当 時 の 新 聞 記 事 (2)

写真:
華厳の滝
撮影日 : 2003/10/17
画像提供 : (社)日光観光協会
http://www.nikko-jp.org/cgi-bin/
imgsys/v_image.cgi?10:617:0:2

引き続き、報知新聞の記事を読み進もう。


           明治36531 

           投瀑少年

        藤村操が家出より一月程前の暗夜に親友藤原正と共に不忍池
   の畔を散歩しながら人生問題の解決すべからざる事を論じたる
    末に左の一首を口吟(くちづさ)めり

         願はくは煩悶(もだ)へ煩悶へて我死なん
           おつに悟りてすまさんよりは

  操が親戚朋友に遺せる紀念(かたみ)は書籍には決別謝恩、
又は告誠等の語を一々書き入れてありて字々皆涙の種ならぬは
無しとまた操が華嚴の茶屋に至り瀑(たき)の落口の方を熟視
し居たるは二十二日の午後二時頃なり三時頃に弘前の人佐藤英
助永井庄兵衞の二人茶屋の下なる四阿(あづまや)に降り寫眞
を取らんとて偶然(ふと)瀑の上を眺むれば巖頭に立てる人あ
り「危(あやふ)き所に至る人もあるもの哉高き洋服姿なれば
西洋人にてもあらん」など云ひながら瀑(たき)の寫眞を取り
去れりされば操が末期(いまは)の姿はその寫眞の内に入りた
るならん、操の死體は發見の見込無きに由り親戚門友相謀り來
る六月四日午後三時三十分谷中共葬墓地の齋場に於て招魂の祭
を行ふとの事なり。

 このような散逸しかけている関係資料を読み漁ってみると、読みとれ
ることは、藤村操の死んだ理由は「宇宙の原本義がわからない」、また
「人生の第一義がわからない」、つまり何もかも「不可解」であるとい
う一点につきるようだ。


 しかし、人生が不可解だから私は死ぬよという主張も素直に受取れる
理屈でないことも事実だ。


 この時点で父上は亡くなっており、兄二人も養子に行ったか亡くなっ
ていたかのようだ。この三名が冥土から「操よ、そろそろこちらへ来い
」と呼んでいたのかも知れぬ。或いは衛生状態の悪かった当時の世相か
らすると、死は現在の我々よりも遥かに身近に存在していたことも事実
で、死の向こう側になにがあるのか知りたくなったのかも知れぬ。

 明治36年という年は横浜の街に黒死病が何度も発生し、その都度人は
バタバタと亡くなっていったし、その都度周囲の街区は黒死病撲滅のた
め焼き払われるほどの劣悪な衛生状態だったのだ。外国より持ち込まれ
たペスト菌はさておいても、死病と見做されていた肺病はそこらじゅう
に蔓延していた。


 にもかかわらず、藤村操が斯様な死病にとりつかれていなかったこと
も事実である。死人が墓の中から操を呼び込んだというのも無根のあや
しい憶測に過ぎない。

 真の理由を推測するためのヒントを藤村
操はただひとつ残していった。辞世の言葉
「巖頭の感」の中で述べた「ホレーショの
哲學竟(つひ)に何等のオーソリチーに價
するものぞ」がそれである。

画像:
第五回内国博覧会
中央大通路の両側のパビリオンを飾るイルミネーション
「風俗画報」から
朝日クロニクル
「週間
20世紀1902-3明治3536年」
朝日新聞社、19991219日発行

藤村操が哲学論を展開しているあいだにも
世間は浮かれていた。

大阪市天王寺で開かれた第五回内国勧業博覧会は
明治
3631日から731日までの会期で、
合計530万人の入場者があった。
日露戦争の前年のことである。