行手さえ分れば、私はきっと行くよ
写真:
The
Hermitage
Panel with a Goddess Riding a Lion
First half of the 8th century
Tadjik
town of Pendjikent
Carved
wood H 25 cm
http://www.hermitagemuseum.org/
html_En/03/hm3_5_11e.html
1771.8.8.
きいてくれたまえ、ウィルヘルムよ、免れえぬ運命には
忍従せよと説く人々を、我慢がならぬと罵(ののし)りは
したが、あれはけっして君を指したわけではなかったのだ
よ。・・・・
私は君の議論を全的に承認する。承認して、しかも、そ
の「あれかこれか」のあいだをすり抜けようとする。これ
を悪くとらないでくれたまえ。
君はいう。おまえはロッテに望みがあるか、あるいはな
いか、どちらかだ。よろしい。もし第一の場合なら、それ
を成就して自分の願望を達成するようにつとめるがいい。
第二の場合なら、男らしく、おまえのすべての精力を銷尽
(しょうじん)せずばやまぬそのみじめな感情から脱却す
べく努力せよ――と。友よ! これは当然至極(しごく)
の御言葉だ。そして――いささか早まった御言葉だ。
ここに一人の不幸な人がいて、その命は潜行性疾患のた
めにじりじりと滅びてゆきつつあるとする。君はこの人に
むかって要求することができるかね、いっそ短刀の一突き
で一挙に苦しみをとめてしまえ、と? 精力を銷尽する病
苦が、同時に勇気をも奪ってしまうので、この病人はわれ
とわが身を病苦から解放することができないのではないか?
・・・・私には分らない。・・・・――まことに、ウィ
ルヘルムよ、立ちあがりかつふり棄(す)てる勇気の湧く
瞬間が、私にもないわけではない。ただそのときに――も
しも行手さえ分れば、私はきっと行くよ。
なんという絶望的な心境だろう。6月16日に知り合って8月8日には
すでに絶望の淵に立たされて、「行手さえ分れば、私はきっと行くよ」
などというセリフが出てくるものであろうか。
このように短兵急に事態が進行するのが、実際的であるかどうかの
詮索はいったん横におくこととして、ウェルテルの友達であるウィル
ヘルムは、恋煩いに陥った友に「恋の成就の可能性があるのであれば
努力せよ。可能性がないのであれば、忘れてしまえ」と常識的なアド
ヴァイスを行う。
この常識的なアドヴァイスにたいして、ウェルテルの反応は「恋は
病である。病が本人の精力を消耗させる。消耗した体力は勇気をも奪
ってしまうので、短刀の一突きで苦しみを止めること(注、自殺のこ
と)もできなくなる」と述べる。
すなわち、求めて得られないときの不自由空間から抜け出す手段は
自殺だと、ウェルテルは今回ははっきりと正面より主張する。
論理に辻褄の問題は7.16.付けですでに述べたから省略するとして、
ゲーテがここで提示する課題は「死んだらわれわれはいったいどこへ
行くのか」である。それさえ分り、かつ、そのとき体力と勇気があれ
ば、人生は振り捨てるさ・・・・というのだが、その口調にはまだ軽
やかさが残っている。
1771.8.10.
もしこのような痴(し)れ者でさえなかったら、私は無
上に幸福な生活をおくることができるはずだ。・・・・あ
あ、うたがいもなく、幸福をつくるものはただ われらの
心だ。――愛すべき家族の一員となり、老人には息子のよ
うに愛され、子供たちからは父親のように、さらにロッテ
からも! ――それからまじめなアルベルト、・・・・
・・・・彼(アルベルト)は宮廷でも評判がよく、仕事
に几帳面(きちょうめん)で勤勉なことでは、あのくらい
な人はあまり見たことがない。
自分の置かれている環境からみると、これ以上に恵まれた環境は
ないとウェルテルは考える。ウェルテルは間違いなく家族の一員と
して遇され、全員から好かれている。ロッテのいいなずけであるア
ルベルトは、とても好人物で世間の評価も高い。
望んでも得られないような環境の下でなぜウェルテルの内面の荒
廃が始まったのか、・・・・ゲーテはこの理由を説明しようとしな
い。自分が痴れ者であったから、自己責任の荒廃なのか、愛情の尽
きるところがただ単に荒廃地であっただけなにか、それがよくわか
らないのだ。