こういうわけだから、このように知りな
さい、「般若波羅蜜多は

これ大神呪なり。


これ大明呪なり。


これ無上呪なり。(無上のことばである)
これ無等等呪なり」と。(仏性と慈悲をあ
らわすことば)

この般若波羅蜜多という真実の智慧は不思
議な力がある。これは偉大な智慧のことば
である。(呪はマントラ)
一切の苦しみを除き、

真実にして、虚妄ではないがゆえに、


-

-

ガテー。「往ける者よ、往ける者よ」


パーラ=彼岸。「彼岸に往ける者よ」

パーラサンガテー=「彼岸に全く往ける者
よ」

ボーディ=「さとりよ」、スヴァーハー=「幸いあれ」

故に知るべし、般若波羅蜜多

これ大神なり。


これ大明なり。


これ無上なり。

これ無等等なり。


よく一切の苦を除き、


真実にして虚ならざるが故に。


般若波羅蜜多のを説く。

すなわちを説いて曰く、

掲帝 掲帝


般羅掲帝


般羅掲帝

菩提

こーちーはんにゃーはーらーみ
ーたー

ぜーだいじんしゅー


ぜーだいみょうしゅー



ぜーむーじょうしゅー


ぜーむーとうどうしゅー


のうじょーいっさいくー


しんじつふーこーこー



せつはんにゃーはーらーみーた
ーしゅー

そくせつしゅーわつ


ぎゃーていぎゃーてい


はーらーぎゃーてい


はらそうぎゃーてい



ほーじーそわかー




はんにゃしんぎょう

「菩提」は」「さとり」。「薩タ」は「生
きもの」「人」。
「道を求める人」は、(略して「菩薩」)
般若波羅蜜多=完全な智慧、によるがゆえ
に、
心にさわりがない。


さわりがないから、

何かを恐れるということもない。


そこで、一切の

顛倒した、まちがった妄想を離れて、

涅槃(ニルヴァーナ)=究極の境地を体得
することになる。

「三世諸仏」とは過去・現在・未来のもろ
もろの仏さまのこと。その仏さまがたもみ
な、

般若波羅蜜多によるがゆえに、


阿耨多羅三藐三菩提、つまり無上の正しい
さとりを得られた。

菩提薩捶は、

般若波羅蜜多に依るが故に、


心に圭礙なし。


圭礙なきが故に、

恐怖あることなく、


[一切の]

顛倒夢想を遠離して


涅槃を究竟す。

三世諸仏も


般若波羅蜜多に依るが故に、

阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

ぼーだいさつたー


えーはんにゃーはーらーみーた
ーこー

しんむーけーげー



むーけーげーこー


むーうーくーふー


おんりーいっさい


てんどうむーそー



くーぎょうねーはん


さんぜーしょーぶつ


えーはんにゃーはーらーみーた
ーこー

とくあーのくたーらーさんみゃ
くさんぼーだい

シャーリプトラ、

このいろいろのものは空を特質としている。

いろいろな力が加わって生じたり滅びたり
して
いるが、高い立場から見ると、ただ偉
大なる
ひとつの理があるだけである。
したがって、汚れることもなく、浄くなる
こともない、
増えることもなく、減ることもない、ただ
偉大な真実がそこにあるだけだ。

こういうわけだから、空のなかには、

物質的なかたちもなく、感受作用も、表象作
用も、
形成作用も、識別作用もない。
「六根」、すなわち眼と耳と鼻と舌と身体(触覚)の五つの感覚器官に加えて、思考する器官の六つ。
六根に応ずる対象が、色(物質的なかたち)
・声(耳で聞く)・香(鼻で感じる)・味
(舌で感じる)・触(身体で感じる)・法
(思考器官で思考されるもの)に固定的な実
体はない。

それらおのおのの領域、すなわち眼界から
意識界にいたる六つの領域をふくめ、合計
一八の領域すべてが固定した対象を持ってい
ない。

われわれは縁起説で説かれる縁起の根本たる
「無明」、すなわち迷いのなかで生存し、死
ぬわけであるが、全体としては無明というこ
ともなく、

また、無明がつきてさとりを開くということもない。
老い、死ぬということもないし、


また老いや死がなくなることもない。

さらに、苦・集・滅・道もない。
「四諦」(四つの真理)。
われわれがいま苦しんでいる「苦」、その
苦しみのもととなる「集」、その苦しみを
なくした境地である「滅」、そこに行くた
めの道を「道」。

高い立場から見れば、何も分けて説く必要
はない。さとる智慧というものもなければ、
何かを得るということもない。
得るところが何もないからだ。


『摩訶般若波羅蜜多心經』

略称『般若心経』

本文ならびに音読は、大本山永平寺発行『修證義』より。(一部改変)
書き下し文は、『仏典を読む3 大乗の教え(上)』中村元 岩波書店 2001より。

写真:
白山スーパー林道
2005年11月撮影。

サンスクリット原文からの現代語訳

全知者である覚った人に礼したてまつる。

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するもの
には五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、そ
の本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。


シャーリプトラよ、

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質
的現象で
[あり得るので]ある。

実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、
実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

[このようにして、]およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである
。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。


これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ、

この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じた
ということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたも
のでもなく、減るということもなく、増すということもない。


