空 の 思 想

  『般若心経』

 では、仏教哲学のコアをなす「空」の思想とはなにか、と
いう問題になる。


 「空」に対するアプローチとしては、大雑把に言って四つ
あると思われる。


      1.      『般若心経』  
      2.      竜樹による『中論』
      3.      聖徳太子による『勝鬘経義疏』
      4.      ジャータカ(釈迦前世譚)などの詩句からの推論

 まず、『般若心経』だが、短い文章なので別欄に

              大本山永平寺発行『修證義』より。(一部改変)
              『仏典を読む3 大乗の教え(上)』中村元 岩波書店 2001

による全文を載せた。ご参照いただきたい。

 この『般若心経』の和訳を読むと、「ない」、「ない」づくしで、結局
なにも「ない」ことになる。後半部分を取り出してみよう。


       この世においては、すべての存在するものには実体がないという特
       性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚
       れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということも
       なく、増すということもない


       それゆえに、シャーリプトラよ、

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく
表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻も
なく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく
香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない
眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。


[さとりもなければ、]迷いもなく[さとりがなくなることもなけ
れば、
]迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死
なく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。
苦しみも苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する
道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得ると
いうことがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、
心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れ
なく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのであ
る。


過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の
完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。


 「ない」が実に42もある。このように42個の「ない」で構成された文章
は、中村元の翻訳が意図したようには、その中味を私たちに伝えない。読
んでも意味がさっぱりわからない。

 なぜ「ない」のか、という理由が前半部分に書いて
ある、と主張されるかもしれない。


    この世においては、物質的現象には実体がな
    いのであり、実体がないからこそ、物質的現
       象で
[あり得るので]ある。

実体がないといっても、それは物質的現象を
離れてはいない。また、物質的現象は、実体
がないことを離れて物質的現象であるのでは
ない。


[このようにして、]およそ物質的現象という
ものは、すべて、実体がないことである。お
よそ実体がないということは、物質的現象な
のである。

だが、

           物質的現象には実体がない。また、実体が
       ないということは、物質的現象な
のである。」

という理由付けはまことに説得力がない。

 紅葉は物質的現象である。

 訳者は、この紅葉という物質的現象には、実体
がない、と主張しておられる。


 そして、実体がないことこそが、紅葉の本質で
ある、と主張している。


 現代に生きるわれわれにとって、このような説
明はまったくナンセンスである。


 「紅葉は、実在する木の葉のなかにアントシア
ンという化学物質が生成して、発色するのである。
アントシアンが紅葉の本質である。」と説明され
るとようやく納得する。


 だから、中村元によるこの『般若心経』の翻訳
はどこかが間違っている。現代人にとって理解で
きる説明になっていない。現代の用語に翻訳され
ていない。

 当代の超一流とされる学者による翻訳が上のとおりの有様であるから、仏教哲学
のコアとされる「空」という概念は、現代人にとって理解不可能となっているばか
りか、先に述べた和辻哲郎のように、「理解できなくても問題はない」という受け
止め方になってしまった。『般若心経』の最後の部分は、もともとサンスクリット
語を翻訳しないまま、呪文として使っているのだが、私の考えでは、いまや『般若
心経』全文が「呪文」になりかわっている。


              説般若波羅蜜多呪              せつはんにゃーはーらーみーたーしゅー

              即説呪曰                           そくせつしゅーわつ

             
羯諦羯諦                           ぎゃーていぎゃーてい
 
             
波羅羯諦                         はーらーぎゃーてい
 
             
波羅僧羯諦                      はらそうあし―てい

             
菩提薩婆訶                      ぼーじーそわか

 蛇足だが、ワイド版岩波文庫 8 『般若心経、金剛般若経』の解題によ
れば、法隆寺には『般若心経』のサンスクリット写本が保存されており、
「西暦
609年(推古天皇17年)に小野妹子がシナから伝来したものであ
ると伝えられている」そうだが、もしそうならば、聖徳太子が御自ら取り
寄せられたものにちがいない。聖徳太子は、サンスクリット語にも長けて
おられて、『般若心経』を正しく理解されておられた、と考えてよいかも
しれない。

写真:
    大白川高原(岐阜県)の紅葉、
        200510月撮影