僕 の 魂 の ア フ リ カ

 こうしてなにもかも無駄になる。

 自殺の原因は、


              何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。


と書いたってまったく意味がない。

 死ぬからには自己の内面を調べ上げ、価値基準を創り、十二分の確信を持
って死ななければ、人はこれを人間とはいわぬのだ。何度も繰り返すが、人
間というものは、理性で理解しうる、自分で納得しうる、合理的な、かつ合
目的的な悟性を求めているのだ。

・・・・・とこう書けば、龍之介はただの馬鹿になるのだが、そうはならな
い。龍之介はやはり天才なのだ。死の床に向かう人間の内面を見事に描写す
るばかりか、その基本的姿勢にはてらいがなく、自らに忠実で、ひたむきの
探究心がある。

 視点を変えて考えてみれば、世の中に自殺者は掃いて捨てるほどいるが、
ポジの世界の絶対認識と価値観をもってなおかつ自殺する人などほとんどい
ない。大部分の自殺者は、帰るべき絶対認識を持たぬまま、すなわち無明の
まま、不安と恐怖にうちふるえ、来るべき暗黒の世界に目を閉じて、そして
飛びこむのである。

 龍之介の「闇中問答」の「僕」は次のように言う。


               僕の意識してゐるのは僕の魂(たましひ)の一部分だけだ。僕の
         意識してゐな
い部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々
         (ばうばう)と広がってゐる。
僕はそれを恐れてゐるのだ。光の中
         には怪物は棲(す)まない。しかし無辺(む
へん)の闇の中には何
         かがまだ眠ってゐる。


               (注) 龍之介の時代は、アフリカのことを「暗黒大陸」といっ
                 ていたのであ
る。

画像:
ヒエロニムス・ボス
「快楽の園」(部分)
1505~16
マドリード、プラド美術館
油彩 板 220 x 389 cm
『原寸美術館』結城昌子
小学館 2005

 無明であれ何であれ、龍之介は数の上では絶
対多数の人たちの先達なのである。この人を理
解できなくて何のための哲学なのだ。

 それにしても、暗黒の世界に眠っているのは
いったい何物であろうか。

 ここで筆者は読者に提言したい。この芥川龍
之介は人間性解明にとって宝の山なのである。
したがって、龍之介の場合には純粋経験条件を
取り外そう。いや、純粋経験が有ったって無く
ったって、もともと純粋経験の範疇に入らぬ世
界の探検なのだから、条件があろうがなかろう
が関係がない。

 とは言え「若きウェルテルの悩み」に描かれ
たゲーテの内面は、純粋経験という絶対基準と
の対比であるから問題が整理されていたが、龍
之介の場合にはこれがないから論理と呼べるよ
うな論理がでてこない。また、あまりに長い期
間死の床に閉じこもっていたことと、彼自身の
年齢の所為で(歳をとりすぎているということ
なのだが)、シャープな感覚での問題の摘抉
(てっけつ)がなされていない。全身全霊これ
死で凝り固まっているから輪郭がぼやけてきて
いるのである。

 だからここはひとつ問題の分析を筆者に御一
任いただいて、筆者の注目したところだけを拾
い出し整理していこう。

 対象を『或阿呆の一生』に限定しよう。