてくるのです。
(1)

(1) Roubinovich et Toulouse : La Mélancolie, 1897, p. 170, abridged.

筆者注:

 憂鬱病患者のセカンド・ステップがはじまる。

  苦痛をこらえ続けると、身魂が遊離してくる。
   私の魂が私の身体を認識してくれない。
   外界は手の届かない遠所に遠ざかる。
     世界が縁遠く、よそよそしく、不吉に、気味悪く見える
     わたしは見る、私は触れる、しかし事物は私に近づいて
   来ない。

     芝居のなかにいるような、

 マイナスのエネルギーが蓄積したときに観察される症状であ
る。マイナスの基底状態に近づいたと考えたらよい。

 芥川龍之介ウェルテルの該当部分を参照してください。


    多数のひとがこの現実虚像状態(現実は現実なのだがとても
   現実とは思えない心象)が出現したとき驚いてしまう。いまま
   で経験したこともないような異次元の世界があなたを囲繞する
   からです。でも、驚くにはまだ早いのでしょう。真の
B体験は、
   この現実虚像状態を、なおもこらえ続けたときに初めて出現す
   るからです。

筆者注:

この文章は極めて雄弁に筆者がおかれている状況を説明してい
る。

 彼に(大学卒業後いくばくかの時期に)生じた事態は次のよう
なものであった。

突然、理由もなしに、憂鬱病に取りつかれた。
ひたすら「死にたい」という気持ちである。
何故「死にたい」のか、その理由が本人にはわかっていな
い。

死にたいのだから「死のう」と思い、いろいろやってみる
のだが、決心できない。

やりたいことをやれないから「苦痛」である。
「理由がわからない」ことが苦痛である。
「頭がよい」はずであった私に「わからないことがある」ことが苦痛である。
「わからないことがある」から不眠になる。
どうやったら脱出できるのか、出口がみつからない。
体力が衰えていく。
ああ、早く殺してくれ、こん畜生! 死、死、それだけが
願いだ!


 誤解をさけるために説明しますが、ある日、突然に、「死にた
い」という意識が発生しているのです。理由もなく、突然に、
「死にたい」という欲望が生じてくるのが「憂鬱」という事態な
のです。アヴィラのテレサの
該当の箇所を参照してください。ゲ
ーテの『
ウェルテル』のひそやかな侵入の記述を参照なさってく
ださい。突然のことであり、理由はなし、という事態が読み取れます。これが憂鬱病の第一段階です。

フランスの患者・保養所の患者

2. 保養所の患者
 『宗教的経験の諸相』上 P230


 憂鬱症患者の場合にも、よくこれと同じような変化が起こるが、ただ
その方角が逆である。つまり、世界が縁遠く、よそよそしく、不吉に、
気味悪く見える
のである。世界の色は消え、呼吸(いき)は冷たくなる
世界のいからした目のなかには思索の余地などありはしない。保養所の
一患者は、「私はまるで違った世紀に生きているような気がする」とい
っている――また別の患者は、「わたしはあらゆるものを雲を通して見
、事物が以前とは違って見える。私自身が変わってしまったのだ」と
いっている。――また別の患者はいう、「わたしは見る、私は触れる、
しかし事物は私に近づいて来ない
。厚い幕が、あらゆるものの色合いや
様子を変えているのだ。」――「人間が影のように動き、もの音は遠く
の世界から響いてくるようだ。」――「わたしにはもうどんな過去もな
い。人々がとてもよそよそしく見える。私は現実の世界を見ることがで
きなくなったような気がする、まるで芝居のなかにいるような気がする。
人々は役者で、あらゆるものが道具立てのようだ。私にはもはや自分が
わからない。私は歩く、しかし、なぜだろう? あらゆるものが、私の
目の前を浮動するが、なんの印象も残さない。」――「泣いても、流れ
るのは空涙である。私の手はあっても無いような感じだ。私の見る事物
はほんとうの事物ではない。」――こういう言葉が、憂鬱症にかかった
人間が自分の変化した状態を述べようとする時に、自然にその唇にのぼ
る言葉である。
(1)

  (1) 私は、これらの実例をG.Dumas : La Tristesse et la Joie, 1900.
から抜粋した。