「唯一の実在」の正当性(2)
  − 断定に伴う「客観性」

 さらに認識論の問題がある。「純粋経験が唯一の実在である」と言い切るためには、人間の全員が「純粋経験」に到達できることが前提となる。

 「純粋経験」、あるいは「直接経験」、あるいは「神秘体験A」は、そこに到達することのできる人の数が限られている。少数者しか到達できない真理ははたして「絶対的真理」を構成できるのか、という問題がある。

 ジョン・ロックは『人間知性論』のなかで言った。

もしあらゆる国の賢者たちはの一
性と無限性について真の想念を持つよ
うになったと言われれば、私はこれを
認める。が、そのとき、この論は、第
一、承認の普遍性を名目のほかにはな
にも許さない。なぜなら、賢者はごく
少数で、おそらくは千人に一人だから、
この普遍性はごく限られている。
             
(1-4-16)

ジョン・ロックの考えによれば、純粋経験に到達できる人の数は1,000人に一人しかいない。このようにごく限られた人数の人たちだけが到達できる認識は、残りの999人にたいする拘束力を持ち得ない、とジョン・ロックは1689年に述べた。

 つまり、民主主義の観点からすれば、ごく限られた人たちしか経験できない精神上の現象をもってして、価値の基準とすることは、すでに1689年の時点で禁じられており、幾多郎のように「断定」しても、その断定の他人にたいする拘束力が成立しないのである。

 つまり、言葉を換えれば、幾多郎によるこの断定は「無効」なのである。断定しても効力がないのである。

 では、自分でも正体がわからない「矛盾」の存在を認め、それを哲学の根拠とすること、ならびに認識論上の無効を無視して、「純粋経験が唯一の実在である」と断定するとどのような不都合が発生するのか、これを次項で考えて見たい。

 蛇足なのだが、この認識論の問題は、ライプニッツ
降のドイツ哲学の存在意義をどう考え、どう捉えるべきか、
という肝心要(かなめ)のポイントに関連している。

この問題は第二次大戦の終了と同時に決着がついた。敗
戦国はいずれも民主主義を選んだのである。国体に二つ
の哲学が同時的に成立することはない。

すなわち、民主主義を採用している国においては、何人
も「純粋経験が唯一の実在である」と言い切る権利は与え
られていない。

画像:
    法橋宗達(生没年未詳)
   『西行物語図』(渡辺本)
   重文 紙本著色 
   絵詞六巻のうち

   東京 渡辺家
      山根有三
   『原色日本の美術第十四巻
   宗達と光琳』
   小学館 
1969

     鳥羽上皇に仕え北面の武士であった西行(1118~90)は、二十三歳のおりに、同族の藤原憲康(のりやす)の突然の死にあい、無常を感じて出家する。僧となった西行は諸国を巡り傑出した和歌を数々詠んで後世にその名を残した。

西行が天竜川の満員の渡船の中で、鞭打たれて負傷したところ。伴の僧侶は嘆きかなしんだが、西行は平然としていたという。

なお、ref. http://www.st.rim.or.jp/~success/hibouryokuS_ye.htm

さらに、
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html
をしむとてをしまれぬべきこの世かは身をすててこそ身をもたすけめ
                                  [玉葉2467]