自  然

   第八章 自然

 実在はただ一つあるのみであって、その見方の異なるに由りて種々の形を呈するのである。自然といえば全然我々の主観より独立した客観的実在であると考えられている、しかし厳密に言えば、斯(かく)の如き自然は抽象的概念であって決して真の実在ではない。自然の本体はやはり未だ主客の分れざる直接経験の事実であるのである。

・・・・・・・・

(右にいったような)統一的自己があって、而(しか)して後自然に目的あり、意義あり、甫(はじ)めて生きた自然となるのである。斯の如き自然の生命である統一力は単に我々の思惟に由りて作為せる抽象的概念ではなく、かえって我々の直覚の上に現じ来(きた)る事実である。我々は愛する花を見、また親しき動物を見て、直(ただち)に全体において統一的或者を捕捉するのである。これがその物の自己、その物の本体である。美術家は斯の如き直覚の最もすぐれた人である。彼らは一見、物の真相を看破して統一的或物を捕捉するのである。彼らの現わす所の者は表面の事実ではなく、深く物の根柢に潜める不変の本体である。

 冒頭に「実在はただ一つあるのみ」という仮定が再びでてくるが、この真偽の検証は一旦横に置くこととして、幾多郎は、ここではじめて彼の主張する純粋経験が、すなわち生命の実体そのものであると説明する。すなわち人が純粋経験に至れば、自然のなかの動植物の内に、人間と同種類の生命を読み取ることができるようになる、と主張する。

 松篁の告白ともぴったり一致していて、疑問の余地がない。

画題:
The Starry Night, 1889, 73x92cm.
New York, Museum of Modern Art.

http://www.e-mpressionism.net/vangogh/gogh12.html

プラトンの『パイドロス』を思い出そう。
 
「不死と呼ばれるものの魂は、穹窿のきわまるところまでのぼりつめるや、天球の外側に進み出て、その背面上に立つ。回転する天球の運動は、そうして立った魂たちを乗せてめぐりはこび、魂たちはその間に、天の世界を観照する。」

林武の言葉を思い起こそう。
「杉林の樹幹が、天地を貫く大円柱となって僕に迫ってきた。それは畏怖を誘ふ実在の威厳であった。形容しがたい宇宙の柱であった。」

このような「純粋経験」の内的感覚をもっとも美しく忠実に描き出しているのが、ゴッホだと言われる。

そのときに、世界は光の粒子で埋め尽くされ、生命体は光を発して、揺れ動く。

 ゲーテは生物の研究に潜心し、今日の進化論の先駆者であった。氏の説に因ると自然現象の背後には本源的現象 Urphänomenなる者がある。詩人はこれを直覚するのである。
・・・・・・・・・
             (『善の研究』岩波文庫)