こうして衆知を集めて造り上げた
聖なる奥義、カトリック精神の真髄
である「三位一体」は、これが成立
する過程で、また成立後も、キリス
ト教精神に極端な硬直化をもたらし、
とてもキリストの人格とは相容れな
い性格をもつにいたった、とギボン
は非難する。


 テオドシウス帝は、百五十人の司教からなる公会議をコンスタンティノポリスに招集して、聖霊の同位神格の決議を満場一致の形で行った。が、これと同時に迫害の基本原則をも樹立した。キリスト者がキリスト者を正当な権利をもって拷問し、殺害できる原則である。

 そして彼のこの正義と篤信は聖徒たちから大歓迎をもって迎えられた。……新興の異端分派としてヒスパニアの諸属州を騒がせたブリスキリアヌス派のごときも、属州民からの上訴があり、問題はボルドーの司教区会議からトリールの帝国枢機卿会議へと移牒され、民政総督(プラエフエクトウス・プラエトリオ)による判決をもって、七名の信徒が拷問を受け、有罪として処刑された。その筆頭はヒスパニアはアビラの司教だったブリスキリアヌス当人であり、彼はその出自、家運の高さという優位に加え、学殖、弁舌という点でも傑出した人物だった。……

 ブリスキリアヌスの処刑以後は、この乱暴きわまる迫害の試みも、聖なる職権(いわゆる異端審問Inquisitionのこと)という形で一段と整備され洗練されたものとなり、それぞれの明確な役割を例会と俗界の双方が受持つことになる。つまり、定めの生贄(いけにえ)信徒は決まって聖職者の手から俗界の司政官へと引き渡され、さらに司政官から死刑執行吏の手へと渡されることになる。そして当該犯罪者の霊的罪科を、ひとたび教会が宣告すれば、それはもはや不動の判決と見なされ、ただその文面上だけは憐憫に溢れた執成(とりな)しででもあるかのごとき言辞で綴られるのだ。

                                  (同上、第27章)

異 端 審 問 と は な に か?

 これが果たしてキリスト者のとるべき態度か、とこの18世紀の歴史学者はあらためて憤慨する。彼は述べる。


 卑賤のキリスト者がこの世に送られるのは、あたかも狼の群れに放たれた羊も同然。その信仰を衛るためといえども、暴力の行使は絶対に許されなかったので、この仮の世の空しい特権や不浄の財物を争うことで、お互い同胞の血を流すなどという気になれば、これはさらに一段と深い罪業と考えられた。かの暴君ネロの時代においてさえ、なおひたすら無条件服従を説いた使徒の教義をそのまま忠実に、以来約三世紀というものキリスト教徒たちは、秘密の陰謀、公然の叛逆などといったものには一切無縁、あくまで良心の清浄と潔白を貫きつづけたのだ。苛酷をきわめた迫害にあいながらも、かりにも暴君に対して弓を引いたり、また憤りのあまりどこか僻遠の地に隠遁の生を送るなど、たえてついぞなかった。 
                                (同上、第
20章)

画題:「北野天神縁起絵巻(太山寺本)」
       第四巻 地獄における日蔵、
       鎌倉時代

       メトロポリタン美術館蔵
      『在外日本の至宝 第二巻 
      「絵巻物」』
       毎日新聞社、昭和
55

       乱暴きわまる迫害。

       聖職者は異端審問の制度により
      「鬼」に変身した。
       地獄における日蔵とは、
       ブリスキリアヌスのことか?

       場所がAvilaであることも興味深い。