善については、プラトンの「イデア」、プロティノスの「一
なるもの」、聖書に書かれている「聖霊」、受け取る側からの
術語として「恩寵」、筆者の用語で「神秘体験A」、その他ど
のように表現しようが、「例のもの」で結構だとアウグスティ
ヌスも同意する。

 したがって、問題は自己の心の中に潜む悪心の解消のさせかた、解消という言葉が不適当であるならば、処理の仕方、にしぼられることになる。

 アウグスティヌスはここで二つの処理の仕方を提案している。



 ひとつは、理屈抜きの信仰である。

 「その身をあの方になげかけなさい。恐れてはならない。あの方は身を引いて、あなたを倒れさせることはないであろう。安心してあの方に身を投げ出しなさい。(そうすればきっと)あなたを引き受けて、あなたを癒してくだされるであろう」。

 譬えていえばこうだ。街の広場に回転木馬がある。それに乗っている人たちは、皆にこにこして楽しそうな表情をしている。あの人たちは回転木馬に乗ることによって心の平安を獲得したのにちがいない。わたしも乗りたい。しかし、回転木馬は回転を続け、止まってはくれない。天使が回転木馬への飛び乗りを推奨する。「飛び乗りなさい。決して怪我などしませんから」。そして付け加える。「乗れば、楽しいですよ」。

 いくら相手が天使であっても、いや天使であるからこそ、彼女の言葉には責任感がないように思える。飛び乗ることによる転倒のリスクはカウントできない。相手が天使であるからこそ、安全の保証も得難い。さらに、転倒するだけならまだしも、最悪は回転木馬から振り落とされるリスクもある。

 通常の理性のある人間なら多分こう考えるにちがいない。そして悩む人間であるならば、悩んでいるからこそ、考えることを放棄する「理屈抜きの信仰」などにすがらないものだ。理屈抜きの信仰ができるくらいなら、誰も悩みはしない。

 口では理屈抜きの信仰を勧めながらも、アウグスティヌス自身も、この方法を採らなかったのがなによりの証拠である。



 そこで第二の方法なのだが、アウグスティヌスの場合は誰の声か知らぬが、「声」が聞こえた、のだという。

 その声は歌うように、「取って読め、取って読め」と何度も繰り返した、のだとアウグスティヌスは断言する。そしてこの声こそ彼の回心の直接の引き金である、と主張する。

 これは奇跡である。「常識では考えられない神秘的な出来事」であり、「既知の自然法則を超越した不思議な現象」(広辞苑)である。

 つまり、信仰への道は奇跡以外には方法はないことをアウグスティヌスは示唆している。

回 心 の 妥 当 性

 だが、われわれの現実の感覚から判断しても、奇跡はもはや私たちの理性による理解の限度を越えている。錯綜した「意識」、あるいは「考え」の筋道をただすためには「奇跡」が必要だというならば、われわれの住むこの世界には無数の奇跡が必要になる。奇跡とは日常茶飯事の出来事とならねばならない。

画題:調馬仕丁図 無款 
        江戸時代 (17〜18世紀) 紙本著色 掛幅
        ギメ美術館蔵
        平山郁夫
        『秘蔵日本美術大観6 ギメ美術館』、
        講談社、1994

    貴人を乗せた駻馬が暴れ出した。
    召使はこのような場合、
         どのように考え行動すべきか、
    という問題である。

    手綱を取って押さえ込む。
    振り落とされる貴人を助ける。
    乗馬のリスクであると割り切る。
    他人の助けを求める。

    だが、決して奇蹟を待たない