ABとの独立性 (2)

著作権の関係で画像を省略するが、次を参照すること。

画像:

http://www.nga.gov/feature/picasso/large/tragedy.htm

Pablo Picasso
The Tragedy, 1903
oil on wood, 1.053 x .690 m (41 7/16 x 27 3/16 in.)
National
Gallery of Art, Washington
Chester Dale Collection

 ジェームズが述べているB体験の内容は、整理すると次のような構成とな
っている。

1.      それは何の前触れもなく、突然襲いかかってくる内的体験で
ある。

2.      それは本人がそうあれかしと期待して受けた経験ではなく、
当人にとっては受動的経験である。

3.      生命感覚が消失しており、死の匂いがたちこめる。私自身が
死に直面している。

4.      自らが崩壊し、宇宙の存在は消え失せる。

5.      思考は働かず、直観的なかつ直接的な死の把握である。

6.      自己の本質の省察ともいえる性質のもので、その感覚は「啓
示」に近い。

7.      経験は短時間であるが、その恐怖の記憶は永く後を引く。



 松篁の生命体験と比較すると、経験された内容は異なるものの、


              内的経験であること、

              受動的な経験であること、

              あたかも(魔)神の啓示であるように理解されること、

              短時間に消失するがその記憶は明瞭に残り、後をひくこと、


・・・・の諸点で完全に一致している。また、ゲーテ並びに龍之介のB経験
と経験の内容自体もぴったり符合する。

 松篁は生命の扉をこじ開けたのだが、ジェームズは、生命の扉を開ける前
に、死の扉をこじ開けてしまったのだ。彼が望んでそう取り仕切ったのでは
ない。自然がそのように取り計らったのである。

 ジェームズのような「AなしのB」の人達にとって、かかる事態は救われよ
うがない。
Aなしの状態であるから、価値の逆転も、その発想さえも生まれて
はこない。ただひたすら耐える以外に方法がない。耐えてどこに帰れるという
わけでもない。幸いに、
Bが出現する時間は(Aと同じく)永くはないから、
その瞬間はじっと耐えて、後に尾をひく怖さを時間をかけて癒すのである。

 どうやってその瞬間を耐えたのですか、と或る人に尋ねられて、ジェーム
ズは次のように答えた。



               「もし私が、『永久(とこしえ)にいます神は、わが避所(かく
           れどころ)なり・・・・・』
『すべて労する者、重荷を負う者、
           われに来(きた)れ・・・・・』『われは復活
(よみがえり)な
           り、生命(いのち)なり・・・・・』などという聖書の言葉に

           がらなかったならば、私はほんとうに気が狂ったにちがいない、
           と思われるほ
ど、それほど強くその恐怖が私を襲ったことを言お
           うとしたものです。」

                            (『宗教的経験の諸相』桝田啓三郎訳、岩波文庫)



 「AなしのB」の人にとっては、したがって、哲学の中味は一義的に「B
ら逃れる方法論」、あるいは「
Bの境地より救われること」、つまり「救いの
哲学」に傾いてしまう。ジェームズのプラグマティズムはこの観点から構成し
た哲学なのである。

画像:

http://www.clevelandart.org/explore/departmentWork
.asp?deptgroup=2&recNo=646&display
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