未知の領域への挑戦

画像:
Odilon Redon (1840-1916)
“Le Bouddha”仏陀1906
Collection particuliere, Paris
花の木蔭を逍遥する仏陀。
これもフローベール
『聖アントワーヌの誘惑 第三集』から。

『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』
集英社、1971

 平塚らいてうは、女性としては珍しく純粋経験に到達したひとであった
が、そのさきをさらに探究する途中で心ならずも挫折してしまった。しか
し、筆者は彼女のために書いておこう。彼女の時代は、幾多郎が純粋経験
を基本とした『善の研究』が出版される前だったのだ。そして幾多郎のご
とく、夾雑物を体系のないものと断定して切り捨てる無謀さをもたず、ひ
たすら自分の心に忠実に、苦しい分析を試みたのである。実際、平塚らい
てうがいなかったら、筆者のこの論文もできあがっていたかどうか覚束な
い。彼女は明治以来の日本人の精神史ではまれにみる人物で、エポックメーキングな足跡を残したのだ。

 とはいえ、心中事件は彼女の住んでいた封建社会のなかで、彼女に決定
的なダメージをあたえた。なにもかも失ったらいてうは、自分で自分が身
軽になったと感じる。あれほど自分を苦しめていた憑き物はひょうとして
離れた。そして彼女は純粋経験の場へと帰っていく。

 明治25年、彼女が26歳のとき、彼女は『円窓より』(平塚らいてう著作
集第一巻、大月書店)のなかで正直に、まったく正直に、自分の気持ちを
告白している。これを読むと、誰もが平塚らいてうを好きになり、愛情を
もつようになるだろう。彼女は曲がりのない人柄であったのだ。しかもな
にものにも負けない心の強さがあった。


               とはいえ、私の心のどこかにいわゆる私の性格なるものが、
         坩堝(るつぼ)の
底の残留物のようになお沢山、こびりついて
         いることであろう。それは私がまだ
まだ至らないからである。
         そうして私はひそかに心に愧(は)じもする。けれど
その残留
         物を分析し、一々その性質を究めようとする時代はもう私から
         過ぎ去っ
たように思われる。私は自分の性格を今は知ろうとは
         思わぬ。また知る必要を感
じない。万一なお知る必要があると
         すればそれはさらにより以上に性格を滅却せ
んとする強圧を増
         さしめんがためにほかならない。

               さりながら私はこの強圧について何も言うことはできない。
         何が故にこんな強
圧を感ずるのかどうしても私には分らない。
         私自身に何の具体的の理由も見出さ
ない。しかしただ感ずるの
         だ。性格の滅却を欲する心、解脱(げだつ)を願う心、
より強
         く力ある充実せる生を求むる心、これをどうして否定すること
         ができよう。
人間の一時の物好きや、出来心とは私には思われ
         ない。また私一個に限られたも
のとも思われない。

写真:
会津箔椀「枝菊文」
個人蔵

5.2 径12.8

   浄法寺の南部箔椀には蓋の高台に枝菊を描いたものは
ないしまた、絲目の椀もないとはいえないがまだ見たこ
とがない。この椀は木地の段階から綿密な計画のもとに
作られていて、紋様は南部箔椀の枝菊紋の影響を受けて
いるとはいえ、筆勢も固く神経質で伸びやかさが失われ
ている。しかし神経の行き届いた椀である。地元の研究
家は「会津の古い椀に絲目のものがあるところから、こ
の椀は浄法寺系の会津の椀といってよいのではなかろう
か」といっている。また、この椀について、荒川浩和氏
は『漆椀百選』の総説編の中に「古くから会津に伝来し
たものといわれ、装飾法はいわゆる浄法寺椀と同系であ
る。これらは会津で製作されたという裏附けはなく、現
在行われている会津絵ともかなりの隔たりがあるが、南
部の椀を模したという伝承をたどるとすれば、その関連
性に於いて最も近いものといえよう。」と記されている
。このように、椀のような実用品については当然のこと
であるが資料が極めて少ない。そのため特に古い椀に関
してはその産地が中々解かりにくいのである。ちなみに
この椀は会津若松に五客だけ伝わっている。

『秀衡椀』
佐々木誠 編
株式会社 芸艸堂
昭和59

 研究の結果、答えはみつからなかった。ただ、答えはみつから
なかったものの、私は自分として自らやれるところまではやって
みた。社会的に私は傷ついた。しかし、それでも心残りはない。
・・・・とらいてうは主張する。

 かかる結果が、良かったのか悪かったのか、の判断は読者にお
任せしよう。結局人間は、理の整わぬまでも、したい放題(とい
うよりも、自分の心が自分に命ずるとおり)してみなければ得心
が得られないのかも知れない。

 言葉を換えると、それはまるで北極探検に成功した探険家が、
最後に残された未知の大陸である南極の探検に乗り出したような
ものである。探検家に「あなたはなぜに探検するのか」と聞くの
は野暮というものである。そこに未知の領域があり、地図ができ
ていないからである・・・・というのもおそらく正解にはなるま
い。地図を作るのが彼の目的ではないのである。理由は単に「そ
こが未知であり」、かつ、そこに到達するためには「想像を絶す
る困難が待ち受けているだろうから」、という単純な動機にすぎ
ないと筆者は考えている。この単純な動機こそ、反抗的哲学者の
真骨頂なのであろう。


 さて、次章では芥川龍之介を研究することとしよう。彼も当時の最高学府を卒業し、他に並ぶひとなき文才の名声を欲しいままにしたが、探索心のほとばしるまま、したい放題してみたのである。