祥雲寺というのは、小布施の町のなか、高
井家の前にある曹洞宗のお寺である。高井家
先祖代々の墓がここにある。

 落魄した鴻山は他におとずれる場所もなく、
墓場の中をさまよい歩く。天は我に味方せず、
無駄な悪あがきをしたあとに残る空しさを鴻
山はかみしめる。

画像:

『高井鴻山妖怪画集』小布施町 1999

高 井 鴻 山 漢 詩 選 集 (1)

 人生経験が豊かな方であれば、このようなペシミズムが老境の私
たちに刻々と迫ってくることをご理解いただけることだろう。

 だが、鴻山の場合、彼の感性は、このような単なる感傷的な悲観
論を大きく乗り越えて、正体のわからぬ暗黒の世界に到達してしま
っている。

 そして、理由のわからぬ、正体のわからぬ暗黒の宇宙を表現する
のに、鴻山は「妖怪」というイメージを使った。

 ウイリアム・ジェームズがもう少し詳しく鴻山の心境を説明する。

あらゆる善きものが滅びてしまう。富は飛び去る。名声は一息
(ひといき)の間にすぎなくなる。愛は欺瞞となる、青春と健康
と快楽とは消えうせてしまう。つねに塵(ちり)に帰り失望に終
わるものが、果たして私たちの魂の求める真の善でありうるであ
ろうか? あらゆるものの背後には、普遍的な死という偉大な幽
霊が、一切を包含する暗黒がある。――


      (『宗教的経験の諸相』上P212 桝田啓三郎訳、岩波文庫)

 「人生のむなしさ」を、あの勢威を振るったイスラエルの王ソロモンが、
同じように紀元前
1000年に詠っている。


 「日の下に、人の労してなすところのもろもろの動作(はたらき)は、
その身に何の益かあらん。われ、わが手のなせしもろもろの業(わざ)を
見たり。ああ、みな空にして、風を捕うるが如し。世の人に臨む所のこと
は、また獣にも臨む。是も死ねば彼も死ぬなり。みな塵より出で、みな塵
にかえるなり。
……死ぬる者は、何事をも知らず、また、応報(むくい)
を受くることも重ねてあらず。その憶えらるることも、遂に忘らるるに至
る、また、その愛(いつくしみ)の悪(にくしみ)も嫉(ねたみ)もすで
に消え失せて、彼らは日の下におこなわるることに、もはや何時までも関
(かかわ)ることあらざるなり。
……それ、光明(ひかり)は、快きもの
なり。目に日を見るは楽し。人多くの年生き存(ながら)えて、そのうち
凡(すべ)て幸福(さいわい)なるもなお幽明(くらき)の日を憶うべき
なり。そは、その数も多かるべければなり。」

(旧約聖書のうち、『伝道の書』コレヘトの言葉)
                           W. ジェイムズ 桝田啓三郎訳『宗教的経験の諸相』
                (上)岩波書店
1969 P212