それゆえに、シャーリプトラよ、

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意
志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心
もなく、かたちもなく、声もなく、香もなく、味もなく、触れられる対象もなく、心
の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。


[さとりもなければ、]迷いもなく、[さとりがなくなることもなければ、]迷いがなく
なることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもな
いというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦
しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るという
ことがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく
住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠
の平安に入っているのである。


過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、
この上ない正しい目ざめを覚り得られた。


それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言(しんごん)、大いなる
さとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽
りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。

            ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー

     (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとり
     よ、幸あれ。)


ここに、智慧の完成の心が終わった。

                            (『仏典を読む3 大乗の教え(上)』中村元 岩波書店 2001

故知般若波羅蜜多。

是大神呪。

是大明呪。

是無上呪。

是無等等呪。

能除一切苦。

眞實不虚故。

説般若波羅蜜多呪。

即説呪曰。

羯諦羯諦

波羅羯諦

波羅僧羯諦

菩提薩婆訶


般若心經

舎利子よ、

この諸法は空相にして、


生せず、滅せず、


垢つかず、浄からず、


増さず、減らず、

この故に、空の中には、

色もなく、受も想も行も識も
なく、

眼も耳も鼻も舌も身も意もな
く、
色も声も香も味も触も法もな
し。

眼界もなく、


乃至、意識界もなし。


無明もなく、


また、無明の尽くることもな
し。


乃至、老も死もなく、

また、老と死の尽くることもなし。


苦も集も滅も道もなく、



智もなく、また、得もなし。

得る所なきを以ての故に。

觀自在菩薩

行深般若波羅蜜多時

照見五蘊皆空

度一切苦厄

舎利子

色不異空

空不異色。

色即是空。


空即是色。

受想行識。


亦復如是。

かんじーざいぼーさつ


ぎょうじんはんにゃー           はーらーみーたーじー

しょうけんごーおんかいくー


どーいっさいくーやく



しゃーりーしー


しきふーいーくー


くーふーいーしき


しきそくぜーくー

くうそくぜーしき


じゅそうぎょうしき



やくぶーにょーぜー

觀自在菩薩

深般若波羅蜜多を行じし時、

五蘊皆空なりと照見して、


一切の苦厄を度したまえり。

舎利子よ、

は空に異ならず。


空は色に異ならず。


色はすなわちこれ空。

空はすなわちこれ色なり。

受想行識も




またまたかくの如し。

写真:
中国、桂林 漓江
2005年11月撮影。

菩提薩捶。

依般若波羅蜜多故。

心無圭礙。

無圭礙故。

無有恐怖。

遠離一切。

顛倒夢想。

究竟涅槃。

三世諸佛。

依般若波羅蜜多故。

得阿耨多羅三藐三菩提。

写真:
岐阜県
大白川高原
2005年10月撮影。

しゃーりーしー


ぜーしょーほうくうそう


ふーしょうふーめつ



ふーくーふーじょう


ふーぞーふーげん


ぜーこーくうちゅう


むーしきむーじゅそうぎょう
しき


むーげんにーびーぜつしんにー


むーしきしょうこうみーそく
ほう

むーげんかい



ないしーむーいーしきかい


むーむーみょう




やくむーむーみょうじん


ないしーむーろうしー


やくむーろうしーじん



むーくーしゅうめつどう




むーちーやくむーとく


いーむーしょーとくこー

舎利子。

是諸法空相。

不生不滅。

不垢不浄。

不増不減。

是故空中。

無色無受想行識。

無眼耳鼻舌身意。

無色聲香味觸法。

無眼界。

乃至無意識界。

無無明。


亦無無明盡。

乃至無老死。

亦無老死盡。


無苦集滅道。


無智亦無得。

以無所得故。

写真:
福井県永平寺
2004年11月撮影。

観自在菩薩は、

深遠な真実の認識を実践なさったときに、

われわれの存在を構成している五つの要素はみな空なりと見きわめられ、

一切のわれわれの苦しみをお救いになられた。

シャーリプトラ、(仏陀の第一のお弟子。)
この人によって仏教教団が発展した。

色とは、ルーパ、物質的な姿かたち。

空とは、何もない虚無ではなく、現実に展開するもの。

われわれの物質面というものは実は空なの
である。
空というものは実は物質的なかたちとして
展開するものである。

「受」は感受作用。「想」は心に想う表象
作用。
「行」はわれわれをうちから作り出
す作用。
「識」は識別作用、意識をしてい
ること。
われわれの存在を構成する五つはいずれも
空である。そして、空がまた色・受・行・
識としてあらわれ出ている。

まかはんにゃはらみつたしんぎょう

写真:

菩薩立像 重文 
七世紀中頃
銅造
像高 20.0cm
奈良県 斑鳩町 発起寺

日本美術全集 第二巻 
『飛鳥・白鳳の美術』法隆寺と斑鳩の寺

鈴木嘉吉、学習研究社 1978

 大きな半楕円形の宝冠を着け、左右の手に
宝珠をつまんだ観音の像容であるが、宝珠を
持つゆえか寺では虚空蔵菩薩と呼んでいる。

 原容は火中によってかなり損われており、
細部の表現は明瞭には把握しにくい。また宝
冠・胸飾・天衣(てんね)などに施された毛
彫り文様の形態もほとんど確かめられない。