写真:左下
     釋迦牟尼佛銅像
        Sakyamuni Buddha
        北魏(西暦386534年)
        通高35.5cm
        上海博物館
       『中國古代雕塑館』

百 済 観 音 の 本 質

 何回も繰り返すようだが、いったん先
に直線的で一方向のベクトルを持つドイ
ツ哲学を学んでしまうと、日本の精神文
化とは相容れなくなり、本人もさて、ど
こが間違っているのか、どこで間違った
のか、どうして間違ったのか、の自覚さ
えもなくなってしまう。気をつけよう。

 さらにもう少し突っ込んでみよう。上のSecond Paragraphである。

quote
  抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、――しかもそれを嬰児(えいじ)のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、――しかもそれを目でもって見得るということは、――彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。                  (同)
unquote

 この文章は、前提条件がおかしい。どこがおかしいか読者にも考えていただかねばならない。筆者は次のポイントがおかしい、と考える。

1.      和辻哲郎は、百済観音が日本人の手によって創作されたものではなく、輸入されたものであり、

2.      かつ、これを尊んだ日本人は、「仏教のことなどなにも知らぬ、あたかも嬰児のごとき」存在であって、

3.      基本となる仏教哲学の本質を知悉しないまま、仏像の形態と容貌から、超人的存在を推定する程度の(低い)知的水準であった。

と断定しているところである。後述の勝鬘経義疏を熟読していただければ、ご理解いただけると筆者は確信するが、現代のわれわれ(和辻哲郎をふくむ)よりは、当時の知識人のほうが、人間学については、つまり、人間の心のなかについては、はるかに進んでいて、仏教哲学の核心を充分に理解したうえで、仏教哲学を表現するための手段として百済観音を造った、と考えるべきであろう。われわれ現代人が仏教哲学を理解しないまま(理解できないまま)、「神秘的、超人的存在、理想としての浄土」をイメージするのは、順序が逆である。そう、思う。

(Second paragraph)

 冒頭に、
              超人的存在の表現
と哲学用語を使いながら、しかも
              浄土の象徴
という信仰に依存する宗教用語が飛び出す。これは和辻哲郎の頭の
中で概念が混同していることをしめす。観音
@(「空」の哲学)と
観音
B(来世の利益)との混同が発生している。

 また、再度、
              神秘的なもの
という「不可知」単語が出てくるから、結局和辻哲郎は仏教のこと
はなにもわかっていないのだ、と改めて推定がつく。


(Third paragraph)
            慈悲
という単語がでてくる。これは法華の『観音経』の思想であると同
時に、『無量寿経』に説かれる宝蔵菩薩の精神である。つまり、こ
こでも信仰に属する宗教用語を哲学用語と混同したのである。

 当の本人は、
              神秘的な清浄な感じ
すなわち、理解することは不可能である、と表現しながらも、突然
contextの整わぬまま
              生の美しさ
というドイツ哲学用語をつかってしまう。しかも
              どことなく気味悪さ
              病理的と言っていいほどに烈しい偏執
              深淵

 百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激
を物語っている。あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑
らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて
人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。あのか
すかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のよ
うにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲
ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、
病理的と言っていいほどに烈しい偏執
を度外しては考えられない。
このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。面長(おもな
が)な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。


 ――六朝(りくちょう)時代の技巧を考慮せず、ただ製作家の心
理を忖度(そんたく)してこの観音の印象を裏づけようとするごと
きは、無謀な試みに相違ない。しかし百済観音の持っている感じは
こうでもしなくてはいい現わせない。あの深淵(しんえん)のよう
に凝止(ぎょうし)している生の美しさが、ただ技巧の拙なるによ
って生じたとは、わたくしには考えられぬ。
                                                                                      (同)

 百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。そこには簡素と明晰とがある。同時に縹渺とした含蓄がある。大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。
                (和辻哲郎『古寺巡礼』
                      ワイド版岩波文庫
1991P67


 抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、――しかもそれを嬰児(えいじ)のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、――しかもそれを目でもって見得るということは、――彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。                                  (同)
              注:       原文では下線部分は傍点となっている。

という表現が「生の美しさ」の中身であるかのような矛盾する規定を立ててしまう。こうなると論旨はまるきり支離滅裂となる。

以下、説明する。
(First paragraph)

 百済観音にかんする上記の記述を、まず青字の箇所を抜き出すと、

              鋼の線条のような直線
              鋼の薄板を彎曲させたような
              硬く鋭い曲線
              簡素と明晰
              縹渺とした含蓄
              何か抽象的なもの

となるが、これらは、こそげ落とせるものを一切落としてしまったスリム形であり、抽象的な哲学を表現するに際して用いる表現である。

 したがって、百済観音の表出するところは、実は仏教哲学であり、具体的には観音菩薩@の「空」を意味する。逆に言えば、百済観音は「空」の可視化、すなわち、「空」のヴィジュアライゼーション(visualization)を狙って造立されたのであろう、との想定が簡単につく。

 だが、ケーベル博士によって教育された和辻哲郎は、これが「空」の視覚化されたものであるという認識にはまったく到達しない。そもそも「空」の概念が欠如しているからだ。

 彼の認識は、

              何か神秘的なもの

なのである。「わたしにはわからない、わからないけれども、抽象的ななにか」なのである。

 こうして百済観音の創作者と近代日本の若き哲学者のあいだに大きな越えがたい懸隔が生じてしまった。和辻哲郎の『古寺巡礼』以降現在にいたるまで、仏教哲学は「わからなくても当たり前」という思い上がった気風が成立してしまった。

 和辻哲郎の『古寺巡礼』をもう一度覗いてみよう。

写真:
葛井寺(ふじいでら)(大阪府)
千手観音坐像(部分)
脱活乾漆造 漆箔 131.3cm 奈良時代 国宝
藤森武写真集 『日本の観音像』
執筆者:頼富本宏、田中恵
(株)小学館
2003

観音菩薩A(現世利益)のカテゴリーに属する千手観音。
救世のため、あらゆる手立てを尽くす有難い観音様。

写真:
      観音菩薩立像(百済観音)国宝 

         七世紀前半
         木造彩色
         像高 210.9cm
         大宝蔵殿
         日本美術全集 第二巻 
     『飛鳥・白鳳の美術』法隆寺と斑鳩の寺

          鈴木嘉吉、学習研究社 1978
          楠の一木造り。

  鎌倉時代までの寺の記録にはまったく記載さ
れておらず、ようやく江戸時代の記録(『諸堂
仏躰数量記』、『古今一陽集』)の虚空蔵菩薩
と記され、なお異朝将来とか百済より渡来云々
といった古老伝を附している。おそらく鎌倉以
降、江戸までの間に他寺より移安されたものと
思われる。

写真:
法隆寺夢殿救世(ぐぜ)観音像

620年代造立、飛鳥時代
像高178.8cm木造。
『サライ』2005 1020日号、
小学館

聖徳太子を追福するため、739年に建立された夢殿の本尊。
表面に漆と白土で下地を塗り、金箔が押してある。