実在としての神

 読んだとおりである。直接経験の内容はすなわち神そのものであって、宇宙を統括し、一に喜びを与え、自然との合一感を与えてくれるのである。

 少なくとも、神秘体験Aに到達したひとは、このように感じるのである。

画像:
    青木繁
(1882-1911)
   『輪転』1903
       油彩 カンヴァス
        ブリジストン美術館
       『現代日本美術全集7
     青木繁
/藤島武二』
         集英社1973
         作品解説:青木繁  河北倫明

   なにか叫び声をあげて迫ってくる
      ような不思議な魔力。

   第十章 実在としての神

・・・・・この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直(ただち)に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。
  ・・・・・・
 然らば我々の直接経験の事実上において如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実在の統一力が潜んでいる、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神その者を証明するのである。ヤコブ・ベーメのいったように翻(ひるがえ)されたる眼 umgewandtes Auge を以て神を見るのである。
    ・・・・・・・・・・
  神は如何なる形において存在するか、・・・・・・・・・・神は全く無である。・・・・・・・・・・神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である、ただその能()く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。
  ・・・・・・・・・・
  ・・・・而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。
        (『善の研究』岩波文庫)

 ヤーコブ・ベーメの体験談については、William James『宗教的経験の諸相』に詳しく書かれているから参照すること。神秘体験Aの典型的な例である。ただ、ヤーコブ・ベーメはそれを「純粋経験」ではなくて、聖書に書かれている神である、と考えた。

 つまり、この章における幾多郎の論旨は、読者が神秘体験Aに既達していることを前提として成立している。
 神秘体験Aに到達していないひとに対しては、直接経験に到達すれば、あなたもこのような心境に到達することができる、という暗示をかけているにすぎない。