スティーブンスンの主張

 スティーブンスン曰く、神秘的・超絶的方面からの考察によれば、有り
得べき真理とは、「人間は實は一人ではなく、二人である」。


 すなわち、善と悪が人間を構成する二つの要素である・・・・と主張す
るのである。そしてこの善と悪が同一人の内に同居することこそ、「宗教
の根柢に横は」る問題であり、「人生において最も多くの苦惱を生み出す
源泉の一つ」であると断定したのである。

 彼によれば、我々の肉体とは、我々の「心靈を構成するある力より發す
る精氣と光の放射に過ぎ」ず、「實は實體を持たずに動搖する霧のやうに
果敢ないものである」と定義づけている。そして「ある力」とは、「善」
と「悪」なのだが、この二つに限定してよいかについては結論を出さず、
もっと多いのかも知れない・・・・と述べた上で、人間の構造は多分次の
ようなものであるはずだ、と予言したのだ。



              「それ故余は、人間が、究極する所、多種多様にして調和を缺
         く獨立せる住民よ
りなる一國家なることが知らる日の來るこ
         とを敢へて豫言するものである。」


                                                                    (岩田良吉訳、岩波文庫)

 ひらたく言えば、次のようになるのであろうか。

 「人間というものは、価値基準が異なる複数の(二種類以上の)パーソ
ナリティーの混合物である。したがって、価値そのものがパーソナリティ
ーによって逆転するケースも出てくるのであるから、結局は一人の人間の
中に含まれる複数のパーソナリティーの意見の多数決を以て行動基準が定
まる。あるいはその時その時のパーソナリティーの強さによって行動基準
が変わる。この多次元方程式によって描かれる人間像は、したがって、プ
ラトンの唱えた真善美のように一方向の考え方では把えきれず、招来され
る結果は「混沌」である。たとえばベクトルの完全に異なる価値基準が六
個あった場合は、人生はその時に振るサイコロの目のように、出たとこ勝
負の連続であり、人間の価値観については連続性がない」・・・・という
ことになろうか。

 しかし、このスティーブンスンの説は、自分でも究極的には理解しがた
いことを認めた上で、仮想した予言であることに注目しておきたい。


 我々は仮想を捨て去った人間の構造はいかなるものかを、これから徐々
にステップを踏んで精査してみたいと思う。

画像:
Brugel
“The Groomy Day”/暗い日
1565
Kunsthistorisches Museum, Wien
截頭柳の枝の伐採。ネーデルランドの二月、
謝肉祭の頃。

『世界美術全集10 ボス/ブリューゲル』
1978
集英社

 それにしても、スティーブンスンはこの記述のなかで黙って読みすごすわ
けにはいかない断定や推定や予言を行っている。そのうちで最も注目すべき
は次の記述であろう。



               ~秘的、超絶的方面からの考察によれば、あり得べき眞理とは、
         「人間は實は、
一人ではなく、二人である」


 これが推定でなく断定的口調で述べられており、しかもその根拠は「~秘
的、超絶的方面」からの考察だというのだが、率直に言って、スティーブン
スンの主張する「~秘的な」根拠とは何であろうか、また「超絶的な」根拠
とは何なのか、ちっとも説明されていないので読者はかなり当惑することと
なる。

 疑問は他にもある。神秘的・超絶的方面からの考察によれば、人間は二人
のパーソナリティーの混合物であると断定しておきながら、「余の知識の程
度がその點以上に進んでゐないから」ひょっとするとそれ以外にもあるかも
知れない・・・・といって折角の断定口調がくずれてしまう点である。

 一体スティーブンスンの心を悩ませていた人間精神の構造は、本当はどう
なっているのか読者は考え込まざるを得ない。

 さらにもうひとつ。彼の断定によれば、「余の肉體が、余の心靈を構成す
るある力より發する精気と光の放射に過ぎない」とあるが、「ある力」とは
何であろうか、それは二つあるのか、もっとそれ以上あるのであるか。

 また、肉体は精神に従属するようにも受けとれるのであるが、精神世界と
物質世界との接合点はいあきょうになっているのか。これらをもっと詳しく
説明して貰わねば、読者は途方にくれることになる。