先にも述べましたが、
 A体験とB体験の場合、すなわち神秘体験の場合は、
           心は蓄積されたエネルギーで励起状態に駆け上がる。
           これは、エネルギーの増大に伴う波長の一時的な短縮化と
       考えられ、

          10分ほどの時間の経過ののちにエネルギーは放出されて
       もとの基底状態にもどる。

            波長ももとの波長にもどる。
          つまり、心は完全にもとの状態に帰る。
          つまり、言葉を変えれば、この作用は可逆的である。

 ところが、
  「回心」にあっては
           (+)領域の意識と(-)領域の意識が併存している普通の心の
        状態を

           主として、集団的熱狂状態の下に、無理矢理に、
             (-)領域の意識だけを選択的に消去させる。
             仮説である神の存在を信じこませ、自己を棄てさせる。
           消去された(-)領域の意識は決して取り戻すことができない。
           元にもどらない。
           つまり、「回心」は不可逆的な作用なのである。


 結果として、信仰した人間と、信仰しなかった人間との間に、決定
的な差が生じる。信仰しなかった人間(理性的人間と名づけるべきか)
と信仰してしまった人間のあいだで相互理解が不可能になってしまう。
あなたの周囲におられる人間のなかで、心理操作を施された人間をあ
なた方は容易に発見できる、という事態になる。

 私の言い方でご理解いただけないかたには、次のようにご説明した
ほうが分りやすいかもしれない。


 信仰復興主義、回心、聖徳実践については、次の事項が成立要件と
なっている。

1. 究極の目標(幸福とか安寧とか善とか)が設定されており、
2. その目標を達成しようとする心と反対する心とが拮抗しているから、
3. 目的を達成するためには、反対する心を押しつぶす必要があるが、
4. それを達成してくれるのは神であると信じて、神の前で自己放棄す
  る。「あなたにすべてを捧げます」と誓う。

5. するとその瞬間に、大きな力が流れ込んできた感じがして、喜悦の
  心が溢れ出る。

 日本でも新興宗教で同様の心理操作が実行されている。集団的な熱
狂状態の下で実行される「折伏」という名前の「心の折り方」がこれ
である。折伏された瞬間に喜悦の心は発生するから、信者は喜ぶのだ
が、通常の人は「自己放棄」ができない。インテリならばなお一層で
ある。

 このような心理操作は、宗教の枠外にあり、新興宗教のような金の
巻き上げが必要な宗教団体によって実行される心理操縦なのである。
真の宗教行為ではなくて、疑似、あるいは変性の宗教行為なのである。

神 秘 体 験 と 回 心 の 差

しかし、考えてみようではないか。いったい誰に
彼を責める権利がもてようか。人間にはそもそも神
秘体験に到達する絶対確実の選択権など与えられて
いない。私は神秘体験
Bよりも神秘体験Aのほうが好
きだから、
Aを選択したいと希望する権利などまった
くあたえられていない。もちろん、
Bにたいしての選
択的拒否権もあたえられていない。

選択することの許されない神秘体験に逢着した人
間の「救世の願い」を「悪趣」として切り捨てる権
利なども、もちろんのことだが、私たちにはあたえ
られていない。

ウイリアム・ジェイムズは、このような最悪の状
態に陥った人間の立場を代弁し、彼らの立場の正当
性を主張するために立ち上がった、と考えられる。

このような人間は、イエス・キリストの後の西欧
世界に出現したはじめての人であった、と思われる。
天才と呼ぶこともできよう。このようなひとこそ
「聖徳のひと」と呼べるのではなかろうか?

実利主義者に『宗教的経験の諸相』を批評させると次のように
なるだろう。


        psychological manipulationの方法につき、
        つまり、
        信仰復興主義、自然主義、回心、聖徳実践、薬物等々につき
        あれやこれや、と比較検証することには実利がない。
        本人に哲学が欠如しているときは、
        自己放棄による信心以外の方法はないからだ。
        W.Jはインテリだから信心しない。
        自己放棄をしない。
        だから、単に「時間の無駄」という結果になる。

ということになろう。

 ウイリアム・ジェイムズは、救われたいばかりに、これらの疑似宗教事
例を調べ上げた。だが、本人はこれらの心理操作には乗れなかった。彼は
教育程度が高すぎて、理性が強すぎて、自己放棄ができなかったからだ。
だから、彼は結局
Bの世界から抜け出せなかった。


さきにも述べたように、B2タイプであるウイリアム・ジェイムズは

1.  Aの経験がなく、従って、Aも、B after Aも、A after Bも理解する
  にいたらず、

2.  しかも原体験が同一であるB1タイプにも理解がおよばず、
3.  「インテリならば信心は無理」であることを知りながら、実効のない
  信心の可能性を探求し、

4.  歴史的に成功実績のない薬物の試用に走り、


まあ、一言でいえば、悪趣の世界を転げ回った。犬畜生の世界から脱け
出そうとして「実利という見返りがない」努力を惜しまなかったのである。

ウイリアム・ジェイムズは、「緑がかった
皮膚の色をした、髪のくろい青年で、まった
くの白痴の癲癇病患者」の姿が自己の本質で
あると認識した。この状態から、
なんとかし
て「救われる」方法をみつけたかった。だか
ら、
psychological manipulation(心理操作)
の領域にはいりこんだ。新興宗教と薬物の領
域に入り込んでしまったのだ。

 実際、信仰復興主義、自然主義、回心、聖徳実践、薬物等々によっ
て、
『宗教的経験の諸相』という本は効果の期待しえない諸法の解説
によりひどくよごされている。だから、『宗教的経験の諸相』という
本をうまく読みこなす場合は、いったんこれらの「救いの方法論」を
取り外し、宗教のコアのみに的をしぼり分析したうえで、あとから諸
法の実利的分析をおこなうほうが実際的である。