精  神

     第九章 精神

・・・・・・・

・・・・実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。・・・・・・・・がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。

・・・・・・・

然らば何故に実在の統一作用が特にその内容即ち統一せらるべき者より区別せられて、恰も独立の実在であるかのように現わるるのであるか。そは疑もなく実在における種々の統一の矛盾衝突より起るのである。実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾した時、この統一が明((あきらか))に意識の上に現われてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。・・・・・・・・
                               

・・・・・・・・理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。

                                 (『善の研究』岩波文庫)

 もともと直接体験のさいは、主観、客観、精神、物体の区別はなく、現出するのは生命そのものであり、生命の意志であり、実在であったが、いったんこの瞬間を過ぎると、直面するのは直接経験の内容と矛盾・衝突する意識である。これらを再度統一する統一力が精神であり、相矛盾し、相衝突する事象意識があればこそ、私たちは自己のうちにこれを克服する精神あるいは精神力を認識できるのである、と幾多郎は力説する。

 なぜ直接経験の内容と異なる意識が生ずるかにつき、幾多郎の説明は、

 「それが実在の性質だからだ」

 「むしろ逆に矛盾衝突する意識がなければ、実在も成立の根拠を失うからだ」

 「矛盾・衝突があってこそ、それを基盤として再統一ができるのだ」

というもので、再統一を無限に繰り返すことによって、直接経験は広がりと深さを増していくものだ、と主張する。

 これは誤りである。ゲーテは「詩と真実」(小牧健夫訳、岩波文庫)のなかで次のように述べている。

 このやうな明覺は、獨得の仕方で無限を
        暗示するものであるから、その發見者
に無
        上の喜びをもたらす。この確信に達するに
        は、少しも時間の經過といふこと
を必要と
        しない。この確信は、一瞬のうちに完全無
        欠に現はれる。


 純粋経験というものは本質的に“完全無欠”なのであって、幾多郎が申し述べるがごとく、矛盾・衝突後の再統一などという精神作用はありえない。

 幾多郎の生きた時代が、儒教色の濃い時代であったことを理由として、幾多郎に好意的に解釈するとしても、儒教倫理に近づけるための強引なこじつけは許されるものではない。

 また、当時の哲学界で弁証法が重用されていた事実を慮ることとしても、弁証法は論理の通用しない神秘体験には馴染まない。弁証法は、覆すことのできない相対立する論理がそこに存在して、初めて妥協を成立させる性格を持っている。絶対唯一の真実がある場合には弁証法は成立しない。

 あまり理論をややこしくしないために、精神とは「直接経験の内容と異なる、矛盾する、衝突する意識を識別する作用である」と定義づけておけば如何であろう。この方が単純明快であり、実際的であり、実態に即していると思う。

画題:

浅井忠(1856-1907)
『旅順戦後の捜索』1895
カンヴァス 油彩
東京国立博物館
『現代日本美術全集16 浅井忠/黒田清輝』集英社 1974
解説:鈴木健二

 朝鮮半島の内乱をきっかけにして状勢が険悪化していた日清両国は、1894725日ついに武力衝突し、81日に日本は清国に正式に宣戦布告した。浅井は時事新報の通信員として従軍。秋に旅順攻撃を観戦した。


この濁った色調をみよ。そこには明快な輪郭が描かれない精神の混濁状態が読み取れる。
理論はそこには存在しない。あるのは腕力と暴力による蹂躙である。
このような時代を背景に『善の研究』が構築されたのだ、と理解すれば、「辻褄が合わない」ことは世間一般の常識であった、と理解できよう。

写真:
明治36年5月
上田閑照『上田閑照集−第一巻』
岩波書店、2001 p8
3